二章 第三話「グロリアの矜持」

 デュランダル事務部棟にある一室には、指先すら動かすのを躊躇うほど重い空気が流れていた。

 整然と並ぶ机の一つに腰掛けたグロリアが、束ねられた紙を手繰る音だけが響く。


 傍らに立つエルキュールとオーウェンは静かにそれを見守っていた。

 あの受付前での出来事から既にかなり経過しており、棟内の人も本格的に動き始めた頃合いだった。


「……なるほど」


 そのグロリアの言葉があと少し遅れていれば、エルキュールは耐え切れずに声を上げていたかもしれない。


 慣れない環境で慣れないことをするのはやはり骨が折れるものだが、エルキュールはそれをおくびにも出さなかった。

 グロリアの切れ長の目を真っ直ぐに見据える。


「君に課したのは、あのヌール=ミクシリアの変についての詳細な記録を提出することだったな。エルキュール・ラングレー?」


「はい。ヌールの住民でありながら、今回の王都でも前線にいた俺の視点を以て、この複雑怪奇な事件の顛末を整理したいと」


「その通りだ」


 相変わらず鋭い態度だったが、これがグロリアという女性の常だ。早くも彼女の性格を理解し始めたエルキュールは臆することなく答える。


 グロリアは一つ大きく息を吐いて、「その上で問うが」と前置きしてからこう言い放った。


「君は、私を舐めているのか?」


「……それはまた、なぜですか」


 問われた意味が分からず、エルキュールは首を傾げた。

 舐める。舌先で触れるのではなく、愚弄するという意。もちろんその程度のことなら知っているつもりだ。


 けれどもエルキュールは報告書の作成に際して手を抜いた覚えなどなかった。昨晩から今朝にかけてエルキュールは今までのことを思い返せるだけ思い返し、慣れない記録にも尻込みすることもなく挑んだ。


 全力を注いだはずなのだ。怠惰の余地はなかった。

 エルキュールが訴えかけると、グロリアは宥めるような視線をくれた。


「文章に問題はない。読みやすく纏まっている。ただ……所々、君の心情やら個人的な感想やらが挟まれていて、それがどうも気になった」


「不要でしたか」


「アマルティアの悪辣さや、マクダウェルに対する疑念や葛藤はまだしも。君の友人であるグレン・ブラッドフォードの言葉や、魔術師ジェナの魔法観、あのシスターの魔獣への執着など。どれも事実の説明に紐づいてはいるのだが、趣旨とはかけ離れた記述が目立つ」


「それもよいではないか、グロリア。表現に富んだ文の方が拙者は頭に入りやすい」


「……機関内資料に叙情はいらん」


 机上に紙束を放り、きっぱりと告げるグロリア。外の通路はあれだけ装飾が施されているのに。手渡された紙を見ながらエルキュールは再び首を傾げた。


「作戦執行部は主として魔物に対処することを目的とするが、こうして報告を文に纏める機会もしばしばある。今後は気を付けるように」


「分かりました。今回は期待に添えず申し訳ありません」


「ふん、何を言う。今回は単なる試験だ。良いも悪いもなく、現状を確認するためのものに過ぎん。君はオーウェンが目を付け、総帥が所属を認めた者。仲間だ。私相手とはいえそう畏まる必要はない」


「……しかし」


「先ほどは厳しく言ったが、慣れない作業にしてはよく纏められていた方だと思っている。それこそ幾らかの訓練を経れば、事務部においても問題なく活動できるほどにな」


 グロリアが不器用な笑顔を見せる。普段は怒っているような顔をしている彼女も、笑顔は相応に可愛らしいものだった。

 その人柄も、同じく好感が持てる。


「……お優しいですね。アードランド事務部長は」


 珍しく、エルキュールの方から言葉が投げかけられる。対するグロリアは心底意外そうに目を見開いた。


「受付のヒトを庇っていたのも……あの行商人について俺が悩んでいたのも、率先して対応してくれた」


「そのことか」


 グロリアは立ち上がる。厳格な姿こそ頼もしく見えたが、こうして互いに並ぶとその背丈はエルキュールの肩までしかない。

 それでもなお、見上げるべき、偉大なものに思える。


「どちらも仕事だと言ってしまえばそれまでだが……それを抜きにしても、私には私なりの矜持があるからな」


「矜持」


「特にあのハリスが言っていた魔獣。その対処については常に考えてきたものだ」


 エルキュールとオーウェンの間を抜けて、グロリアは入口の扉に手を掛ける。


「ただ命を奪うわけでは足りない。魔物がなぜヒトを襲い、汚染するのか。それを解明しない限り、戦いに終わりはない。……どんな理由があったとしても、他の生命を刈り取ることは決して当たり前ではないという、甘い理想もあるにはあるがな」


「……研究」


「君は察しがいいな、エルキュール。研究部の存在はまさにその理念を体現している。デュランダルはただ魔物を殺すための集団ではない、より高次の目的のために動く組織なのだ」


