一章 第四十話「ルイスの物語 前編」

「癒せ――クラーレ」


 中庭に植えられた樹木の幹にルイスを落ち着かせたロベールは、足を挫いたという彼の足に治癒魔法を施していた。


 患部が見えるように履物をたくしあげたその脚には、強く打ちつけられことによる痣もできていたが、水の魔素の力はそれすらも瞬く間に回復させていくのだった。


「……感謝する。オスマン騎士団長」

「は――」


 ルイスの足は治った。少し慣らせば再び走れるようになるだろう。


 結局彼が負った怪我は軽微で、その命が潰えるということは免れた。


 つまり、ロベールはめでたく最悪の事態を防ぐことができたということだった。


「…………」


 しかし、それにもかかわらず二人の言葉数は少なく、彼らが纏う雰囲気もまた、酷く暗いものであった。


 脚は回復魔法で治すことができたとしても、失えば二度と戻らないものもある。


「レイモンド――」


 ルイスの細い声が漏れる。その名を呼んだのは何度目か。何度口にしようが、事態が変わることはないのだが、それでもルイスは溢れる悲壮を止めることができなかったのだ。


「…………」


 ロベールは依然として沈黙している。その届くことがない名前に触れてしまうのは気が引けた。


 それが届かないことなど、ルイスとて分かっているだろう。


 これは死者への未練がもたらす、切実な願いなのだ。決別の儀式のようなものなのだ。


 それを生者であり、魔人と化したとはいえその命を奪った張本人でもあるロベールが、気安く関わってはいけないだろうと――。


 ロベールはそっとルイスから視線を切って、辺りの中庭の敷地を見回す。


 いま彼にできるのは、周囲の安全の確保と、今後の方針を定めること。


 ここまで怒涛のような展開に呑まれ、満足な情報を得ることもそれを整理することもできないでいたのだが。


 このような形ではあるが、ルイスと会えたのはやはり大きい。

 彼の安全を保護することを最優先とし、探索を一時中断して外へ戻るのも手かもしれない。


 ここの魔獣は外のものと協力して対処する方針で進め、ルイスから詳しい話を聞くのは少し間を置いたほうがよいだろう。


 とすれば、魔物に気付かれないうちに移動を開始したい。

 そう思ってロベールがルイスに視線を戻すと、意外なことに投げた視線が彼のものと交わる。


 未だ覇気の感じられない瞳ではあるが、確かにそれはロベールの方を捉えていた。


「……騎士団長、聞かなくていいのか……その、ボクとこの家の有様について……貴方も、それを求めてここへ来たはずだろ」


「ええ。しかし、ルイス殿の体調が優れないのでは?」


「ボクのことなど、この際どうでもいい……吐き気を催すほどに気分が悪いが、まあ……今まで散々した愚行のつけだとでも思うことにするさ」


 力ない笑みを浮かべるルイスは、ロベールもかつて見たことがない類の表情であった。


 マクダウェル邸で招かれた折や、式典等で共に参加したときに何度か顔を合わせる機会はあったが、ロベールの知るルイス・マクダウェルとは傲慢で他を重んじない男であった。


 そのルイスが、己が不幸に絶望しつつもこうして言葉をかけてくれることに、ロベールは驚愕を禁じ得なかった。


 しかし、それは願ってもない申し出である。


 外の警戒のため魔素感覚を研ぎ澄ましてからロベールは続きを促した。


「ボクも正直、理解しかねる点が多いのだがな。どうもここ最近の記憶がおかしい。所々に欠損が……そう、まるで虫に食われ文字が読めない書物のような状態が続いている」


「なるほど、記憶……やはり貴方様も影響を受けていたのですか」


 意味深な発言に眉を顰めるルイスに、外で得た情報を簡単に伝える。


 不特定多数の王都民も同様の症状を患っていたこと。


 そのことで騎士団も少なからず損失を受け、結果として王都に魔獣の侵入を許したこと。


 そして、その記憶の操作にここマクダウェル邸の執事のエリックが関与している疑いがあるということ。


「そうだ、その男だ。父上が連れてきたあの眼鏡男……間違いない。やはりそうだ、あいつらが……あいつらのせいで全部……!」


「ルイス殿……?」


 疑念から納得、納得から憤怒へと表情を変えるルイスに、ロベールはたじろぐ。

 やはり情緒が錯乱しているのか、無理に話を進めるのは良くなかったのだろうか。


 そんな思いが一瞬頭をよぎるが、ルイスは構わず話し続ける。


「貴方も言っただろ、この街が襲われていると……今まで諸々のせいで理解が追いつかなかったが、ようやく分かった。その襲撃の契機を作ったのも、エリックを利用し、ボクを利用し、ヌール伯を利用し、街に災禍を招いたのも……レイモンドを含め屋敷の者にかように酷い仕打ちをしたのも……全てボクの父、ビル・マクダウェルの仕業によるものなのだ!」


