母と幻の絨毯

「こぉら!フェルミ。待ちなさい」

マリス・ファーディは息せき切って娘を追いかけていた。魔女バッグが肩に食い込む。法具がぎっしり詰まっている。通学絨毯の停留所は目と鼻の先にあるが、間に合うかどうかギリギリだ。

何しろフェルミは夜明け前まで夢魔と戯れていたのだ。睡眠をつかさどる妖精の枕話は不思議と神秘に満ち溢れていて、魔法の普及したエスキスにも無い驚きを与えてくれる。もっともそれは人々を眠りに導く方便に過ぎない。非日常の世界に思いをはせるうち、たいていの人間は気力を使い果たして意識喪失する。

ところが、中には夢魔の話を聞き入るうちに好奇心が高ぶって目がさえる者もいる。夢魔のユーザーにありがちな事で依存性も少ないとされているのだが、重度の中毒者も無視できない程度に増えつつある。

あの子に限ってと慢心していた。自分の過信を責めると同時にマリスは「夫」の存在を熱望していた。

バーゼノンは典型的な母系社会だ。いつからそうなったのか男女比が極端にいびつで、稀に生まれる男児の死亡率が高い。

そこで政府は男の新生児を庇護し、出産を管理している。マリスだってフェルミの父親が誰かは顔すらも知らない。

何とか女手一つでフェルミを育ててきたが、成長するにつれ自立心が旺盛になってきた。こういう時こそ伴侶が欲しい。エリート世帯では特別に夫帯が認められる。

「誰に似たのかしらねぇ」

息を弾ませ緩い坂道を駆け抜ける。停留所は目と鼻の先にあるが、魔法女子校の通学絨毯は待ってくれない。

娘は20歩ほど先を制服にペチコートといったみっともない出で立ちで走っている。あれほど明日着ていく制服をベッドサイドに畳んでおきなさいと言ったのに。

「せめてパンだけでも食べていきなさい。入学式で倒れたらどうするの?」という指示に、しぶしぶパンだけを加えて飛び出していった。学校の制服は案の定、届いたままだ。

泣きわめくフェルミの隣であたふたと梱包をこじ開けると、上着をひっつかんで出て行った。

そして、絨毯が到着した。


ドカンと何かが壊れる音と悲鳴が聞こえたようだが、空耳だったのだろうか。娘はスカートを履かないまま絨毯に飛び乗った。

カバンはマリスの肩にある。プリーツスカートもだ。

「また、伝書竜を呼ばなくちゃいけないわ」

母親は金貨の枚数と請求額を暗算して途方に暮れた。

◇ ◇

「痛ってぇ」

ぐりぐりと頬骨に何かが食い込む。ドミトリーの視界を靴底が往復する。

「見たでしょ!正直に言いなさいよっ!」

鳥のさえずりに似た声が鼓膜に突き刺さる。

ウイッチだ。本や液晶画面でしか見た事のない「女」という生き物が自分を足蹴にしている。それにしても見聞きする以上に凶暴なけだものだ。女に関わるとロクなことが無いと父や兄から言い聞かされてきたドミトリーにとって、眼前の少女は脅威でしかなかった。

”戦場救難待機モード起動。光学迷彩展開。保護力場、セルスタート、非常時出力から実戦レベルまで暫定的にポンピング・アップ。必要最小限の環境馴化を行います”

甲冑がドミトリーの心に報告する。

「何とかいいなさいよ」

交互に踏み下ろされる靴に苛まれ、横たわっていると何かが飛んできた。小型の兵員輸送車を覆うシートとほぼ同じサイズの布が中空ではためいている。バタバタと手招きするように波打っている。それが何かドミトリの知識にはないが、乗客を促している事はわかった。

「わーっ!学校に遅れる」

女がシートに向かおうとしたとき、派手に転んだ。

「フィールドが働いているんだ。離れて」

「何言ってんのこいつ。どうして前に進めないの」

女は聞く耳を持たず、透明な壁に体当たりを繰り返す。

”敵前逃亡・作戦行動放棄・戦意喪失者検出”

物騒な警告でドミトリーは我に返った。

「危ない!下がって」

叫ぶと甲冑に命じた。「光学迷彩、最適化」

”了解しました。状況に適した表象を反映します”

少女の姿がぐにゃりと曲がって、分裂した。そして分身が絨毯に飛び乗った。

「ちょ、ちょっと待って! その子じゃなくて、あたしです!こっち」

女は身振り手振りで自己アピールする。

「ちょっと!こっちだってば!1年生のフェルミ・ファーディ。あたしです!」

必死の主張もむなしく絨毯は飛び去った。

「あーあ」

へなへなと少女はへたり込んだ。

「どぉしてくれんのよ。この馬鹿」

少年は暫くしてから、答えた。

「バカじゃない。僕はドミトリー・ジャトール少尉だ」

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