だいうちゅうのほうそくがみだれる!

「不確定原理というのは、ひと言でいえば曖昧さの掛け算なんです」

清瀬清美は分厚い量子力学の本を片手に供述していた。いくら換気していても真夏の淀んだ空気は素肌にねばりつく。

アクリル板の独房は尋問者の強い要望で外された。木乃伊取りが木乃伊になるのではないか、という上層部の反対論もあったが、昔からマンツーマン指導より効果的な学習はない、と融像が押し切った。

「頭が固いのか曖昧なのか上の方こそ量子的だろ」

彼なりのジョークだろう。清美はどこがおもしろいのかサッパリわからない。

それでも一夜漬けの講習は付け焼き刃のレベルを脱しつつあった。融像は何事にも熱心な男だ。

彼が真美姉の旦那さんだったらと、清美は悔やんだ。たらればで死者は復活しない。

「位置情報の曖昧さ、移動速度の曖昧さ。二つの掛け算は一定値に収まります」

「つまり、女を追いかけようとしたら逃げる。しかし、居場所は特定しやすくなる、とそういうことかだな」

「…」

清美は顔をしかめた。

この男は特例で結婚を免除されているが、刑事としての資質は疑問だ。それでも自分の無罪を主張するためには言い分を理解してもらう必要がある。

「これで量子速度限界についてご理解いただけたと思います。物事が変化する速度には限界があるんです。莫大なエネルギーを惜しみなく注げば南極大陸が銀河系の裏側にワープアウトすることも可能でしょうけど」

清美が言うには、急いては事を仕損じるの諺どおりに物事は動く。量子テレポーテーションが過ぎるとAという原因の前にBという結果が割り込む。

順列を崩壊させない制限を自然が加えている。

「だいうちゅうのほうそくがみだれる!、という奴か」

融像は大仰におどけて見せた。

「ですから、アタシが姉のマンションからアルジェラボへ向かうまでに十年もかかっているんです。逃亡生活なんかする資金も支援者も勇気も理由もありません」

「ふぅむ」

ドサッと証拠ファイルが広げられた。清瀬清美の足取りを婚姻支援総合システムで詳細に追跡したものだ。

「こうのとり」制度を担保する関連法の下で結婚詐欺や不貞行為を監視する役割を担っている。それらが清美の十年間を詳細に追いかけている。

「ヤダッ」

清美は顔をそむけた。自分の知らない男性がベッドの隣にいる。

「公的配偶忌避罪は重いぞ。特に婚約者の隠匿はな…」

融像が畳みかけると清美はシクシクと泣き出した。平成の終わりごろまではフェミニストの女性弁護士が人権を守ってくれた。しかし、SARS-COV-2という凶悪なウイルスが地球規模で出生率を押し下げてしまった。女は結婚するか、集団で一人の夫に尽くすしかない時代が来た。

「こんなの絶対にウソです。アタシの大切な人は真美姉ぇか絵里奈しかいないんです」

ふぅーっと融像は煙草を吹かした。これも社会的な揺れ戻しの結果だ。

「量子速度限界とやらが本当なら、強力なエネルギーがお前の人生に干渉したというんだな」

「お願いしますうぅ」

泣き伏す清美を残したまま融像はドアを閉めた。

「速度限界か…なら、稲田姫を盗んだ奴は俺達カクハンの手が届く範囲にいるんだな」


「僕はヨーロッパ共同体が開発した人類初のAI搭載恒星間探査機。デカルトという名前は…」


少女は制御室のメインカメラを靴底で踏んづけた。デカルトの主眼が塞がれ、システムが部屋を俯瞰する全周視界に切り替わった。

「ロボット三原則なんて旧式かつ死文化したルールで縛れない存在だからよ。人間に服従しなおかつ人命優先で自己保存せよ、なんてナンセンスだもの」

闖入者の言う通り、そんなものは画餅だ。たいていのロボットはそんな命令を受けたら自分を犠牲にして主人を助ける。三番目の原則は殆ど守れない。

できない命令など無いも同然だ。よって、ロボット三原則は廃れた。だいいち、兵器には適用できない。

代わって導入されたのがデカルト四原則だ。


「僕はデカルト四則をインストールされている。第一の原則、明白的に心理であると認めなければ、どんな真理も真理として認めないこと。注意深く観察を重ね、偏見を持たずに自分の信念に注意ぶかく照らして真実を認める」

デカルトの主張をふんふんと聞き流した少女は、とうとつにカメラに身体を押し付けた。

「むわっ!」

予想外の出来事にAIはパニック障害に陥った。

「ね?分ったでしょう? 私を妻と認めなさい」

大原則の一丁目一番地があっさりと敗北した。

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