 ロベールはすぐには言葉が出なかった。


 形跡はいたるところにあった。外であっても、この屋敷の中であっても。

 だからこそ覚悟はしていた。備えていた。その悍ましい事実を受け止め、適切に動けるように。


 けれども、だというのに。いざ当事者から直接に語られると、ロベールは思考が凍り付いたかのような感覚を覚えた。


「騎士団長、貴方がどこまで調べたか分からないが……ひとまずボクの最近の経験から話そう。その方がより多くの情報を得られるはずだ」


 ロベールが受け止めきれていないのを察し、ルイスが仕切り直す。


「セレの月・二日、あのヌール事件の前日。ボクは父の名代としてヌール伯邸へ赴いた。父からの手紙を届けるのが用件だったが、その詳しい内容は教えてはくれず、『王都での魔人騒ぎのことで協力を』と曖昧に誤魔化されるだけだった。今にして思えば、ボクは奴に仕組まれた勝手な騎士の移動の、それを実現するための片棒を担がされただけだというのに、当時は頼られたことへの喜びと、仕事を完遂したことへの満足を感じていた。本当に愚かだった……」


 目を伏せ、肩を震わすルイス。

 深い無力感と後悔が、雫となってその目から滴り落ちていた。


「ぐっ……。その後、王都の屋敷へ帰還し、あの魔動鏡での演説の話を聞いてボクは震えた。真相は分からないが、ボクのした行いはきっと何か良くないことだったと、そんな強迫観念に苛まれて悪寒が止まらなかった。すぐに父の部屋に行って説明を求めたが、奴とあのエリックとかいう男の姿を目にしたところで……ボクの記憶は途切れて……」


 記憶の途切れ、恐らくそれはその時点でルイスの記憶に操作が為されたことを意味する。

 が、やはり確かな方法は分からない。彼が言う状況を考えれば、その術者と直接相対したというのが鍵なのだろうか。


 徐々に平静を取り戻しつつあったロベールは、相槌を打ちながら情報の整理に努めた。


「それから今日までことは、本当に朧気にしか覚えていない。毎日この屋敷で目覚め、同じく眠りについたことは微かに覚えているが……どこへ行き、誰と会い、何を話したか、全て記憶にない」


「私も同じ症状の者を何度か目にしましたが、記憶を操作されても傍からは何も問題がないと見紛うほどに、それ以外の部分に問題が見られませんでした。食事をするのも、歩行をするのも……脳に異常があれば支障をきたすような行為でさえそうです。驚くほどに局所的で、かつ作為的。何かの目的を果たすためだけに用いられた、都合の良い手段。そしてそのような突飛な事象を作りあげる術というのは、この世界では一つに限られます」


「……魔法、か」


「ええ。実際に記憶の改ざんを受けた貴方様では分からぬことかとも思いますが……何か、心当たりの程は?」


 ここにきて初めてロベールの方から質問が投げかけられたが、彼の前置きの通り、ルイスの表情は芳しくない。


 件の記憶操作の方法については未だ情報が少なく、これを機に聞けるのではないかと踏んでいたが。


 彼の口から出たのは短い否定の言葉のみで、ロベールの短い相槌を最後に、そこでいったん会話が途切れた。


 これまでにルイスが語ったのは、ヌール事件前までの自身についてと、その後の記憶を失っていた今日までについて。


 すると自ずと残るのは、王都が襲撃に遭った今日の出来事についてのみ。


 ルイスの話しぶりから察するに、今日の時点で彼の記憶は正常に戻っている。

 記憶の復活、そして今ここに至るまでにルイスを襲ったであろう不幸。

 それは先の魔人について同じく、ロベールが彼に最も聞きたかった事項であり、そして最も聞くに憚る事項でもあった。


 意図的に避けてきたそれを、この期に及んで尋ねてしまおうかと、ロベールが逡巡していると。


「……そんな顔をなさるな、騎士団長。元よりボクの経験は全て話すつもりだ」


 それまで幹に凭れていた上体を起こし、居住まいを正したルイスが先に口を開く――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る