22 このニオイは嫌いだよ


 俺――紫桃しとう――は、しゃれた珈琲専門のカフェで至福の時間をすごしている。


 コーヒー香りがあたりに広がっている。運ばれてきたコーヒーを一口ふくむと、苦みと砂糖にはない微かな甘み、香りがプラスされて一気に体の力がぬけてリラックスする。


 飲むごとに気分が落ちついていき、このまま椅子に深く体を預けてぼんやりとしていたくなる。最高だ……。


 香りを楽しみながら熱々のコーヒーを飲んでいると、向かいで友人がカップをにらんでいる。テーブルに肘をつき、真下にあるカップに向かって時おりふーふーと息を吹いてる友人は、コオロギ――神路祇こうろぎ――という。


 コーヒーは熱いのが一番美味いと思っている俺には猫舌は気の毒に見える。じれったそうにカップをにらんでいても状況は変わらない。コオロギは視線を上げて俺を見てきた。


 コーヒーを飲んでいるのをうらやましく思ったのか、ふくれっ面を見せたから俺は思わず笑ってしまった。それがいけなかったらしい。コオロギの目に光が宿った。



「……そういや、前に紫桃に話した『ケモノのニオイがした』体験談はこの近くだぞ」



 きらきらと目を輝かせて意地悪を言ってきやがった……。


 「ケモノのニオイ」と聞くと俺は毎回どきりとする。前にコオロギが話してくれたふしぎな体験のひとつなのだが、不気味な存在すぎて恐怖を感じるのだ。


 体験をかいつまんで説明すると、コオロギが街路を歩いていたら突然、ケモノのニオイがしてきた。近くにゴミをあさるネズミがいるのかとさがしてみたが、なにもいなかったので気のせいで片づける。ところが、いやな展開がこのあと待ち受けていた。


 ケモノのニオイがした翌日、飛び降り事件が発生した。休憩中に社員の雑談が耳に入り、コオロギは事件の現場が獣臭ケモノしゅうがした場所の近くと知る。ケモノのニオイとよくない事件に結びつきを感じて気が滅入ってしまった。


 コオロギはニオイの根源がないのにケモノ臭がする現場に、これまで何度か遭遇したことがあるという。ケモノのニオイがする場合は周辺でよくないことが起きることがあると、いやがっていた……。



 そのケモノのニオイの体験談は、この近くで起きたことなのか……?


 俺はサ―――っと血の気が引いていくのがわかった。コオロギは、してやったりという顔になってカップを持ち上げた。今度は口元でふーふーと冷ましながら、ちびちびと飲み始めた。


 俺が怖がってるのを楽しんでいるな?

 笑ったことへの仕返しのつもりか!?


 コオロギはカフェを3分の1ほど飲んだところで、熱さに耐えられなかったらしくカップを置いた。どうやら冷めるのを待つことにしたようだ……。



 俺は有休をとって東京にきている。

 神田の古書店めぐりをしたかったし、友人たちと飲む約束もしているけど……なによりもコオロギに会いたかった。


 コオロギは霊感があり、たまに幽霊や妖怪などのたぐいと遭遇することがある。趣味でホラー小説を書く俺は、コオロギの体験をネタにしているから、会えば奇譚きたんを聞きだそうと企む。しかしコオロギはしらふだと体験を語りたがらない。そこで俺は画策する。


 コオロギは酔うと機嫌がよくなって饒舌じょうぜつになる。そこを利用してランチだけの約束を引き延ばして夕食に誘い、さらに引き延ばして深夜の珈琲専門店で現在も一緒にすごしている。


 日付が変わり終電もなくなった深夜。BGMが小さく流れる店内には東京のいつもの雑踏は聞こえてこない。コオロギは腕を組んで椅子にもたれてくつろいでいる。まぶたが半分落ちていて目が少しうるんでいるけど、居酒屋で飲んでいた酔いが残っているのか?


 俺がいかにして体験談を引きだそうか考えていたら、コオロギのほうから口を開いた。



「そういや、ケモノ臭がした職場ではニオイ関係の変なコトが多かったなあ。

 ……千秋ちあきチャン、聞きたい?」



 コオロギはたまにからかったり意地悪したりするが、そのときは俺を「紫桃」ではなく「千秋」と呼ぶからわかりやすい。まるで怖がらせて楽しむ小学生レベルのいたずら小僧といった感じで精神年齢がわかるよ。……本当に俺と同年齢なのか?


 でも俺にとっては子どもっぽい意地悪は絶好の機会だ。ホラー小説のネタとなるコオロギの体験談をのがすはずがない。



「……怖いけど……聞きたい……」



 怖がっていることを誇張してコオロギを満足させておく。そうすれば……。



「しょうがないな~。

 これはね、ケモノ臭と同じように、ニオイだけ感じた出来事なんだ――」



 ほらな?

 ちょろいぞ、コオロギ!


 さてさて、どんな話が聞けるかな?



  ✿


 東京都渋谷区で働いていたときのことだ。


 いつもどおり出社して自席で作業をしていた。書類に目を通していると、ふわりとニオイがしてきた。ソレは職場にはそぐわないニオイだったから顔をしかめた。


 線香のニオイ?


 書類から視線を上げた。オフィスは複数の部署が入っていて、部署ごとに書籍やファイルをしまう背の高いキャビネットに囲まれている。真ん中にスチールデスクが向かい合っており、一列に並ぶデスクで社員が作業をしている姿がある。


 デスクには衝立ついたてがないから、向かいの席も左右の席も、すべての作業状況が見えていて、だれもが自席で仕事に没頭している。


 オフィスへ出入りするドアは執務場所から5メートル以上は離れたところにあり、端の席に座っているからドアが開閉する際には、ロックの解除音が聞こえてすぐに気がつく。ドアは開かれなかったし、だれかが席の近くを横切ることもなかった。


 線香のニオイはどこからきているのだろうか……?


 衣類についた移り香なら、ニオイのついた社員が出社してきたときに気づくはず。ところが線香のニオイをつけて出社した社員はおらず、ニオイがしてきたのは、ついさっきだ。


 職場にはいろんなニオイがあり、香水や体臭ならニオイがしてもそれほど気にならない。でも線香のニオイが染みついているのは珍しい。職場ではあまりなじみのないニオイが突然わいた点がやたら引っかかる。


 線香のニオイはまだただよっている。気になって横目で周囲の人たちの反応を見る。突然香りだしたからニオイに気づけば、なにかしらのリアクションがあるはずだ。ところがだれも反応を示さず淡々と仕事を続けている。


 ほかの人たちには線香のニオイはしてない?


 腑に落ちなくて再度ニオイに意識を向けたら、いつの間にか線香のニオイは消えている。意味不明で奇妙な現象だ。


 ほかの人に線香のニオイがしたか聞きたかったけど線香はイメージがあまりよくない。質問しづらいし、香りだけのアヤカシの可能性が高い。それに勘違いの可能性もある。同じ現象がまた起こるかようすをみることにした。


 仕事に戻るといつしか線香のニオイのことは忘れてしまった。



 数日後、所属していた部署で異変があった。

 全員が出社すると事務員がチームリーダーの親族に不幸があったため、数日不在になるかもしれないと告げた。話を聞いている途中からいやな考えが浮かんでいた。


 ただよっていた線香のニオイ……。

 あれは前に葬儀に参列したときに会場でいだニオイだ。

 同じニオイがしたあとで人が亡くなるなんて……。


 もしかしたら線香のニオイは死者がでる予兆かもしれない――。


 そんな考えが浮かんだけど、不吉なので当たってほしくないという思いがあった。線香のニオイがしたのは一度だけだったから、勘違いだったかもしれないと言い聞かせて気にしないようにした。



 『線香のニオイは死の予兆かもしれない』という疑念だったモノ。

 あとになって気づいてしまったことがある……。


 某日、友人から電話がかかってきた。

 ひさしぶりに話すのでお互いの近況報告で盛り上がる。あらかた話し終えたら沈黙が入った。


 おしゃべりの彼女が黙ることは珍しい。次の話題を待っていると、「実はね……」とトーンを落としてから、がんの闘病中だと言ってきた。


 彼女が言い終わると同時にスマートフォンから線香のニオイがしてきた。ニオイを嗅いだ瞬間、彼女は長くない――。なぜか直感した。


 早鐘のように心臓がばくばく鳴るが、彼女に動揺が伝わらないよう声の調子に注意して会話を続けた。数分間話していたけどスマートフォンからただよう線香のニオイが気になって、会話の内容は覚えていなかった。


 それからはなるべく連絡をとるようにし、病院へお見舞いにも行った。会うごとに彼女はやせていったが気丈に笑顔を見せていた。治療のため会える回数は減っていき、メッセージを送っても遅れて返信されることが多くなった。


 がんとカミングアウトしてきた日から半年過ぎには彼女と完全に連絡がとれなくなった。自宅は知らないので病院で安否を尋ねたけれど、現在は病院にいないとだけ言われ消息はわからなくなった。


 いくらメッセージを送っても返事はこない。

 律儀な彼女がこんなに長い間、返信しないなんてあり得ないことだ。


 だから…… たぶん……



  ✿ ✿


「線香のニオイなんて大嫌いだ。

 なにもない所からニオイを感知できる能力なんて……いらないよ……」



 話している途中からコオロギのまぶたは下がり始め、こくりこくりとしていた。口調もゆっくりになっていて、とても眠そうにしていたが、最後まで話し終えてから寝てしまった。


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