一章 第四十一話「ルイスの物語 後編」
「今日、ボクが意識を取り戻して最初に目にしたのは、広く薄暗い空間とそこに倒れ伏した数々の使用人の山だった。何の調度品も置かれていないその部屋に当然見覚えはなく、そもそも今まで何をしていたのかすら記憶になかったボクだが、とにかくその不可解な部屋の中にボクは既に立っていたのだ」
唐突に再開された話は甚く突拍子もない内容で、その意味の咀嚼にロベールは苦しんだ。
ただ、「意識を取り戻す」という言い回しや、「既に立っていた」という言葉から、記憶の操作というのが当時の自己意識すらも奪ってしまうものだと考えさせられ、ロベールはわざとらしく眉間に皺を寄せた。
「藁にも縋る気持ちで、ボクは倒れている使用人に声をかけた。誰もが首を何かに刺されて反応を示さなかった。みな殺されているのかとも思って恐怖で気が触れそうだったが……その中で、アイツだけは……レイモンドだけは……ボクの呼びかけに答えてくれた」
「レイモンド。それがあの――」
漏れ出た言葉を、ロベールは強引に閉ざす。
ルイスに気を遣ったためだが、当の本人は「構わない」と力なく笑った。
本当に人が変わってしまったようだった。否、変わらざるを得なかったのだろう。
かつての高慢さと乱暴な言葉は消え失せ、未だ覇気のない声が緊迫とした中庭の空気を微かに震わす。
「アイツの顔を見て、アイツの声を聞いて、ボクは何故だか涙が止まらなくなった。まるで何年も会ってないような知己にあったようで……それでボクの中にあった違和感に、ボク自身気付いたのだ」
「それは……記憶が戻ったということでしょうか?」
「いや、こうして問題なく話せてはいるが、記憶自体は取り戻せてはいない。ただ自身が記憶を失っていること、今まである種ひとりでに動いていた意識を、そこでようやく制御できるようになった……と言ったところか。まあ、レイモンドの記憶に関してだけは、最後の瞬間に取り戻せたがな。アイツが塵となる光景を見て、ようやく。アイツはボクのよき理解者で、専属の執事で、身を守る近衛騎士であった。そうであったのに、ヌール事件を境にボクの前から姿を消し、記憶からも忘れてしまった……」
「…………」
ふと、ルイスが先ほど魔人と接敵した方を見やる。
ロベールは口を挟まずにその話へ耳を傾けていた。
レイモンドの再会を経て、自分の記憶が操られていた、もしくはそこまでとはいかないが、何かしらの違和感があると気付いた。
話を聞く限り、それを自覚するにはどうやら当人にとって強い刺激が、きっかけとなる何かが必要であるのかもしれない。
「その時のボクは動転して、アイツとも上手く話せなかった。だが、アイツはこの屋敷で起こっていることに気付いていたみたいで、切羽詰まった様子でボクに一刻も早くここを出なければと言ってきた。ここは父の手によって魔窟と化し、最初はただ気絶していたと思っていた使用人たちも、何かしらの暴行を加えられこの部屋に監禁されたのだと聞いた。話自体は半信半疑だったが、異常事態だということだけは分かった」
暴行、監禁。刺激的な意を持つ言葉が、まるで何でもないかのように飛び出す。
それが行われた目的を知りたくて堪らなかったが、被害者側である彼からでは網羅的な情報は聞けないだろう。
ロベールは話の腰を折ることを避けた。
「会話らしい会話をする間もなく、ボクは言われたとおりにするほかなかった。すぐにここを出て助けを呼ぼうと、ボクはアイツを連れて脱出しようとしたが、外へ通じる扉は固く閉ざされていて……しかも家では使われているのを見たことがない頑丈な鉄板、魔法を使えないボクらでは無理やり開けることもできなかった。そうして何もできず途方に暮れていたら、そうしたら急に、本当に何の前触れもなく、アイツが……レイモンドが……!」
細かったルイスの声は語るにつれて徐々に大きくなり、昂る感情を表しているのか瞳孔は大きく開いた。
きっとそこが、ルイスが最も恐れている部分で、最も重大な意味を持つ部分なのだ。
ここまで滔々と語ってきたルイスだが、やはりこの話題はできるだけ後回しにしたかったのだろう。
今の反応と、やけに整えられたここまでの時系列順の話し方が、それを雄弁に伝えている。
話すべきことだと理性は告げているが、感情がそれを拒絶している。
背反に喘ぐルイス、だが止めるという選択肢はないようだ。
息を大きく吸って、そして吐いて、やがて確かな眼差しをロベールへと向けた。
「アイツは突然、何かに苦しむように声を上げた。痛みを堪えるかのように胸に手を当てていた。喉が壊れるほどに喘ぎ、髪を引っ張って自我を繋ぎとめようとしている様は、まるで狂人だった。ボクは呆気にとられながらもどうにか言葉を絞って容体を確かめようとしたが、アイツは聞いた事もない乱暴な言葉遣いで、ただ『近寄るな』と……」
急変した態度と、痛み。
その症状とこの中庭での経験から後の展開が予測できて、思わずロベールの方が目を逸らしてしまう。
