一章 第二十一話「冷徹なるシスター 前編」

「マクダウェルって……じゃあ、あいつが――」


 エルキュールの驚嘆の声に、グレンは怪訝と納得が入り混じった表情を浮かべる。

 マクダウェル家。この国の政治を司る王国議会に連なる一族であり、ミクシリアにその名を轟かせる大貴族の一つである。


 この王都において知らぬ者はいないほどの名家、その関係者である青年が平民が多く住むこの南東区に足を運んでいるともなれば、確かに多くの者にとっては驚くのも無理はない。しかし――。


「確か、ヌール事件で行方不明になったヌール伯が最後に会ってた相手っていうのが、そのマクダウェル家の人間なんだよね?」


 ジェナの言葉然り、ヌールの街が襲撃されたあの事件には未だエルキュールらの知らない謎が残されていた。

 アマルティアの襲撃を容易に許したのは彼らの周到さもあるが、当時のヌールの守りも十全ではなかったことも関係していた。

 その原因の一つが、管理者たるヌール伯の不在。故にその行方の手がかりとなるマクダウェル家はエルキュールらも注目していたし、明日に控える騎士団長ロベール達との会合でも提起すべき問題だと考えていた。


「ああ。それに何の因果か、今目の前にいるのがヌール伯に会ったとされるその人だ。この僥倖――何とか活かしたいが、悠長に接触できる状況でもないな」


 苦い顔で辺りを見回す。エルキュールらが立つこの百貨店の入口には、相も変わらず野次馬が集っていた。

「あれは誰だ」、「マクダウェルの坊ちゃんさ」といった声が耳を澄まさずとも入ってくる。

 ここで馬鹿正直に割って入って、下手に注目を集めてしまうのは避けたい。

 そして今日は予め休息日と定めていたことで生じた気の緩みもまた、エルキュールの行動を鈍らせた。


「おい。聞こえていないのか。何とか言いたまえよ。このボクを無視するなんて無礼、あの国王様ですらなさらないというのにさぁ」


 一歩、ルイスが目の前に立つシスター――風貌から判断されるだけで確証はないが――に近づいた。威嚇するような言葉を吐くルイスに、シスターの少女はなおも沈黙している。


 ルイスを恐れているのか。ただ、怯えているにしては彼女のその瞳はやけに力強い輝きを湛えているようにも見える。それは静かなる反抗の意思を秘めているようにも感じられ、直にルイスはその怒りをより募らせた。


「なあ! やはりその眼なのか! さっきから何なんだ、ボクの言葉が間違っているのか、正しいのか、それすらも言わずにじろじろ睨るばかりで……気に食わない女だな……!」


「……彼の態度はいたって平常。やはり私の勘違いなのかしら」


 声をさらに荒げるルイスに、シスターの少女はようやくその重い口を開いた。だが、どうにも会話が噛み合っていない。

 魔人であるエルキュールの聴覚でもってようやく聞こえるほどの呟き。それはまるで自分に聞かせるような独り言だった。その内容の意味は分からぬが、少なくともルイスの望んだ返答では決してないだろう。


「ああ、どこまでも鬱陶しい! いいだろう、ボクの言動に一切意を介さぬというのなら、好きにさせてもらおうじゃないか!」


 もはや予定調和に等しかった。無視を続けるシスターについに我慢が効かなくなったルイスが、硬く握った拳を解き彼女の方へと手を伸ばしかける。


 これ以上見過ごすわけにはいかない。理性は確実にそう告げているのだが、やはりこの状況で飛び出すことにエルキュールはある種本能的な恐怖を感じていた。

 だがそれでも硬直する脚に何とか指示を下し、ルイスの蛮行を止めに向かおうとしたその時――。


「おい、金髪。そこまでにしといたほうがいいんじゃねえか」


 先んじて、彼とシスターの間に割って入ったものがいた。

 グレンだ。軽薄な笑みを浮かべながら悠々と語る彼に、ルイスはもちろんのこと、相対するシスターまでも息を呑んでいるかに見えた。


 傍観していた者たちも、エルキュールやジェナもそれは同様だった。貴族に盾突くような真似をしたからというよりも、グレンが犯したもっと重大な失態のためだ。


「き、金髪だとぉ!? ボクを誰だと心得るこの赤髪が! その汚らしい言葉遣い、有名な家の出だとも思えんが。一応は名を名乗る機会をくれてやろう! さあ、浅ましい品性の貴様は、一体どこの誰か? 返答次第では許しを乞う権利をやらなくもない」


