一章 挿話①~アヤ~「遺されたもの」

 彼のヌール事件から八日が経ったセレの月・11日のこと。破壊された街を復興しようとする計画が開始され、それに先駆けて郊外の空き地には仮設住宅が設置されていた。

 事件当時ヌールの外にいた住人、そして襲撃から逃げ延びた住人、それまで各地で難民生活を送っていた人々も、その動きに乗じて徐々にヌール跡地へと集まっている。

 その何れもが、元居た住処を追われ、知人の多くを失うことになった。それでも彼らはその地で再会できたことを喜び、互いに街の復興に尽力しようと、青空のもとで誓いあったのだった。


 ヌール復興には比較的体力のある元住民たちのほかに、王国騎士団本部からの要請で赴任した騎士が参加することになった。

 先んじて行われたのは具体的な被害状況の確認。一見して全ての住宅が崩壊しているということもなく、細かく見ていけば生活に使えそうな物資がそのまま残っているかもしれないという希望があった。

 念のため騎士連中が跡地内に魔獣の残党がいないかどうか魔素を探り、崩落の危険がないと分かったうえで、有志の住人たちは廃墟と化したヌールを探索することになった。

 一連の動きは迅速で、元住民たちは我先へと内部へ入っていった。近くにいた騎士たちも、探索における危機はないとはいえその住民たちの勢いに注意の声を飛ばす。


 ずっと帰りたかった場所がもう目の前にあるのだから、そんな簡単に止まるわけもない。

 暫くしないうちに、その場にはお揃いの薄紫の髪が映える二人の女性のみが残された。


 一人は物腰柔らかな壮年の女性。もう一人は利発な雰囲気を醸す少女。身体的特徴から母娘だと推測できる彼女たちは、先ほどまでここに集っていた元住民たちの一員であった。

 だがどういう訳か、その脚は先へと進む素振りを見せず、何か焦っているようにも取れる表情で辺りを見回すばかりである。


「……失礼、見たところあなた方もヌールの人間のようですが……中には行かれないのでしょうか? もし中の様子が心配でしたら、私が付き添うこともできますが」


 これを不思議に思った騎士連中のうちの一人が彼女たちに尋ねる。少し圧倒されてしまうほどの長身と、人当たりの良い爽やかな笑みが印象的な青年だった。


 対する母娘はまさか声をかけられるとは思っていなかったのか、動きを固くした。だが相手はどこからどう見ても一般の騎士である。そのことを認めた女性はすぐに安心したように会釈を返すが、もう一人の少女――娘と思しき方は反応が異なり、必死の形相で彼に詰め寄った。


「あの! この街の騎士の方ですよね!? 私たちヌールのものなんですけど……! その、人を捜していて……! 何か知りませんか!?」

「え……? ええと――」


 突然捲し立てる少女に困惑する騎士。それもそのはず、少女の話は勢い任せでどうにも的を得ない。

 隣の母親風の女性がその様子を見かねて、謝罪を交えながらも即座に補足し始める。


「娘のアヤが無礼を働いてすみませんね、若い騎士さん。お声かけ下さりありがとうございます。私はリゼットと申しまして、あなたが言うように以前はここで暮らしておりました」


 外見だけに及ばず、語る口調、相手に接する態度、投げかけられる視線、その何れもが真心がこもったリゼットのその姿勢に、対する青年も暫し見惚れたように言葉を失う。が、すぐに己の責務を思い出すと仕切り直すように咳いた。


「丁寧にありがとうございます。その、誰かを捜しているとのことでしたが――」


「そうなんです! 私のお兄ちゃ――兄なのですが。黒い服に灰色の髪をしていて……見てないですか……!?」


 先ほどよりは抑えた態度、だがそれでも悲痛さを滲ませた顔でアヤが割って入る。

 家族を捜している、との理由ならばこれまでの切羽詰まった曇り顔も頷ける。彼女たちの言い分からどこか事件めいた緊急性を感じたのだろう、青年騎士は真剣みを帯びた声色で彼女たちをその場に留まらせると、急いで近くに仮設された騎士の詰所へと駆けていった。


