一章 第十七話「閑静な夜会」
カーティス隊長とエルキュールらとの会合はそれからつつがなく終わりを迎えた。と言ってもあの話題以降のエルキュールは全くと言っていいほど頭が働かず、その内容の記憶もどこか朧気であった。
最低限の情報として、カーティス隊長が王都の騎士へ橋渡しをしてくれ、迎えを手配してくれること。その間エルキュールたちはこのアルトニーに滞在しなければならないことは、念のためグレンとジェナに確認を取ったが。
会合を終えたカーティス隊長はすぐにでも騎士団本部と連絡をしたいとのことで、一足先に詰所へと戻っていった。
何の偶然か泊っている宿が同じであったジェナとは、各々の部屋で別れるまで帰りを共にした。そのジェナも、相部屋であるグレンも、揃ってエルキュールを心配してくれていたのを覚えているが、エルキュールにはどうにも上手く返せた自信がなかった。
まるで意識に
隣のベッドにいるグレンの煩いいびきが、鈍麻したエルキュールの意識にさざ波を立たせてくれたのだろうか。
それとも夜に混じる闇の魔素に、魔人としての本能が刺激されたのか。
光に群がる虫のように、もしくは糸で操られる人形のように。エルキュールの身体は無意識のうちに、暗闇に閉ざされた街へ誘われていた。
アルトニーの夜風に交じって舞う闇の魔素、空気中に含まれるそれを、エルキュールはやけに敏感に感じ取っていた。振り返れば今日は随分と力を消耗した、その反動で身体を形作る魔素質が反応しているのだろうとエルキュールは思った。
疲弊した身体には夜の散歩が丁度良い。エルキュールのコアも魔素質も、闇属性の魔素を中心に形成されているので、意図して魔素を吸収をしなくても闇の魔素を浴びることができるのだ。
欠乏したものが満たされていく感覚は心地よく、人の世界に生きる魔人にとって何より貴重なものだ。身体だけでなく精神もまた安らいだように感じられ、エルキュールの足取りも徐々に軽くなる。
「……あ」
そうして黒く染まる道を闊歩していた足がふと止まる。今朝――ひょっとすると昨日の朝かもしれない――通り過ぎたアルトニーの広場、そこにはかつてのヌールと同じく魔動鏡が鎮座していた。
もちろん広場なのだから魔動鏡があるのは当たり前の事なのだが、今のエルキュールにはこの事実を単なる事実として消化することはできなかった。
広場に設置された長椅子は当然のことながら空っぽだ。鏡に最も近い席に腰掛け、エルキュールは視界いっぱいに広がるそれを見つめる。今は何も映さぬ鏡面には、こちらに目を向ける黒い影。
脳裏に浮かぶのはやはり、あの時示された可能性についてのこと。あのヌールの事件の裏に潜む悪意ある人間の話だ。
「カーティス隊長はあくまで推測の域をでないと言ったが……それは俺を気遣う心から来た方便だろう」
幾分か冷静になった思考でエルキュールは整理する。
全国の街に設置された魔動鏡は受信用に造られているので、専門家の手は然程必要ではない。
その一方で、唯一各地全ての魔動鏡と繋がることができるミクシリアの魔動鏡の場合は事情が異なる。
日常的に映像を送信するその魔動鏡は魔法技師によって管理され、限定された人種にしか扱うことはできない。
映像の送信には希少な光の上級魔法・ビジョンが必要だからである。
だが、その制約があるにもかかわらず、あの時は信じがたいことにリアルタイムの映像がアマルティアの意のままに放映されていた。
ややこしい話になるが、厳密にはザラームがヌールでの映像を王都に送り、そこにいた何者かが全国の魔動鏡にそれを飛ばしていたのだろう。
それであのザラームの映像の仕組みについては説明できるのだが、ここでまた新たな問題が出てくる。
もちろん王都にいる何者かについてだ。
カーティス隊長が触れたように、王都に魔人が侵入した事実は確認されておらず、そもそもそれができるのならヌールのように派手に立ち回る必要がない分、多くの人間を汚染することができるだろう。
「でも、実際はそうなってない。王都にいる何者かは映像を飛ばしただけだ」
エルキュールは魔動鏡を見据えていた視線を下に落とす。やはりどう見ても、状況から示唆される結果は一つだった。
王都には魔人と関わり持つ人間がいる。無論、現状ではその動機も方法も分からないが、これほど事態を上手く説明できる仮説はもはや残されていなかった。
だがそう考えるのはエルキュールの在り方を逸脱するもので、だからこそあのカーティス隊長の言葉に絶望の淵に落とされたかのような感覚に陥ったのだ。
