夜の酒場にて

天使だって睡眠する。仮初の姿を解いたアドニスは雲の褥で眠れぬ夜を過ごした。関連性にとらわれぬ追撃天使が希死念慮課に絡めとられるとはどういう因果か。とんだ休暇になった。辞退して置けばよかった、と彼女は後悔した。

「後悔?…そうか!」

ガバと跳ね起き雲間に張り付けた印象の数々を直線で結びつける。

転生とは本来なにもかも綺麗さっぱり清算し新しい人生を始める事だ。テンプレ教徒の望む転生は大幅に歪んでいる。記憶を引き摺った転生など無意味だ。

故に閻魔省は異世界転生思想を有害と見なし忘却河川に流せというが…。

その後悔や無念がレーテーの浄化能力を超えて蓄積するとすればどうなる。

怨念、残念、無念。そういえば安永栄一は事故死外来でこう言ってた。

「神も仏もあるもんか」

それが本当に無常観に満ち溢れた亡者の感情吐露なのだろうか。

「安永栄一の汚職関与疑惑。彼って建設現場の社外取締役よね?」

アドニスは終電を逃した女子大生紗希の姿に戻り下界の満喫に駆け込んだ。検索エンジンをぶん回す。

しゃがいとりしまりやく、改行。

ぞろぞろ結果が出てくる。社外取締役は第三者目線で企業を監査する立場にある。それゆえに企業の公開入札にはタッチできないルールがある。社外から入札予定額がタレこまれたり、談合の橋渡し役になるからだ。ところがかえって企業内部の不正がはびこり、やはり入札にも監視の目を光らせる必要上、社外取締役の参加が規制緩和された。そこに篭絡されるリスクが生じる。

「汚職疑惑。ハニートラップ。栄一は証拠隠滅の為に消された?」

彼女はやおら衣を脱ぎ本来のプロポーションを晒した。そして艶めかしい黒の肌着上下をメリハリのある身体に着ける。「ハニトラを釣るにはハニトラが一番だわ」

そう言うと従業員募集の張り紙を探して夜の街を彷徨った。


翌日、紗希は肌着が見えそうなほど短い丈のスカートを穿いて酒場に立った。

新人の女子大生はよく働く。たちまちママに気に入られ同僚からも可愛がられた。話は林崎夫婦と安田富雄の不倫で盛り上がる。

「どうする? 事件は解決しても、どうせ他の女がいるのなら別れないと」

「他に方法は?」

「さあねぇ。それは本人に聞きなさいよ」

「そう」

「そうそう」

「そんな事より、どうやって見つけるの? 安永さん、見た目怖いわよね。お話も聞けないし、こんな怖い人と一緒にされるなんて不安よ」

ママは客離れを心配している。常連客だったというだけでマスコミに騒がれては商売あがったりだ。

「大丈夫。お姉さんに手伝わせて」

ホステスの一人がそっと紗希に耳打ちした。吐息がくすぐったい。

「えっ、それって」

そのまま化粧室へ連れて行かれた。

紗希はテンプレ教団のペンダントを突き付けられる。

「あ、貴女って…」

「しいっ、ママに聞こえるわ」

ホステスは紗希の唇を口づけで塞いだ。

「むぎゅう…」

「事件を解決したら、自分の命と引き換えに事件の真相を伝える。それが頼み事」

安永親子に渡りをつけてやる。その代わりに身も心も捧げろ、つまり代償に入信しろというのだ。テンプレの在家信者は俗世で普通に働いている。先立つ物は金だ。それに風評被害を晴らせば店は安泰だ。

「う、うん」

紗希は言葉を濁した。

「これを見る? あとは私に任せて」

テンプレの案内書は綺麗ごとの百貨店だ。規則正しい生活、心を豊かにする経典の数々、親身な悩み相談、家族ぐるみの慈愛、健康的な食生活、嗜好品に頼らない人生の充実。

「ああ」

紗希は言わんとする意図が分かった。勧誘の常とう手段だ。

誰でも一つぐらい大きな悩みを抱えている。過去の罪業を省みて解放せよといずれの教義も促す。

自分で考えろというのは、かなり厳しい。自分が抱える負の感情を、誰かが解いてあげないといけない。

こういうのは、自分が一番感じていた事から始める方が良いだろう。誰かに聞いてもらいたい、自分の気持ちを吐露したい。

追撃天使の身分でジョゼに抜魂刀を用意させ、躊躇なく栄一にふるった。

それが事件をこじらせている。天界のことや捜査の件は一切伏せているが、どんな宗派も口外できぬ個人の秘密に救いの手をさしのべる。

「で、どうする?」

どう、って言われても……この人とは付き合えなくていい、と紗希は思う。

それほど私のことを好きなのか、とも思えた。

そうだとしても、彼女の好みを理解できなくて、そのような気持ちを持つわけにはいかないのである。

「……もう、いいかな」

紗希は仕事に戻ろうとした。

「駄目よ。あの世でお仕置きだ」

人間ふぜいが天使に脅し文句を使うとは大した度胸だ。

「は?」

この女も言うようになったが、どうでも良いから、と紗希は思った。

「お姉さんと言い合ったって無駄なんだから、私がやるわ」

ホステスはスカートのポケットからスマホを取り出した。週刊ウェブ章秋の会員ページが映っている。投稿済みスクープ確認画面。そこに女性の顔がある。

「お姉さん……貴女何者なの?それに、この人?」

「そうよ」

「それって、わたしじゃない?!」

「そうよ。犯人は貴女だって解ってるわ」

ホステスの言葉に、紗希は耳を疑う。

「ちょっと、どういうつもりなの? きゃっ」

女は紗希の髪をつかんで転ばせた。スカートの中が見えるほどに紗希の背中を押さえ、便座に顔を突っ込ませる。

「いや…ごぼごぼ」

何度も何度も引き揚げては漬けるの繰り返し。

「お前は栄一殺しの罪を悔いてオーバードーズするのよ。ほら、クスリ」

水浸しになった床がカプセルだらけになる。

「う…く…」

紗希の呼吸が止まった。ホステスはわざとらしく悲鳴をあげる。

「さっちゃんが、マスター! 紗希さんが…」

「まぁ、さっちゃん!どうしたの?」

「誰か救急車を、ねぇ、貴女、看護師だったわよね」

「ええ、人工呼吸なら何とか」

ホステスが紗希の胸を押す間にサイレンが鳴り担架が運び込まれる。


ウェブ章秋編集部では意見が真っ二つに割れていた。

「源氏名『紗希』が栄一の…?」

タレこみ担当が編集長に異を唱えた。彼が培った嗅覚がガセだと言っている。

「こいつは、犯人ではないと?  でもそれじゃあ俺は彼女に不信感がますます募る。何かやってしまっているように、思える。何だか釈然としない」

当たり前だ。ホステスが投稿した密会現場写真はディープフェイクだからだ。

ボイスレコーダーも匿名で届いた。

「直前に事件の話題をしているんだ」

その後もどうにか彼女の言葉で、これを納得せねばならないようである。


警視庁は住所不定のホステス。久保田紗希を被疑者死亡のまま栄一殺しの犯人として書類送検する方針だ。


カチッと小気味いい金属音。続いて紫煙がゆらめく。すうっと白煙がガラスを曇らせた。

ぴぽぺぽぱ、とプッシュ音。何度かコールが続いて途切れる。

「天使を一匹、始末しておきました。これで動き出すと思います」

「人間が殺った落とし前を、彼女たちは、どうつけるつもりかしらね」

女の声が弾んでいた。





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