「顔色が黒く変色していき、煮えるような音を発しながら身体が肥大していき、服が破れた箇所から垣間見える肌は、やはり顔と同じ黒色……魔人があんなにも恐ろしいものだと、その瞬間まで考えたこともなかった。ボクはその場にへたり込んで、言葉を発することすらできなかった。このままボクは死ぬんだと、すっかり諦めていたんだ。そう、諦めていたんだが――」
再びルイスが言葉を区切る。
また辛いことを口にしようとしているのかとロベールは思ったが、思いのほかその表情からは影が感じられない。
あるのは、ひとひらの反感と感奮。一見して奇妙に映るそれに、ロベールは目を見張った。
「変換されつつある肉体を捩ってアイツが向かったのは、ボクではなく部屋と外を隔てる扉の方だった。肥大した腕が扉に勢いよく振るわれると、不快な金属音が鳴った。辺りに魔素を散らして強引に扉が壊された。それからその魔人はボクをじっと見つめて動かなくなった。いや、動かないように留めていたのだと……きっと、残ったレイモンドの意識がそうさせたのだと、ボクは思った」
「そんなことが……」
「……すまない、少し夢想が過ぎたか。とにかくボクは開かれた扉から外へ出た。そこであった一切に目を背けて、懸命に走った。そうして目の前にある階段を上ったところで、後ろから何か不気味な咆哮を発しながら近づいてくるのを感じた。ボクは恐怖に駆られて、振り返ることもなく走り続けた。そのまま外へ出て、中庭に辿り着いて……後の事は貴方も知っている通りだ」
話を終えたルイスの首はそこで力なく項垂れ、色の悪い唇からは長い息が漏れる。
精も根も尽き果てたといった様の彼に、再び回復魔法を施す。
精神にまで作用するとは思わないが、当のルイスの表情は少しだが和らいでいた。
「……辛いなか話していただき、大変感謝します。おかげで少しだけではありますが、この屋敷で起こったことを理解できたように思います」
労うその表情はルイスを捉えているようで、その実なにか別のものを映しているようにも見える。
そう、本当によく理解できたから。理解させられたから。
この状況が作為的なものであること。
そして、この屋敷に巣食う脅威というのは、なおもロベールたちに牙を剥いているということに。
ルイスが経験した不気味な出来事の数々がそれを表している。
ロベールは安静に置かれたルイスの足をちらと見てから、努めて冷静に次の手を考える。
彼の足の様子ならば、全速力で走るとまではいかなくとも、立ち上がるくらいならば造作もないはずであろう。
ルイスが閉口したのを見計らったかのように強まった周囲の魔素の感覚に内心で悪態を吐きながら、大凡の目算を付けたロベールは立ち上がる。
「――ですが、実に惜しい。少し時間をかけ過ぎてしまったようです」
「騎士団長、何を……?」
急に物々しい雰囲気を醸し出すロベールを、ルイスの頼りなき瞳が見上げる。
あえて言葉で返すことはせず、ロベールはそのままルイスの傍にまで近づくと、振り返って長方盾を構えた。
かつての騎士を彷彿とさせる守護の精神、それを宿した瞳で以てロベールが捉えるのは――。
「――ひひひっ。流石はロベール殿。極限まで気配を消していたのだがなあ、思いのほか早く気付かれてしまったようじゃ」
しわがれた声、くすんだ金色の長髪。
左手に先行させる杖に、糸が切れた人形のように覚束ない足取り。
その面に下劣な感情を貼り付けた老父がどこからか近づいてきていた。
「はい、そのようですねご主人様。騎士団長様におかれましては、ようこそマクダウェル邸へ。今まで碌なおもてなしもできず、大変失礼いたしました」
「くっ……お前は……」
老いぼれた男の後ろに続くのは、涼やかな声の長身の男。
黒服に黒塗りの眼鏡を装着した彼は、噛みつくようなルイスの視線を流し、徐に指を鳴らす。
それに呼応し、やけに統率の取れた動きで後ろに列をなす兎型と栗鼠型は、この屋敷でも散々見かけたもので。
「……誘われた、のか」
郊外で捨てられたヌール伯の遺体。使用されて間もないサロンルームのティーカップに、書斎であった意味深な資料の数々。
直前まで屋敷に人がいたと思われるにもかかわらず、あのように疑わしい物品は放置され、魔獣がそこら中を跋扈していた。
よもやあれだけの疑いをかけられた彼が魔獣の被害に遭ったのかと、今まで行ってきた調査は単なる邪推だったのかと、疑問が頭をもたげることもあったが。
ルイスの経験と、いま目の前にある光景を前にして、ロベールは自身の甘さを呪った。
「なぜ……なぜこんなことを……!」
次第に揺らぐ声を、猛き怒りに震えるその身を抑え、ロベールは問うた。
「なぜ、貴方が魔獣を従えている……否、なぜ貴方は魔獣を生み出そうなどと恐ろしいことを考えたのだ。答えろ、ビル・マクダウェル……!」
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