「いやいや、名乗るほどのもんじゃねえさ。あんたのような大貴族様がその気になりゃあ、赤子の手を捻るように始末できる、ただの通りすがりの旅人さ」


「ほう……? なるほど、つまり貴様はあれか。自殺志願者ということだろうか。世を儚んで、健気にも大貴族の一員であるボクの怒りを煽り、その命すら捨て去ってしまいたいと。ははは! 民草の思考というのは実に可笑しいものだな! この時勢、魔獣の脅威なぞあってないようなものだと思っていたが、どうやら弱き平民にとっては違うようだ。いやはや騎士を自由に操れるボクのような大貴族からすると、ほとほと理解に苦しむなぁ」


 この言葉には流石に周りに群がる民衆も不満の表情を露わにする。ルイスに聞こえぬように彼への罵倒を口にする者もいた。

 隣を見れば、心配そうにエルキュールを見上げるジェナと目が合った。大方、元ヌール住民である彼を気遣っているのだろう。


「そうかそうか。だが、貴様のような見るも下劣な旅人風情の思い通りに動くのも癪だな。死にたいのなら他を当たりたまえ、もしくは絶望の中でその塵のように無価値な人生を過ごして――」


「そんなつれないことを言わないでくれよ貴族サマ。そうだ、口利きじゃねえが、ちょっとこいつを見てくれねえか? あんたの慧眼なら、気に入ると思うんだがなぁ」


「ふん。なお情けなく食い下がるか。だがまあ、良い。見るだけならば構わん」


 そうしてグレンは懐から何かを取り出して、ルイスの目の前に翳す。すっかり蚊帳の外に置かれてしまったエルキュールだが、どうにかして情報を得ようとグレンの手元に注目する。


 目を凝らして辛うじて分かったのは、それが赤く輝く物体であるということ。グレン言葉から察するに宝石の類か。

 確かにある程度の価値はあるように見受けられるが、それで貴族を相手取ろうなど少し浅はかではなかろうか。


 訝しむエルキュールだったが、肝心のルイスの反応は予想外のもので、差しだされたそれを見るや否や驚愕に顔を青くした。


「なっ……貴様、どういうことだっ、聞いてないぞ! その紋章はあのブラ――」


「おっと、勘違いしないでくれ。あくまでオレはちょっとばかし所縁があるってだけだ。なんの権限もねえ。だけどまあ、これ以上勝手に振る舞うといずれ自分の身を滅ぼすことになるって気付かせたかったのさ。王都も変わりつつあるからなぁ」


「クソ……わざとへりくだって近づいてきたのか? その性根は全く腐っているようだな。だがそんな名家であっても、果たして本当にボクを止める力があるのかは疑問だな。家の格はともかく、所詮は王国議会から離れた落ちこぼれだ! 伝統に革新をもたらそうと力を付けているとはいえ、それでもまだ頼りないのではないか?」


「さっきの魔獣の話といい、大貴族ならもう少し情報は追った方がいいと思うぜ。最近じゃあ、貴族の罪もしっかりと裁くことができるよう整備が進められてるんだよ。いつまでも甘えってっといつか本当に後悔するぞ」


「ちっ、よくもぬけぬけと。虚勢を張っていられるのも今のうちだけだ。もう言葉は十分だ。まずは貴様に教育を施し、その次は後ろの生意気なシスターにボクの偉大さを知らしめてやる。おい、レイモンド!」


