手鏡の向こうの少年
カプセルの中に入れられたり,聴診器を当てられたりと様々な検査が行われた。事故から意識を取り戻した少年が訳の分からないことを言っているから脳に異常があるのではないかと心配され,精密検査をすることになった。
カーテンの向こうでおばさんが医者から説明を受けている。その説明によると,今の時点で目立った痕跡はないが,何かの衝撃で障害を抱えた可能性を否定できない。そのため,もう数日入院して経過観察するということだった。
冗談じゃない。こんな息苦しいところでもう何日か寝て過ごすだなんて耐えられない。嫌だ,と主張したところ,「こんなに駄々をこねる子では無かった」とおばさんが神妙な顔をして心配する。そうすると,事態はますます悪化する。そこで,二つのことを決意した。
一つは,とにかくこの数日間は苦行に耐えて入院生活を送ること。もう一つは,大介として生きることだ。
カーテンが開かれ,例の看護師が点滴のように腕へと注入している液体をチェックしに来た。何をいれられているのかは分からない。一度聞いてみたが,さっぱり理解できなかったのだ。
「今日は静かね。ところで,お名前は?」
興味深そうに上目遣いで顔を覗きこんできた。柔軟剤だろうか,いいにおいがする。
「大介。・・・・・・種掛大介」
「あら,言えたじゃない! ちょっとは回復したのね」
看護師は頭を撫でて,二度人差し指でトントンと側頭部を叩いた。名札には境屋玲子と書かれている。
「お勉強の方も頑張るのよ。威勢がいいだけじゃなくて,知的な人が大人になったらモテるから」
もう一度,点滴の袋のようなものから液体が落ちる速度を調整した後,えくぼを作って出ていった。少しだけ,身体が熱くなった。
種掛大介,と自分の新しい名前を呟いてみる。変な名前だ。まあいい,しばらく大介として生きて,なんとか自分の身体を取り戻さないと。それに,自分の身体がどこにあるのかも突き止めなければ。分からないことはたくさんある。医者も何もかも,自分以外のものは信用できない。どうにかしてこの身体に起きた謎を解かなければ。
果てのない広大な迷宮に放り込まれた気分だ。何とかその出口を見つける手がかりをつかもうと考えを巡らせたが,一向に名案は浮かんでこない。次第にまぶたが重くなってきた。
起きて。ねえ,起きて。
はるか遠くの方で声がする。身体がふわふわする。まるで無重力。エレベータが目的地に到着する瞬間のような,ジェットコースターで急降下する刹那のような,臓器がふわっと浮かび上がるような感覚がしたかと思えば,身体がくるくると回転をして一方方向に流されているような心地もする。これは夢の中だ。無意識って気持ちいい。生き物は無意識を至福の時間としている。だから眠っているときは気持ち良いし,教師や親にその思考の時間から現実に無理やり引きも出されると爆発的な怒りが込み上げてくる。誰にもこの時間は邪魔されたくない。
起きてったら!
わあ,と叫ぶ。「おれは心臓が悪いんだ! びっくりさせるな」快眠から起こされた腹いせも相まって大きな声を張り上げたつもりだったが,思ったほど声は響かない。ここはどこだ? 辺りは見渡せるのに真っ暗で,まるで宇宙空間みたいだ。宇宙? そう思った途端に息苦しくなった。宇宙には酸素がないらしい。宇宙と頭が認識してすぐに酸素がないという反応を身体が起こしたが,呼吸は普通にできる。単なる思い込みで酸欠で危うく死ぬところだった。
辺りを見渡すと何もない。体がふわふわと浮いている。数日前には,身体が入れ替わっているんだから,もう何が起こってもそれを事実と受け入れるしかない。きっとおれは,いま宇宙にいる。なぜかは分からない。
やっと起きたんだね。
後ろから声がしたので身体をそちらへ向ける。意外と身体は素直に言うことをきいた。
「誰だよお前。ここはどこだ」
初対面の相手には出来るだけ偉そうに,声を張って,横柄な口を利く。舐められたら終わりだ。そうして腰の引けた相手に,自分の方が上だと直感的に分からせてやる。それがおれのやり方だったが,声が尻つぼみになってしまった。そこにいた少年は,病室で手渡しされた手鏡の中にいた少年と同じ顔だったからだ。
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