自らの――世界の敵はアマルティアだけだと、イブリスだけだと、そう思っていたのはただの欺瞞だったと。
己を律し、曝け出すことを禁じた。そうしてまで認められようとした、家族と共に暮らそうとしたこの世界は、決して美しいだけのものではないのだと。
八年前のあの日、家族と共に村を追われ、住人に虐げられたことの原因が本当は彼らの傲慢さにあったのだと、少しでも魔人である自分に優越や肯定感を感じてしまうのが何よりも嫌だった。
全ては自分の咎であるのに。自らの罪深さを赦してはいけないのに。
「……ふぅ、ダメだな。また気が滅入ってくる」
せっかく払拭されつつあった不快感が湧き上がってくるのを感じ、エルキュールはその場に立ち上がった。
どちらが悪で、どちらが正義か。何を憎み、何を愛すか。ザラームとの邂逅の時と同様に、自らの価値観が揺らいだのは間違いないが、それで負の感情に囚われるわけにはいかない。
来るべき王都入りに備え、前向きな心構えをしておく必要がある。ここで腐るよりはせめて魔法書の一つでも読んでいた方が有益だろうと、エルキュールは踵を返したが――
「よう! いい夜だな」
「えへへ……来ちゃった」
その先にいた二つの人影に声をかけられる。反射的に身構えるエルキュールだったが、すぐにその声が自分にとって馴染みのあるものだと気付いた。
だが、彼らは疾うに眠りについたはず。不審に思いながら闇に紛れて窺いしれない二人を見やる。
「グレン……それにジェナも。どうしてこんな所に? 二人とも眠っていたはずだろう?」
「……うわ、こいつマジで言ってやがるのか?」
「……ちょっと信じられないなぁ」
驚きから思わず反応しそうになったコアを抑えて訊くエルキュールに対し、ジェナもグレンもお互いの顔を見合わせるばかりで質問に答えようとしない。 そのまま二人は先ほどまでエルキュールが座っていた長椅子に腰掛けると、彼にも席に着くよう手を振った。
意図が汲み取れないまま、とりあえずそれに従って空いていた二人の間に腰を下ろした。
が、そこから誰が何を言うでもなく辺りは静寂に包まれた。用があってわざわざ会いに来たのだろうに、二人からは一向に何かを言う素振りも見られない。
大方、さっさと部屋に戻って休むように言いに来たのだろうが、だとすればここでこうして落ち着いている理由もないはずだ。
理不尽な沈黙は次第にエルキュールを焦らし、ついには声をあげようと口を開く。しかしそれと同時に、それまで空に浮かぶ月を見上げていたグレンが、そこから目を逸らさないまま唐突に呟いた。
「あぁ……そういえばジェナには言ってなかったかも知れねえが。俺の養家はブラッドフォードっつう、王都じゃちょっとばかし有名な家なんだけどよ――」
いきなり何を。突然始まった語りにそう口にしようとしたエルキュールだったが、隣のグレンの横顔がやけに真剣なものだったのでつい口を噤んでしまった。
一方で、グレンがブラッドフォードの関係者だという事実に驚いたのか、ジェナの方は興味深そうに身を乗り出した。
その様子に薄く笑うグレンだがすぐにその表情に翳る。
「物好きな当主サマに迎えられて以来、オレの生活は一変した。古くからある武家というのもあって勉強や剣術の指導なんかは、あんまり認めたくねえが最高級のものを教えてもらった。だが同時に、オレにとって騎士の名家であるブラッドフォードは、そいつらの汚ねえ部分を見せつけてくる鏡でもあった」
一瞬、グレンの深紅の瞳にそれよりも赤い炎が宿ったような気がしたが、それと引き換え語る口調はなんとも冷ややかだった。
その奥にある感情の揺らぎを読み取ることはかなわなかったが、彼が言った言葉の意味に関しては今朝の経験から容易に理解できた。
隣を見れば、ジェナも同じことを想起したようで、その端正な眉を曇らせていた。
彼女からすると、あの騎士の身勝手な過ちによって自らを慕う弟分が危険な目に遭わされた形なのだ。その反応も自然なことだった。
「権力者に悪事の片棒を担がせられたり、逆にそいつらに取り入るのを優先してわざと責務を放棄したり……もちろん表立ってやる奴はいなかったが、環境も手伝ってかよくそんな光景に遭遇したし、そのせいで傷ついた奴らもいたもんだ。そうしてガキの頃からそんな環境で育った結果、騎士学校に入る頃には騎士なんて大嫌いになっていた」
「……そうか、嫌いか」
その言葉を聞いてエルキュールもようやく理解した。
