21 香りだけの霊? 突如現れる異空間


 深夜の街で俺――紫桃しとう――は一軒の店を前にしてたたずんでいる。


 店の外観は一言でいえばレトロ。昭和時代を代表する純喫茶のようだ。1階の下部分はレンガ造りの外壁で上部分は白壁となっており、2階部分も白壁だ。1階と2階の間には緑色のひさしがあり、茶色の看板がかけられていてアルファベットで店名が書かれている。


 1階部分は右側はショーウィンドーだ。眺めやすい高さとなっていて、中央にメニューが置かれてスポットが当たっている。背景にはつやのあるワインレッドの厚手の布がカーテンのように垂れ下がり、メニューの下まで流れてておしゃれだ。


 左側の植え込みには、楕円形を細長くした線形の葉の木が植えられている。奥には小さな木枠の窓があって、店内の明かりがもれているけど、植え込みの木がさえぎっていて中はよく見えない。中央にある店のドアは格子状の木製ガラス扉で、オレンジ色が灯る店内が見えている。ガラスを通過した明かりは店の前をぼんやりと照らして幻想的に映る。


 明らかに個人経営の店は、あたりが閉店して暗くなったなかでぽつんと営業している。ここだけ時がとまっているような雰囲気だ。


 ぼうぜんと見ていたら、ここへ連れてきた友人・コオロギ――神路祇こうろぎ――が店の扉を開けて中へ入っていく。俺はそのままあとに続いた。


 カランカランと低いドアベルが響く。店内には邪魔にならない音量でジャズと思われるBGMが流れている。コオロギはカウンターで店員と話していて、戻ってくると2階へと続く階段を上っていく。俺は物珍しげに店内を見回しながらコオロギのあとをついていった。


 木製の階段を上がった2階にはテーブルと椅子が何組か並んでいる。深夜だというのに俺たち以外に客が数人いる。


 コオロギは階段の反対側にある窓際の席へ向かうと、「ここでいい?」と聞いてきて俺が同意すると、慣れた感じですとんと席に座った。それから「ここは喫煙できるよ」と言い、テーブルにあった灰皿をよこした。コオロギの向かい席へ回ったら使いこまれた椅子を引いて腰を下ろす。

 

 店内は白壁で床は板敷。床の色は明るい茶色ではなく海老茶えびちゃ。オレンジの照明に包まれた木の室内は温かい空間をつくっている。まるで自分の部屋にいるような安心感で心地がいい。しっとりと落ちつく店内をもう一度眺めた。



「よくこんな店見つけたな」


「雰囲気いいでしょ」


「ああ。店内の椅子やテーブル、それに1階のカウンター付近もすべて木製で落ちつく。

 年季も入っているみたいだし……」


「珈琲専門の老舗だよ。

 この近くで勤務していたときに見つけたんだ。

 週1くらいで通っていたかな」



 この店に来る前、電車の始発時間までどこで時間をつぶそうかと考えていた。ファミレスにしようか、それともカフェかと迷っていたらコオロギがいい店を知っていると言ってきた。コオロギは食にうといからどんな店に連れて行かれるのかと不安だったけど、いい店だ。


 そういやコオロギは職場が変わると、昼休憩に利用する店をさがすために勤務先周辺で飲食店めぐりをすると言っていた。


 女性の場合、一人だと飲食店に入りづらいという人は多い。ところがコオロギはそんなことはないらしく、新しい勤務地だけでなく、旅先でも気になるお店を見つければ躊躇ちゅうちょなく利用する。


 行く先々で見つける店は老舗だったり、ユニークな店だったりとジャンルはいろいろで、気に入ったら何度も利用する常連客となるようだ。この店もそんなお気に入りのひとつなんだろう。


 同じものを食べていてもなんとも思わないくらい食に興味がないというのに、いい場所を見つけるのはうまいよな。


 感心しながらくつろいでいると、檜皮色ひわだいろのエプロン姿の年配女性が注文を取りにきたので、俺はあわててメニューを手に取る。コオロギは迷わずカフェ・オーレを注文し、俺はストロングコーヒーにした。