 切実な、針のような空気を滲ませるグロリア。

 ただエルキュールはもはや知っていた。この女性が誰よりも優しいがゆえに厳しくある道を選んだのだということを。


「すまない、もう暫く会話に応じてやりたかったが、私にも用事がある。この後は引き続きオーウェンの案内を受けてくれ。……頼んだぞ」


「そう言われずとも心得ている」


 短く素っ気ない会話。エルキュールがここに来てから、二人が話している時間というのはほんの一瞬である。

 しかしそれでも、彼らの間には確かな絆があるのだと確信できるのだから不思議だ。


 最初はエルキュール個人の目的を叶えるための、足がかりのような場だと見做していたが。このデュランダルという組織に属することは、想像以上に貴いことなのかもしれない。


 オーウェンと共に部屋を後にしながら、エルキュールはそう評価を改めるのだった。





「さて、話は聞いていただろう? 次は研究部だ」


 事務部棟内を出て少し歩いた先でオーウェンが指針を示す。

 オーウェンが束ね、エルキュールが事実上所属している作戦執行部。今し方言葉を交わしたグロリアが統括する事務部。

 その二つと並ぶ最後の部門である。


「この事務棟から真っ直ぐ行った先ですか。思えば三つの部門の棟を結ぶと三角形になる恰好のようだ」


「三者の距離や位置関係は均衡と平等の象徴している。デュランダル総帥がここの建築時に仰っていたことだ。そして長官がいる司令部はちょうどその三角形の中心、背の高い建物にある。……まったく、妙なところでこだわりのある御仁だ」


 身体を傾けて空を見れば、陽光に照らされた建物がそこにあった。頂上付近にはデュランダルの紋章があしらわれている。

 黄金の柄に、白金の刃。確か不滅の剣などと言っていたか。

 どのような人物か想像はできないが、熱い想いを抱いていることだけは間違いなさそうであった。


「研究部を案内した後はあそこに行ってもらう手筈になっている。外見が目立つゆえ迷わぬだろうが、念のため心に留めておいてほしい」


「クラウザー執行部長は同行しないのですか?」


 道すがら気になった点を訊ねる。「予定がある」とオーウェンは言っていた。

 先ほど通った植物の道とは別の方を通っていくと、整然と並ぶ建物群が見えてきた。


「事務棟は縦に伸びていましたが、ここは横長の建物が多いですね。それにとても殺風景だ」


「建物の構造は安全面を考慮した形であろう。高層だと万が一の場合に避難が面倒であるからな。無味な見てくれであるのは、研究部長がそういったことに無頓着だからかもしれぬ」


 それは寂しいようにも思えたが、庭でもないのだから外観に趣向を凝らす方が珍しいのかもしれない。

 先を歩くオーウェンは、型でくり抜いて設えたかのような棟にも目もくれず、奥へ奥へと進んでいく。

 訝るエルキュール。オーウェンはおかしそうに笑った。


「ここの主、研究部長のローリー・ウィズダムはこれら建物にまるで感心がない。己が城に籠り、日がな一日研究に耽っているのだ」


 奥の方の開けた空間には城――というにはあまりに単純な、白一色の長方体の建造物があった。建物より箱と形容するのがもはや正しいくらいで、向かって正面にある上下開閉式の鉄扉ほどしか取り立てて述べるものがなかった。


「……大きさだけは申し分ないみたいだな」


 どこを切り取っても巨大な倉庫にしか見えず、人の気配とはまったく縁遠い。

 立ち尽くすエルキュールだったが、オーウェンはお構いなしに先を行く。

 鉄扉をノックすれば、がしゃんがしゃん。振動と共に派手な音が鳴った。


「返事がないようですが」


「不在なはずがない。大方寝ずの研究に疲れ、微睡んでいるのだろう」


 オーウェンに手招きされて裏に回る。飾りけのない扉がぽつんと一つだけあった。裏口のようだ。

 懐から取り出した鍵束から一つをはめ込み、気にせず中へ入ろうとするオーウェンに、エルキュールはぎょっとした。


「施錠されていて返事もない。寝ている可能性も考えると、研究部長も今来られるのは不都合なのでは? 後ででも顔合わせはできますし、先に別の場所を回ったほうが……」


「心配はいらぬ、この時間帯を指定したのは彼の方なのだ。それに他の研究棟を見るにも管理者たる彼に確認を取らざるを得ない。これも避けられぬことなのだ」


「はあ……」


 戦闘時には凛とした面が目立つが、平時のオーウェンは奔放で自由闊達なきらいがあるらしい。

 制止も聞き流し、ずかずかと棟内に入っていく。


「暗い……まさか本当に不在なのだろうか」


 遅れて入ってきたエルキュールも、言われて仄暗さに気付く。魔人である彼は見える景色もヒトとは異なるのだろうが、曖昧に同意を示しておく。

 光魔法ライトで室内を照らすが、広い内部を満たすには至らない。すぐ近くで、資料が散乱した机や汚い文字が書きなぐられた白板が微かに映るのみだった。


「照明はないんですか」


「ああ、それならばここは魔動機械式の――」


 覚束ない足取りで会話をしていたその時だった。


「侵入者ヲ発見! 侵入者ヲ発見!」


 暗闇に満たされていた室内が突如として光を取り戻し、どこから現れたか、視界にはが迫ってきていた。

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