 ブラッドフォードの影をちらつかせ、この場を収めようとしたグレンの試みは実らなかった。ルイスは滾る威勢のままに、振り返って使用人のものと思しき名前を呼んだ。


「ん、レイモンド……?」


 だが、様子がおかしい。ルイスが呼びかけたその先にはそれらしき人影はなかった。あるのはエルキュールを含む野次馬のみである。


「いや、待て……そもそも、レイモンド、とは……一体誰の……」


「おい。どうしたよ急に?」


 不審な出来事はなおも続く。そこに目当ての人物がいないと知り、ルイスは酷く動揺したように頭を抱えた。尋常ではない彼の様子にグレンも、傍らのシスターも、エルキュールらも不思議そうに首を傾げた。


 それは瞬く間に全体に伝播し、周囲の空気が一変した。


「エル君、これってどういうこと? あの人急に態度が変わって――」


「分からない。そもそも付き人がいるのなら最初からこんな事態にはなってないはずだが」


 あまりの唐突さに、エルキュールの思考も鈍る。どこを終着点とするのか、ルイスをどのように対処するのか、目的を見失ったような心地で呆然とその様子を見ることしかできなかった。


「ルイス様。こちらにおりましたか」


 と、一瞬膠着状態となったその場に、どこからか涼やかな声が発せられた。声のした方を探ると、黒服に黒いガラスの眼鏡を身に着けた長身の男が、流れるような脚運びでルイスたちに近づいていく様が見て取れた。


 言葉遣いから考えれば、彼がルイスの付き人であるのだろうか。そのままルイスのすぐそばにまで近づくと、その黒服の男は眼鏡越しに困ったような笑みを浮かべた。


「私が会計を終えるまでの間にまた何かあったようですね? あまり騒ぎを起こさないように父君からも命じられているのですが」


「レイ――いや、エリック、だったか。そう、だな……済まなかった。少し遊びが過ぎた。用が済んだのなら戻るぞ」


「ええ」


 黒服の男、エリックの言葉には不気味なほどに従順なようだ。それから平静を取り戻したルイスはグレンとその他全員を人睨みしてからその場を立ち去った。

 エリックの方はそんな主人の様子に呆れながらも、今度はエルキュールたちの方に眼を向けると、優雅に腰を折って一礼した。


「皆様方、この度は騒ぎを招いてしまって申し訳ありません」


 それからエリックはよく通るその声で、グレンやシスターはもちろん、その場にいる全員の眼をしっかりと捉え、謝罪の言葉を述べる。


「今後はこのようなことはないよう図らっておきますので――皆さま、安心してお戻りください」


 その言葉は妙な力強さが籠っているようにも感じられた。それも手伝ってか、周囲に集っていた人々も何を言うでもなく、すぐに散り散りになったのだが。


「……?」


 その様子に若干の違和感を覚え、エルキュールはその場に立ち尽くしてエリックの方を見やった。

 理由は分からないが、目が離してはならないような気がしたのだ。疑念に駆られ、隣のジェナにだけ聞こえるほどの音量で尋ねる。


「今、何かおかしくなかったか」


「うん。エル君も気付いたんだ? 気のせいかもだけど、あの人がこっちを見て話していたとき、目元が薄っすら光ってたような……太陽の光とも違って見えたし」


「そうだな。それにあのルイスとの会話にも、どこかぎこちなさのようなものが――」


 同意を示すように頷くジェナ。マクダウェル家に関係しているという先入観もあるのか、先ほどのルイスたちの様子には言いようのない違和感が感じられた。

 その正体を今すぐにでも明らかにしたい、エルキュールはそう願ったが、ここでその視線に気が付いたエリックが、未だその場に留まるエルキュールらを不思議そうに一瞥した。


「おや、あなたたちは行かれないんですか?」


 これはまずい。直感的にそう感じた。先ほどの件で彼らへの疑いがまた一つ大きく膨れ上がったが、この場で接触するのはエルキュールにとっても想定外だった。

 ヌール事件の全貌を探り、アマルティアについても調査を進める。その旅の目的に近づいた瞬間ではあるが、できればこのことも含め明日の会合で話し合ってから行動したいというのが、エルキュールの本音であった。


 つまり、この場で下手にエリックの印象に残ってしまうのはよろしくない。ジェナも彼のその思いを汲んでいるのか、心配そうに彼の顔を見上げてはいるが下手に口を開く素振りは見せなかった。


