第2話 《災禍の魔女》
ぬるい潮風が、
唯吹は鼻腔をつく磯の香りに、重い瞼をゆっくりと開いた。波の音が聞こえる。この鳴き声は、カモメか……?
視界がぼやけているが、年季の入った木の床がまず見えた。どうやら唯吹は床の上に座っているらしい。
(あれ……なんで……?)
体が動かない。見れば、粗い縄で柱に体をくくりつけられ、身動きを取れないようにされていた。
なにがどうなっている? 喉がカラカラだ。
たしか自分は、ビルの屋上から———。
唯吹の意識が、どんどんはっきりしてくる。はっと顔を上げると、ギラつく陽光に視界を焼かれ、目が慣れるまでに時間がかかった。
そこで、唯吹は自らの置かれている状況を理解した。
船だ。木造の巨大な船。大海原を突っ切る、一艘の巨船。その、帆を掲げる柱に、唯吹の体は縛り付けられていた。
単純な思考もままならない。辺りを見渡すが、視界から得られる情報は、瞬く間に唯吹を困惑させていく。
何個も積み上げられた木樽。床に転がる剣、斧――。まるで、海賊船ではないか。
唯吹はそう考え――心の中で嘲笑した。
(死ぬ間際って、こんな変な夢見るものなの? ってか、取引先にメール送ったっけ? プレゼン資料も完成させてないや。ちゃんと引き継ぎしとけ! って部長に怒られねーかなぁ……。いや、死ぬし関係ないか……?)
また、目を閉じようとした、その時。
波音を押しのけて、野太い声が聞こえてきた。
「ようやくお目覚めかぁ、《
唯吹は、咄嗟に声の方へ視線を向ける。いつからいたのか、一段上がった船首の方に、筋骨隆々とした、肌の黒い男が立っていた。年齢は30くらいだろうか? 顔立ちは日本人とはかけ離れている。口ヒゲをぼうぼうと伸ばし、額にはバンダナを巻いていた。顔には無数の傷があり、時折覗かせる歯はところどころ欠けていた。
唯吹があっけに取られていると、男は続けた。
「《災禍の魔女》さんよ、なんてったって、こんな舟を襲おうとしたんだ?」
唯吹は応えられなかった。というか、「サイカのマジョ」というのがまったくわからなかった。
(やばい。変な夢だな。死ぬなら早く死なせてくれねーかな!)
そんな唯吹の思いとは裏腹に、男は重い足取りでこちらへ近づいてくる。
「ったくよぉ、なに関係ないみたいな顔してんだ? お前だよ、お前。おら、ちゃんと見えるか?」
皮肉を込めてだろう。男が、腰につけた布袋から、黄金の装飾が施された手鏡を取り出した。そしてそれを、唯吹へ向けてきた。
どうせ、ぼさぼさの黒髪をした、目元にクマのある女が映るだけだ。唯吹は鏡を覗き込んで――絶句した。
幼女、だった。
癖の付いた
頬は白く、ふっくらとしていて、どう見ても10歳かそこらの女の子にしか見えない。しかも、日本人離れした、めちゃくちゃかわいい顔をしていた。
「んなっ――!」
唯吹は声を漏らす。そして、腹の底から、今までに出したことのない声量で叫んだ。
「にゃによ、これぇ!?」
ちょっと噛んでしまった。
その声も、いつも聞き慣れた自分のハスキーボイスではなかった。高く、少し舌足らずなその声は、小さな女の子そのものだ。
そんな唯吹の白く細い首元に、紋章を象ったようなタトゥーが刻まれていた。唯吹はタトゥーなんかしたことないし、ましてや22歳の社畜OLだったはずだ。
これは、どういうことだろうか――。
正面の男が、手鏡をしまいながら、
「紫髪、首元のタトゥー。噂に聞いていた《災禍の魔女》に違いねえ。《リムル神》のお告げのとおりだ。こんな、幼い女の子だとは思わなかったけどな」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 災禍の魔女? リムル神? そもそも、御社はどちら様ですか!?」
「オンシャ? ……俺は、ペペローナ=パパンナピピテッポ。この当たりの海域を統べる、いわば海賊さ!」
一瞬の間――。唯吹は首をかしげ、
「ぺ……? 海ぞ……?」
そして頬を引きつらせた。それが合図だったかのように、物陰から複数の男たちが姿を現す。
遠くの空で、首の長い巨大な鳥が、グァと鳴いた。舟の下を、なにか巨大な生き物が横切った――。
思考が追いつかない。唯吹はまんまるの瞳で男たちを捉え、口をあんぐりとさせた。今までの常識が通用しない。会議も、プレゼンも、経験則からなんとなく乗り越えて来られた。自分、なかなかやるじゃん! とも思っていた。人生、なんとかなるかも、と。
(けれど、さすがにこの状況は……)
男たちに睨まれ硬直している唯吹。そんな彼女へ、ペペローナが問い詰める。
「再度質問だ。なんで、この舟を襲った? 俺たちの海賊船だと知っていて襲撃したのか?」
「んな、なんのこと、ですか。わたしは……」
「空から、落ちてきたろ、ここに。なにをするつもりだったんだ?」
「なにって言われても、ほんとに覚えてなくて……」
はて。ビルから落ちたと思いきや、この海賊船の上に落ちた、と。ますます意味がわからない。やっぱり自分、すでに死んでいるかもしれん。
と、近くにいた若い男が、ペペローナへ問いかけた。
「本当に、こんな子が《災禍の魔女》なんですか? 災禍の魔女なら、こんな縄、すぐに焼き切って襲ってきてもおかしくないかと……」
「ふうむ……たしかにそうだが……」
ペペローナが難しそうに唸る。チャンスとばかりに、唯吹は畳み掛ける。
「ふぇぇ……わたし、わからにゃいよぉ……」
ペペローナの警戒心はまだ解けない。むしろ、警戒レベルが1ランク上がったのか、顔をしかめている。
(やり損かよ! わたしのバカ!)
「お前、名前は?」
ペペローナの問いに、唯吹は迷いなく応えた。
「い、イブキ。わたしは、イブキよ」
「そうか、イブキ。さっそくだが、港に付いたら、魔女裁判を受けてもらう。覚悟はいいな?」
「覚悟もクソも、わたしなにもしてないわ。パワハラで訴えるわよ」
「……口の悪い子だな。ぱわはらって、なんだよ」
唯吹の乗る舟は、全速力で港へと向かっていく。
こうして、唯吹――幼女、イブキの物語は始まるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます