勝って。ただし手は出さない


「お前・・・・・・だれだ?」


 ふわふわと浮かぶ少年は八重歯を見せて,目尻にしわを寄せた。静かな笑いだった。


「分かっているくせに。ぼくは君だよ」

「・・・・・・訳わかんねえこと言うなよ」


 その顔は,確かにおれだった。いや,病室でおれが乗り移った体の顔だった。ということは,おれはこいつの身体に魂が乗り移ったということになるのだろうか? 待てよ,それじゃあおれの身体はどうなっている?


「おれはお前になったのか? それで,おれはどこにいるんだ? おれは無事なんだろうな?」


 色の白い,マッシュルームをイメージさせる髪型をさらさらと揺らして顔に手を当てた。今度は,少しだけ声を出して笑っている。こいつ,あだ名は女キノコだな,と思った。答えもせずにクスクスお嬢様みたいな笑い方をして,腹が立つ。


「笑ってねえで答えろよ。おれはどこにいる」

「いや,まったく何を言っているのか分からなくておかしくて。いやまあ分かるんだけど,状況が分からない人からしたら気がふれたって思うだろうね」

「おれは気がふれたやつだと思われている」


 キノコ女はふわふわと揺れながらこちらにやってきて,目の前で制止した。涙ボクロが一層中性的な雰囲気を強くしている。女だったら美人になっていたのかもな,なんて考えていると,目の前でこめかみをかきながら「お願いがあるんだけど」とさも申し訳なさそうに切り出した。


「そんな顔するなよ。まだ聞いてやるとも言ってないだろ」


 何を言い出すのかと興味深く耳を澄ませていると,このキノコ女は到底受け入れられないことを言い出した。


「学校に行ってほしいんだ。ぼくの代わりに。何もしなくていいから,朝規則正しく起きて,学校に行って,ノートを取って帰ってくればいい」


 体温が急激に上昇したのを感じた。あの日,公園でケンカをした時の感覚が戻ってきたみたいだ。



 なに馬鹿を言ってやがる,と唾をまき散らしながら怒鳴りつけた。

 学校へ行ってこい? しまいにはノートを取れだと? 何もしなくていいなんてよく言えたものだ。そんな苦行,頭を下げてでこを地面になすりつけて,靴を舐められたってやってやるもんか。人生の中で何よりも無意味なものは,学校に行って机に座っているあの時間だ。


「じゃあ,その身体で一生生きていくの?」


 目を細くして,左手で腕を組み,右手で肘をつくような恰好をしてキノコ女は言った。怒りで毛が逆立つようだ。無意識のうちに眉間にしわを寄せ続けていたらしい。でこに疲労を感じる。


「なに訳の分かんねえことを言ってるんだ」

「君が元の身体に戻れるかどうかは,ぼくの意思次第ということさ。もちろん,ぼくの要求をのまないようなやつに体を返すつもりはない」


 心臓の縮まる思いがした。嫌な想像が脳内を駆け巡る。まさかこいつは・・・・・・。


「お前,俺の身体に乗り移る気か?」


 誰がそんなことを,と口元に手を当てて小さく笑った。そしてまた目を細めてこちらを見る。ばかにしたような,いやな目だ。


「ぼくが意識を戻そうとすれば,ぼくは自分の身体に戻れる。その時には君も自分の身体に戻れるだろうね。どうする?」

「どうするったって・・・・・・」


 はじめから選択肢などないじゃないか。決まりきった答えを口にした。


「分かったよ。学校に入ってやる。ただ,ノートは取れないかもしれないが勘弁しろよな。それぐらいの妥協はしろよ」

「行くだけじゃだめだ」


 キノコ女らしくない有無を言わさぬ強い口調で言った。まだ要求があるのかよ,と内心うんざりしながら力のこもった瞳を見た。こんな目もできるんだな,と思うほど固い意志を感じさせる顔つきをしている。


「学校に行ったら王がいる。そいつに,絶対負けないでほしいんだ。きっと,そいつはぼくに何かけしかけてくる」


 なんだそんなことかよ,とホッと息をついた。負けるな? どんなやつか知らないが,そんなことはノートを取るより何倍も簡単なことだ。


「ただし・・・・・・」


 任せとけよ,と頭をガリガリと掻きながら返答しかけた時,キノコ女はあごを引いて,上目遣いで睨むようにして続けた。なんだこいつは。そんな睨み方じゃ通用しねえよ。そう声に出さずに毒ずくと,こぶしを顔の横に作って追加の条件を提示してきた。


「ただし,絶対に相手を殴らないこと。殴るだけじゃなくて,手を挙げないこと。言葉の暴力も振るったらだめだ」


 何を言っているのか理解が追い付かなかった。言っていることが矛盾しすぎている。負けるな,ただし手を挙げずにだと。魔法でも使えと言っているのだろうか。


「そんなの飲めねえ。負けるなと言われたらこっちがやるしかないだろ。そうじゃないならフェアじゃねえ。やる前から結果は決まってる」

「ふーん。じゃあ負けるんだ」


 頭の中で欠陥が膨張しているのが分かる。教室の王とやらから白星を勝ち取る前に,こっちに手を挙げてしまいそうだった。

 睨みをきかせてキノコ女に凄もうとすると,あっちはあっちでまた上目遣いで眉間にしわを寄せてこちらを見つめている。威嚇のつもりだろうか。不意に肩の力が抜けた。


「分かったよ。その代わりそっちも約束守れよな」


 ありがとう,といってキノコ女は頭を下げた。仁を信じてる,と言ってくるりと背中を向けてふわふわと浮かんでいった。暗がりが広がっていた空間が光で満たされていく。

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