お忘れもののかさやさん(「わたしのためだけの」)
水泡歌
第1話お忘れ物のかさやさん(「わたしのためだけの」)
どうやら天気予報に嘘をつかれたようだ。
大きな溜め息と共に私は大粒の雨が降り始めた空を見上げた。
仕事終わり。スーパーで晩ご飯の材料を買った帰り道。
お天気お姉さんが言うには今日の降水確率は0%だったはずなんだけど。
周囲を見渡して傘が買える場所を探す。
家まではまだまだ距離がある。このままではせっかく買った食材が濡れてしまう。それなのに、こんな時に限ってコンビニのひとつもありはしない。
いらだちながら探し続けていると、ふとひとつの店に目がとまった。
ちんまり。
そんな言葉がぴったりな小さな木造のお店。上に掲げられた看板には「かさや」と書かれていた。
こんなお店あっただろうか。
不思議に思いながらも自分が求めていたものにほっとしながら扉を開けた。
開けた瞬間、ふわりと雨の匂いが漂ってきた。
じめじめとしたものではなく、優しく包み込まれるような香り。
そうして、目の前に広がった光景にひとつ息を呑んだ。
壁や天井にはたくさんの傘が開かれた状態で並んでいた。
色や形や大きさはそれぞれ違う。
満開の傘の花畑がそこにはあった。
見惚れていると一人の老人が話し掛けてきた。
「お客さま、傘をお忘れですか?」
びくりとしながら声がした方を見ると、そこには腰の曲がった一人の老人が立っていた。
白髪のオールバック。白シャツに黒ベスト。黒スラックス。
丸眼鏡をかけながら柔和な表情で私を見上げている。
お忘れですか。
お店で掛けられる言葉としては中々変わった言葉だ。でも、今の私の状況にはふさわしい。
「あ、はい、傘をひとつ頂きたいのですが……」
そこまで言って困ったように店内を見渡した。
こんなにもたくさんある傘の中から一体どれを選んだらいいのだろう。
老人は私の心を分かり切っているように穏やかに微笑んだ。
「たくさんあるから迷ってしまいますよね。どうぞ、ごゆっくり、お探しください」
「ありがとうございます。でも、私、急いでいるんです。何でもいいので一つください」
ずっしりと重いスーパーの袋。
私には帰ってしなければいけないことがある。
夫が帰ってくる前にご飯を作っておかなければ。洗濯も掃除もお風呂も。
妻としてしなければいけないことが頭の中をぐるぐる回って焦りが生まれていた。
老人は「大丈夫ですよ」としわしわの手で年代物の銀色の懐中時計を差しだした。
その秒針は、止まっていた。
「……壊れていますよ、それ」
「壊れている? あなたの時計もですか?」
私は自分の腕時計を見た。驚く。私の腕時計も秒針を止めていた。
あれ? さっきまで正常に動いていたはずなのに。
「ですから、時間のことなど気にせずに。「あなたのためだけ」の傘をごゆっくりお探しください」
老人はそう言うと静かに私から離れていき、店の奥へと引っ込んでしまった。
「わたしのためだけ」の傘?
老人の言葉を繰り返しながら試しに目の前にある傘を手に取ってみる。
真っ黒な男性用の傘。
それは確かに大人用の傘で。
でも、どうしてだろう、そこには子どもの気配があった。
傘が伝えてくる。
自分には大きすぎる傘をカッコつけながら持つ男の子の姿。
改めて店内を見回す。
そして、気付いてしまう。
ここにあるのは新品の傘ではない。
ここにあるのはかつて「誰かのもの」であった傘だ。
中古の傘屋さん?
でも、こんなにも誰かの気配を強く感じる傘を誰が買うのだろう。
私はじっくりとひとつひとつ見ていく。
どれも使い古されたもの。
ただ、汚らしいとは違う。これは、大切にされ過ぎた傘だ。
ふとひとつの傘の前で足が止まる。
青空模様の子ども用の傘。
手に取る。
柄のところにマジックで丁寧に書かれた「ななこ」の文字。
目を見開く。
「これ……」
私の名前。母の文字。
「おや、そちらの傘をご希望ですか?」
びくりと身体が揺れる。
振り返ると老人が穏やかに微笑みながら立っていた。
私は動揺しながら尋ねる。
「あの、どうして、この傘がここに?」
老人は表情を崩さずに返す。
「どうして? あなたがお忘れだからですよ」
「お忘れって、何を──」
途切れる言葉。
手の中の傘が伝えてくる。
近所の雑貨屋さん。目の前にずらりと並ぶ傘。
母は私にひとつひとつ確かめた。
どれが好き?
あなたの好きな色は? 模様は? 形は?
大切に選びましょうね。これはあなたのはじめての傘なんだから。
ひとつひとつ開いて閉じて。とても丁寧に私の好きなものを母は探してくれた。
私は懸命に悩んだ。
私はどれが好きだろう。
これもちがう。これもちがう。これ? それとも?
そうして私が選んだのは青空模様の傘だった。
「わたし、これがいい。これじゃなきゃいや」
わたしのためだけの傘。
これがわたしが好きなもの。
母は幸せそうに笑って私にその傘を買ってくれた。
柄のところには母がマジックで丁寧に私の名前を書いてくれた。
宝物のような傘だった。
母の文字を指でなぞる。
「これ、私がはじめて買ってもらった傘です」
「はい」
全てを分かっているように相槌を打つ老人。
「大切にし過ぎて壊れてしまったんですよ」
「はい」
「壊れた時はあんなにも泣いてしまったのにすっかり忘れていました」
「はい」
傘を愛しげに撫でる。
「私が好きなもの、あなたが教えてくれたのにね……」
店に入った時の自分の言葉が甦る。
『私、急いでいるんです。何でもいいから一つください』
時間に追われて忘れていた。
「何でもいい」なんてことはない。私には私の好きなものがあるのに。
「あの、これ、いただけますか? おいくらでしょう?」
傘のどこにも値札は付いていなかった。
老人は静かに横に首を振った。
「お代などいただきません。それは「あなたのためだけ」の傘なのですから。ただ──」
老人のしわしわの手が私から傘を受け取る。開かれていた傘が閉じられて綺麗にたたまれる。
「どうか、覚えていてあげてください」
差し出された傘が優しく光る。お店の中の満開の傘の花畑が餞のようにくるくる回る。
ああ、眩む。
私の意識は遠くなり、お店と老人が遠ざかっていく。
目が覚めると私は道路に立っていた。
あれ?
見回してみるとさっきまで私がいたはずのお店はどこにもなかった。
空を見上げる。
雨、あがってる。
地面に雨が降った名残だけを残して、空はすっかり晴れていた。
夢?
そんなことを思った途端、心の中で何かが動く。
傘。
わたしのためだけの傘。
青空模様の傘が「夢じゃないよ」と主張する。
ああ、君は私のここに戻ったのか。
私は小さく笑うと携帯電話を取り出した。
夫にメッセージを送る。
『私、何だか疲れちゃった。今日のご飯、出前にしてもいい?』
怒られるだろうか。
そう思っていたら返信が返ってきた。
『良かった。やっと「疲れた」って言ってくれた』
一人で背負い込みすぎていたのかもしれない。夫は夫で私を心配してくれていたようだ。
ずっしりと重かったスーパーの袋はさっきほど重く感じない。
今日は私の好きなものを頼もう。誰かが作ったご飯を食べよう。夫にもちゃんと甘えよう。
そう思うと心の中の傘がくるくると嬉しそうに回った気がした。
お忘れもののかさやさん(「わたしのためだけの」) 水泡歌 @suihouka
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