この地区は死守する
「この地区は死守する!」
3分後 小池が再び話し始める
「私は今すぐに行動を起こさなければならないと思う。感染爆発が起こる前に抑えるんだ。まずは手始めとして」そこで区切る、「カップ麺工場での作業中止の呼びかけを行うべきだ。もちろん、ただ止めてもだめだよ。そのくらいのことなら既に行っているはずだ。だから私が行くのは、別のやり方だ。それは……」
小池がそこまで言うと、一人が声をあげた。
「あの、私も一緒に行ってもいいですか?」
若い男が立ち上がった。彼は小池の言葉に賛同し、協力したいのだという。
「君は確か…… 水野君だったかな。なぜ行きたいのかね?」
「はい!僕は感染者なのです。」
室内がどよめく
「大丈夫なのかね?」
「今は元気です。」
そのやり取りを聞いた水野の顔色がみるみるうちに赤くなる
「おいおい、冗談はよし子ちゃん」
しかし水野は本気だった。
「どうすればわかるのか教えていただけませんか?」
沢原が説明を始めた
「血液中のウィルス量が定量化できる試薬が市販されてる」
沢原が差し出した紙袋を水野はひったくるように受け取り、中身を漁った。そして目当てのものを取り出す。
透明な小皿に入った黄色い液体だ。
沢原はそれを自分の腕に押しつけた
「うっ」
少し皮膚がめくれたところに小皿を傾けて流し込む。そしてそれをまた床に置いた
「さぁこれを飲んでみな」
恐る恐る、それを飲むと確かに血が引いていくのを感じた。
「わかったかい? これが血清反応だよ」
一同の目に理解の光が宿る。
「でもどうやって検査を行えばいいんですか?」
「君の血液を使ってもいいが」沢原が提案する
「僕に心当たりがある」
「どんな人なんですか?」小池は一拍置いてから言った
「ある意味最も感染リスクの高い人物だ」
6月28日 16時25分 A県の某地方都市に聳える製薬工場、そこに隣接する研究施設では3時間前までの平穏を取り戻しつつあった。
空調設備がフル回転して室内を快適に保ち、研究員たちが汗まみれになって試験薬の製造にあたっている。そんな中にあって一人の女性が不機嫌そうにしている理由は単純だった。彼女こそが今回の騒動の原因なのだ。
彼女はついさっきまで実験装置の中で、様々な色に変化し続ける液体を見つめながら結果を記録していたところだったが、突如として鳴り響いたサイレンによって仕事を切り上げさせられ、いまはその不満を口にしたところだったのだ。
彼女は自分がなぜここに居なくてはならないのかわからなかった。ただ、誰かが自分の代わりを務めてくれていることを願っている。彼女が知る由もないが、その期待はある種適中している。彼女の上司たる主任が有給休暇を取ったからだ。
警報ランプの下、コンソールの前で腕を組んでいるのが、今年40歳になる女所長だった。名前は笹谷亜希という。背広を着た姿しか知らない職員も多い。
「それで何が起こったの?!」
声を荒げているのには訳があった。モニター上に映し出された数値が予想値を大きく上回っている。
彼女は自分のミスだとは思っていなかった。もちろん計器の故障や予期せぬアクシデントである可能性も考えてはいるが、どちらかと言えば後者ではないような気がした。『原因は不明ですが、タンクが破壊されて試薬が流出しました』
マイクを通して聞こえる声はどこか間延びしているように聞こえ、語尾が上がる口調もあいまって眠気覚ましのような印象を与える。しかし、今は非常招集の最中であり本来なら誰も居眠りなんてできるはずはない。だからきっと寝ぼけているに違いない、というのが彼女に下された結論だった。あるいは、いつもの調子で話していても周囲の人間からはそう取られてしまうほど緊迫感に欠ける声質をしているのかもしれない。
「とにかく復旧急いで! あなた達も手を貸してちょうだい!」
3Dモデリングによるシミュレーションモデルが表示され、リアルタイムの数値と折れ線グラフが表示されているが、その値は変動を続け予測できない状態に陥っている。このままでは通常業務さえおぼつかなくなる。そんな事態に陥ることはまずありえないことではあったが、最悪の状況は常に頭の片隅に置いておくべきだろう。
幸いなことに被害規模はごく小さいものに抑えられているらしく人的被害の報告はまだ入っていない。もっともこれは幸運ではなくて、事前に防ごうと動いた努力が報われただけだということは重々承知していた。
しかし、それがわかっていても所長は自分の采配が完璧だったとは断言できなかった。そもそものところ何故こうなってしまったのかが理解できずにいた。
原因はどうあれ結果は出ている。そのことが彼女を苛立たせる要因の一つになっていた。
彼女にとっての誤算は、試薬管理責任者である沢木恭平が不在であり、また試薬の量が予定よりも多かったことだった。どちらも誰の落ち度でもないが、もし責任者がいたとしても、この結果を回避できるだけの備えができていなかったことに気づかされた。彼女自身がもっと前向きにこの可能性を想定しておくことができたかもしれないと考えた。
「所長、まだ何かやることがありますか?」と、部下が怪訝な顔で尋ねた。
時刻は午前10時を回っており、通常は始業する時間だが、すでに臨時体制に移行していたこともあってか、咎める人間はいなかった。しかし、所長は自分ができることを探すために必死にもがいていた。彼女はこの場で自分に何ができるかを探すため、懸命に模索していた。彼女自身もこの状況に安堵する余裕はなく、ただ漫然とモニターを眺めていたわけではなかった。
「ごめんなさい。邪魔したわね」と彼女は言いながら、椅子を立ち上げて足早に立ち去った。
沢木恭平は昨日の昼から帰っておらず、同僚たちが心配して自宅まで出向いたが、連絡すらつかなかった。彼がどこに消えたのか、テロに巻き込まれているわけでもないだろうが、もしも万が一そうであれば大変だと心配された。
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