グレンがなぜ騎士の目を避けるようになったか。出自を明らかにしなかったのか。根底にあるのは騎士という人種に向けられる大きな不信感。
今朝の出来事も、ヌールでの様子も。それを踏まえると辻褄が合う。
「人のため国のためだのと嘯いて、欲に眩んで守る対象を忖度する……そんな連中と同類になるなんざ、オレはまっぴらごめんだった。入学を前にして、オレはあのいけ好かない男に言いたいだけ言ってから家を飛び出した」
「えぇ!? グレン君、家出しちゃったの!? 騎士学校に入学する前って言えば、十五歳とかでしょ……? 流石に心配したんじゃ……?」
「そうだけどよ、どうしても嫌なものは仕方ねえだろ。つーか、ここにいるのはオレと似たようなもんばっかだろうが」
確かにグレンの言う通り、三人とも現在は家を離れている身だった。エルキュールは魔人としての罪悪感から。ジェナは修行に追われ。グレンは騎士を嫌った。
窘めるようなその口調に、エルキュールは自身の中で燻ぶっていた負い目が和らぐような感覚を覚える。
言うなれば奇妙な親近感に癒されたようだった。
「家を出てからは、魔法士の資格を取って世界各地を回った。騎士になるよりもこうして旅をしながら魔法士の仕事をする方がよっぽど周りのためになると信じていたからな」
「信じていた……って? 旅をしながら魔法士の依頼を受けて多くの人の役に立つなんて凄いことだと思うけど」
「……まあ、そういう部分もあったけどな。現実は厳しいもんだ。魔法士としての腕を聞きつけて近づいてくる輩の中には、性根が腐っちまってた連中もいた。所詮は十五かそこらのガキだと舐められ、騙されたり軽く扱われたりなんてしょっちゅうで……思い出すのが嫌になるくらい惨めな仕打ちを受けたこともあった」
重たい息を吐くグレンからは確かな悲壮が感じられた。
家を離れ、一人で旅に出た。そうして自らの信念を貫いた先にあったのは、彼の期待にそぐわないもののようだった。
「そんな奴らと関わっていくうちに気づいたんだよ。なるほど誰にでも手を差し伸べるべきなんてのは間違いだと。悪知恵を働かせていたあいつらは別に間違っちゃいなかったと……誰だって好んで傷つきたくはねえ。自分を守るためには、生きていくためには、相手にいい格好をして時には欺くことさえ必要なんだってな」
「それは……! グレン君じゃなくて、その人たちが勝手にしたことで……騙すほうがいいだとか、そういうのは間違ってるよ!」
堪らずと言った様子で声をあげるジェナに、エルキュールも肯ずる。
その旅の中でどれほどの苦悩があったのかは分からない。しかし、グレンの正義感が全くの間違いで、その騎士やらのような曲がりくねった性格こそが正しいとは思えなかった。
エルキュールもまた人間の善性を信じていた者。グレンのその気持ちは報われてほしいと願わざるを得なかった。
そんな二人のその様子に幾らか溜飲が下がったのか、一転してグレンは穏やかな表情を見せる。
それから宙を見上げていた視線を下ろし、それまで交わることなかった目線がようやくぶつかる。
「半分はそうかもな。オレが甘かったのは事実だが……そもそも何が正しいってのは、最初からはっきりと分けられるもんでもなかった。こっちの主義や思想なんてのは関係ねえ。こんだけ数がいれば、相容れない奴なんていくらでもいる。けど、それに苛立ったり無理やり押し付けようとしてもしょうがねえ。そいつらにも手前の信念ってものがあるからな」
朗々と語るグレン。対してエルキュールの方は、ここまで話を聞いてようやくその真意を朧気ながら理解することができた。
彼が言った内容は、先ほどまでエルキュールが考えていたことにも係っている。
「エルキュール、お前に出会ったからこそオレはそのことに気付いたんだぜ? ヌールの街、家族、誰かの幸せのために戦うお前を見て……今日の出来事を通じて、そう割り切れるようになった」
「……そうなのか」
真っ直ぐにぶつけられた思いに、意図せず目を逸らしてしまう。グレンという男が、こうまで自分の本音を口にするとは思わなかったのだ。
ただでさえ小恥ずかしい内容だったので尚更だ。
「だからよ、あまり簡単に揺らぐんじゃねえぞ! これから起こることがなんであれ、誰がどうしようと、お前が正しいと思ってることを為せばいいんだ」
自分が正しいと思えること。思考するエルキュールの目線がふと正面へと移る。
その先にある魔動鏡は今は何も映さない。夜の暗闇に溶けてしまいそうなエルキュールの姿を除いて。