 何も勘ぐられないよう、エルキュールはごく自然に視線を滑らせ、この場を切り抜ける策を見出そうとした。


 逃避にも似たその行為の先で、ある一点にエルキュールの目線が止まる。

 先ほどのエルキュールよろしく戸惑った表情を浮かべているグレンと、顎に手を置いて何やら思いを巡らせているシスターの姿があった。


 これだ、と思い至ったエルキュールは、意味ありげにグレンらとエリックの方を交互に見やった。


「ん、ああ。これは申し訳ありません。こちらの両人のお知り合いでしたか。なるほど邪魔なのは私の方だったようですね……大変失礼しました」


 エルキュールらもあくまでただの被害者なのだという点を、エリックに殊更強調する。その不満そうなエルキュールの様子は彼の目にも自然に映ったようで、再度謝辞を述べると、今度こそルイスの後を追ってこの場を後にした。


 その背が見えなくなったところで、エルキュールは息をついた。思わぬ事件に巻き込まれそうだったが、何とか平穏にやり過ごすことができた。


 ルイスに絡まれていたシスターも結局無事だったわけで――。


「ああ、そうだった」


 弛緩した意識を締め直すようにエルキュールは独り言つ。

 あたかも全てを解決したと思い込んでいたが、件のシスターとそこに切り込んでいったグレンのことが残っていた。


 もはや観光をしている場合ではなくなった今、本当はすぐにでもルイスとエリックについて二人に相談したいと考えていたのだが、このまま黙って行くのも気持ちが悪い。やはり形式的であっても挨拶は必要だろう。


 そう思ってグレンらの方に近づいたエルキュールだが、その方を見るや否や心底うんざりしたように目を伏せた。


「あなた、さっきは一体何のつもり? 私は助けてとは一言も言っていないわ」


「ああ? そうは言っても、思いっきり絡まれてただろうが。あのまま放っておけばどうなるか、分からないなんて言わねえよな。それとも――マジで分かんなかったから今までずっと黙ってたのか?」


 何故か今度は二人が言い争いを始めていたのだ。


 シスターはいつの間にかヴェールを脱いでいて、その容貌が明らかになっている。

 ヴェール越しに見えた水色の髪、鋭さを備える瞳。第一印象と同じく、どこか冷たい印象を感じさせ、発する言葉からもそれが窺える。


 どうやら彼女はグレンの助けを求めていなかったようで、礼を言うどころか突き放すような物言いだった。

 その直接的な言葉にグレンも当てられ、軽薄な態度は崩さないものの明らかに彼女を揶揄っていた。


 折角一難去ったというのに、これではまた同じことが繰り返されるだけなのではないか。

 エルキュールとジェナはいよいよ顔を見合わせ渋い顔をつくった。


「いいえ。私はただ、彼を観察する必要があっただけ。それを勝手にあなたが邪魔したの」


「そんなこと知るか。全然そうは見えねえし、もしそうだとしてももっと上手くやりやがれ。紛らわしいんだよ。ったく、損をした気分だぜ」


「あら、親切の押し売りだけに飽き足らず、自らのした行為を嘆くなんて。これほど情けないことはないわね」


「……ほーう。見知らぬ人相手に随分な物言いじゃねえか。都合が悪かろうがトラブルを避けられたのは事実だろ」


 エルキュールらが近づくことにすら気付かず、グレンとシスターは口論を続ける。

 どう収集を付けようかと再び悩むエルキュール。

 シスターの発言に気になる点はあるものの、まずは二人を落ち着かせなければ。

 先刻機転を利かせたグレンも今は頼れない。


 エルキュールは二人の仲裁に入ろうとしたが――。


「そう、ならはっきり言うけれど、貴方にそんなこと言われたくないわ。王都のある筋の間では有名なのよ? 名のある武家の子息でありながら、浅薄な考えで周囲に迷惑をかける。その癖本人はそれが人のためになる善いことだと信じている。ねえ、少しは自分を見つめ直した方がいいんじゃないかしら? グレン・ブラッドフォード」


「なんだと……?」


 なお冷たくグレンに当たるシスターの言葉に、エルキュールらは凍り付いたように動きを止めてしまうのだった。


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