 居酒屋を出てから座ることがなかったから足を休められてちょうどいい。

 やわらかい光の空間に、ちょうどいい音量で流れているBGM。すごく和む……。


 店に入ったときからコーヒーのいい香りに包まれている。時を積み重ねてきた匂いで、もうこの店の香りとなっているのだろう。



「コーヒーの香りがいい。なんだか落ちつくなあ」


「においにはリラックスの効果もあるらしいからね。

 香水みたいな人工的なにおいは好きじゃないけど、自然の中にある香りには気持ちが落ちつく。

 あと神社とかでも香りでいやされることがあるなあ」


「ああ、わかる。神社や寺とかに行くとお香なのか線香なのかわからないけど、落ちつく香りがしているよな」


「ふふっ。お香のにおいも落ちつくけど、自分が言っているのは人工的な香りじゃないんだ。

 なにもない所から花や森など自然のいい香りがすることがあるんだよ」


「なんだそのお得なふしぎ現象は。一体どんな感じなんだ?」


「早朝にさんぽするのが好きでね、出勤前に神社へ参拝したときのことなんだ――」



  ✿


 都市部にある神社は、丘とまではいかないけど少し高い位置に鎮座している。


 見上げるくらい傾斜があるから、参道となっている階段は年配の人には少しつらいかもしれない。階段を上っていくと、すぐに境内が広がる小さな神社で階段から10メートルないところに拝殿が鎮座している。


 平日の早朝だと参拝者はいないから独り占めしている状態だ。自分が参拝する時間だと、境内の清掃は終わっているようで、いつも清められている。


 この日もいつもと同じように神社を訪れた。階段を上り切ったら右側にある手水舎ちょうずやで手を清めた。拝殿に向き直って参拝しようと進んだら森の香りに飛びこんだ。


 身の回りにあったのはハイキングしたときにいだ森の香りで、木や草、清浄な高地の空気が混ざった清らかな朝霧の森林のようだ。今いる場所は確かに街にある神社の境内なのに、森の中でハイキングしたときの空気を感じた。


 清らかな空気に包まれたまま状況を確認する。周りにはなにも見えない。境内を見回しても背の低い庭木程度しかない。


 神社周辺は開発されたエリアで車の往来があり、お世辞にもきれいな空気とはいえない。それなのに、今いる場所は清々しくて新鮮な空気が充満している。森にいるような空間に感動して、思わず「すごい!」と声がでた。


 空気がとてもきれいで息を吸いこむごとに気持ちが軽くなって心地がいい。あまりに居心地がいいものだから離れたくなくて、目を閉じて深呼吸を繰り返して味わっていた。


 残念ながら香りは5分もしないうちに消えてしまった。風船から少しずつ空気がもれていくように森の香りが少しずつ薄れていき、ついにはなくなった。


 香りが消えたあと、ほかの場所にも同じ空間があるかもしれないと思って、境内をさがしてみた。あちこちさがしたけど、森の香りは二度と現れなかった。


 良い香りのアヤカシは、これまで体験したことがない爽快感を与えてくれて、その日はずっと充足感があった。



  ✿ ✿


「空間はカタチとしては見えない。

 透明な香りの空間が存在していて中に入ると、そこだけ森にいるかのような感覚になる。でも森の風景が視えるわけじゃないんだ」


「異空間にワープした感じなのか?」


「空間……いや、森に流れている空気だけがワープしているような……。

 う―――ん。説明しづらいな。

 清浄な空気の塊が存在していて、中に足を踏み入れたような感覚だったよ」


「そんな体験もあるのか!?」


「たまにね。でも残念なことに、いいものはすぐに消えてしまうんだ。

 とても居心地がいいから、ずっと居たくなる場所なんだけど見えないからさがせないし……。

 もっとサービスしてくれたらいいのに」


贅沢ぜいたく言うなよ。

 全然経験できない俺からするとうらやましいぞ」


「でもアヤカシからちょっかい受けることもあるんだぞ。

 いい香りがないと、とんとんにならないよ」


「……確かに」



 コオロギはゼロ感の俺には見えないナニカを視たり、アヤカシに背中に乗っかられたりと怪異に遭遇する異能者だ。


 コオロギはちょっかいをかけてくるアヤカシに対しては手厳しい。腕を組んで少し頬を膨らませていたけど、思い出した香りのアヤカシとの遭遇は、よっぽどよかったようで、すぐに笑顔を見せて話を続けた。



「あの神社で体験した『香り』はいい気分になるから、いやしスポットみたいな場所になるんだろうなあ」


「俺にもなにか効果があるのかな?」


「ほ―――ん……。どうだろう?

 個人的な意見だけど、人には好き・嫌いの好みがあるから、まったく同じような感覚になるとは思えない。

 いやしのスポットにも相性のようなものがある気がするなあ」


「そっかあ……」


「ま、でも試しに行ってみようよ。

 もしかしたら紫桃もなにか感じるかもよ?」



 テーブルに肘をついて、手に顎を乗せたコオロギは、にぱっと笑った。


 コオロギが語る体験談はぞくりとするものが多いけど、うれしそうに話す香りのアヤカシには、ほんわかとした。


 コオロギがほめるくらい心地がいいなら俺も現場へ行ってみて体験してみたい。

 いつか怪異スポット――じゃない。いやしスポットに行けるかもと想像したら、いろんな期待がわいてきた。うきうき気分でいたら、いい香りがただよってきて、コーヒーが運ばれてきた。


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