魔人である自分。かつて人間に疎まれた自分。今なお逃げるように家族から離れている自分。
グレンはエルキュールの中に正しさを見たそうだが、やはり自分自身ではあまり見えてこない。
「……私、エル君が迷うのも分かるなあ。ご家族とお別れしちゃったことも、アマルティアと戦うことも。そして今になってあなたが巻き込まれた事件が、想像以上の悪意に満ちたものだと分かった……きっと、すごく辛いよね」
今度はもう一方から語りかけられる。奮い立たすような力が込められたグレンの声とは異なる、そっと寄り添うが如く優しい声色。
「だから、ゆっくりでいいと思うんだ。全部が全部、簡単に決められることじゃないし、割り切れないと思うから。それに――」
そこで言葉を区切り、ジェナはまるで勿体ぶるかのように一拍の間を置いた。
「『何をすべきなのが正解だとか、どうあるべきが正義だとか……特に人の根源的な部分においては、誰にも決められることではない』ってね」
「は……?」
「く、くくっ――」
変に声を低くして喋るジェナに、堪えきれずに笑うグレン。
唐突なことで反応が遅れたが、すぐに先の言葉はかつてエルキュールがジェナに放った台詞であり、彼女はわざわざご丁寧にエルキュールの物真似を演じたのだと悟る。
「く、ははははは! それ、エルキュールの真似かよ! 傑作だな!」
「もう……! グレン君、笑わないの! 私はただ、エル君に思い出してほしかっただけで……!」
自身を挟んで互いに好き好き言い合う二人に、エルキュールは思わず溜息が零れた。
二人の言葉が云々というより、弛緩した雰囲気に当てられ今まで悩んでいたことが馬鹿みたいに思えてしまったのだ。
「ああ、もう……えっとね、エル君? 違うの、あなたのこと馬鹿にしたとかじゃなくて……! 私はこの言葉に凄く救われて、それで……!」
「大丈夫だ、分かってるから」
両手を頻りに動かして弁明するジェナに、エルキュールは首を横に振る。そこまで必死にならずとも、彼女の性格はこの短い時間でも知れている。
「うん、ありがと。それでね、その言葉を聞いてから思ったの。やっぱり迷ったときは自分で決めたことに従うのが一番だって。私は自分の意思であなたといくことを決めた。だからエル君にも自身が持てなくても前に進んでほしいな」
「そうか……それで君たちはここに来たのか」
己が行く道に不安を感じていたのもすっかり筒抜けになっていたようだ。だからこそ二人ともエルキュールの身を案じ、心に寄り添ってくれた。
「俺は――」
考える、自身の望みを。
家族と共に平穏に暮らしたい。しかし、それでまた村を追われた時のような逃亡生活を強いることは避けたい。
そのために、差し迫った危機であるアマルティアとの問題を解決したい。
ひとまずここまでだ。エルキュールの願いを叶えるためにはまだまだそれだけでは足りないが、最低限これだけは解決する必要がある。
そしてそれを遂行するための策も一通り揃っている。共に戦う同士も。彼らに頼るという決意も。王都へ行くという指針も。そしてそこで何があろうとも進むという覚悟も。
時間はかかった。回り道もした。しかしエルキュールは自身に必要なものをほぼ全て手に入れたのだ。
ならば彼らの言う通り、後は前だけを見ていればいい。後ろを振り返ることも、過剰に周囲を意識して萎縮することもしていられないのだ。
「うん、そうだ。全部二人の言う通りだった。ありがとう……ジェナ、グレン。少しどうかしてたみたいだ」
自問を終えたところで、道を照らしてくれた二人に礼を言う。エルキュールが変に悩んでいたために、二人に夜遅くまで出歩かせてしまった。
「気にすんなよ、これもデキる男の務めだ」
「なにそれ、最初に行こうって言ったのは私の方なのになぁ」
互いに軽口を言いつつ立ち上がる。気が付けばエルキュールが来たときよりもいっそう夜が更けていた。
「早く戻ろう、王都入りは近い」
「まあまあ、少なくとも明日ってこたあない。どうだ? いっそのことこれから景気づけの酒でも」
「……いいから帰るよ! 私もう眠いんだから……」
「ああ、すまん。お前はまだ呑めなかったな」
「だーかーら! 私はもう十八歳!」
相変わらずつまらないことで言い合うものだと、エルキュールは内心呆れかえっていたが、この静かな闇の中ではその喧騒すら心地よいものであった。
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