カントの恒久平和へ

神室紗綾かむろさあやが泣いてくれた理由について澪は感情説に照らして近似解を導いた。つまり落涙警官逆説問題の葛城解と呼ぶべきものだ。

転落事故は澪にとって未必の故意でありいわば自業自得と言えた。何故なら今にして思えば最後に吞んだ女友達の部屋で夜明けの海を見たいと提案したからだ。勿論、相手は「澪ちゃん、千鳥足じゃない」と制止したが振り切って一人で飛び出した。この時点で澪の落水から溺死に至る経路は有効な確率振幅の範囲で予約されている。事象イベントを時間軸方向に積分する過程で感情演算子がt二乗の係数ぶんだけ加算され潜在的な情動が蓄積される。しかしこのエネルギー自身に澪の落下運動を相殺するエネルギー量を期待できるかと言えば首をかしげざるを得ない。情動エネルギーを仮定するとして、その総量が澪の行動を束縛するに足る必要十分条件を満たすだろうか。大多数の人間においてはそのエネルギーは自制心という形で発露するがアルコールに関して抑制を欠いた澪に自制は期待できない。むしろ澪の良識に自発的な対称性の破れが生じた結果が「早朝の海へ行く」という危ない橋を渡る推進力になったではないか。また女友達も澪にとってさほど深い影響力を及ぼす関係でもなく問題解決力には程遠い。

端的に言えば「薄情」である。ここで楓の事象感情等価原理仮説が破綻するのであるが、それでは澪の命を結果的に救った――換言すれば落下運動後に澪の体重(46キログラム重)を受け止めた因子は何であろうか。

「澪ちゃん!かっこよかった」

背中から紗綾が抱き着いてきた。不意打ちは澪の意識を中断し入り組んだ思考を解決の地点へ着陸させた。

「ちょちょちょ、貴女ねぇ!」

澪が紗綾を振り払おうとして閃いた。

エモーションである。感情は変化しない。

あの時、紗綾は福江港方面とは別方向に運動していた。アプリの不具合で無人タクシーを拾い損ねて途方に暮れていた。そこに澪の不規則な進路が交差し「どうしても行きたいのね?じゃあ、心配だからわたしがついて行ってあげる」と合意した。紗綾にとって澪との邂逅は不随意運動である。しかし彼女を澪に同伴させた磁力はどこから来た。

「つれないなあ。命の恩人に」

不貞腐れる紗綾。「助けたからって恩着せがましくしないで。そりゃ感謝してるけど」

暫く一人でいたいと澪は願った。もうすぐ正解の糸口が見える。

すると紗綾が「わあああ」と泣き出した。

キュッと胸が痛む。咄嗟に紗綾を抱きしめ慰める。

「ごめんね。ちょっと解けかかってる問題があって…」

紗綾はしゃくりあげつつ言った。「流れよわがなみだ」

はっ、と澪は息を吞む。エモーションは行動に連絡し他者を説得する。

そして、感情変化に直接的な影響はない。

「もしかして…あたしのこと…すき?」

ウサギのように赤らんだ眼で天井を仰ぐ紗綾。

「ね?何か飲んで落ち着こう。あたし奢る」

どうにか学食のボックス席に座らせカモミールティーを買いに行く。

するとサヴォナローラがひと悶着を起こしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る