 時にしておよそ一分にも満たない時間。騎士はすぐにアヤたちのもとに戻ってきた。手には何かの資料のようなものが握られている。


「ええと、その捜している方の名前というのは……」

「エルキュールといいます!」

「……はい。エルキュール、エルキュール……」


 名前を繰り返しながら持参した紙に目を通していく青年。アヤは祈るように目の前で行われる所作を見つめていた。


 恐らくあれは名簿だ。アヤたちがここ一帯の仮設住宅に到着したときにも騎士が何やら記していたのを記憶している。

 散り散りになっていた住民が続々と仮設住宅に移り始めている今、それを管理する手法としてそうしているのだろう。


 あの事件以来、ニースの街へ避難していたアヤたちだが、そこではエルキュールの姿を確認することはできなかった。

 けれど、恐らくそれは反対のアルトニーの街に逃げていたから。

 事件のほとぼりが冷めつつある今、その名簿にエルキュールの名があるのは当然だ。

 何しろエルキュールは強く、聡明で、アヤにとってはこの上なく頼れる兄なのだから。この危機を難なく乗り越え、アヤたちよりも早くこのヌールへと戻っているはずなのだから。


 二週間も会えない日々が続いて心配したが、その分は後で目一杯彼に文句を言ってやればいい。


 そうだ、それがいい。少し遅れてしまったが、そうしていつもの日常を取り戻していけばいい。



「……その……大変言いにくいことなので、心して聞いてくだされば……いいですか。どうやら、エルキュールという者はこの地を訪れてはいないようです」


 そんな切実で、甘い希望を抱いていたものだから。青年の酷く優しいその言葉ですら、アヤの揺れかけていた心を刺すには十分過ぎるものだった。






「……こんな、こんなことって……」


 青年騎士によって告げられたあの言葉の意味を受け入れられることなんて到底できず、アヤは照会してくれた彼に礼を述べる事すら忘れてまるで逃げるかのように駆けだしていた。

 行き先なんて考えていなかったが、気付けばアヤの身体は二年間慣れ親しんだ家へと辿り着いていた。

 もしかすると彼は家に帰ってきているのかもしれないと、心のどこかで願っていたからなのだろうか。

 そうでなくとも、そもそも魔人である彼は普段から人目を避けがちだ。即ち、正体を隠すべくひっそりと行動しているという可能性は無きにしも非ずだった。だからこそ、あの名簿にも名前が載っていなかった。


 そんな一縷の望みに縋り、アヤはこれでもかというほどに自宅を調べ尽くした。

 エルキュールの部屋から、いつもアヤたちが使用している居間の長テーブルの下に至るまで。

 考えられる点は全て浚った。その甲斐あってアヤは一つ、彼に至る縁を見つけることができた。


「兄さん……嘘だよね、こんなの」


 だがそれは、あまりに決定的なものだった。


 居間の隅に捨てられたかのように横たわっていた封筒。開いていた奥の窓から吹き出た風に飛ばされてしまったのだろうか。とにかくそれを拾い上げて中を調べてみたところ、エルキュールによって認められた一枚の手紙があった。


 そこに書かれていたのは、アヤたちへの感謝、共にいたときに感じた苦悩、アマルティアを追うこと、別れへの謝罪。


 綴られた言葉は飾りけなく、手紙に慣れてないその文字は酷く不格好だった。それでも十分過ぎるほどに、彼の感情が、逡巡が、決意が伝わってきて、アヤはその場に膝から崩れ落ちてしまった。


「……アヤ、ここにいたのね」


 事実を受け入れられず、はたまた受け入れたとしてこの先どうすればいいのか分からず、呆然としていたアヤの背に、何者かの声がかけられる。

 コツコツと足音を鳴らし近づいてくるその声の主は、振り返らずとも自ずと知れた。今のアヤにとっては最も出会いたくない人物なのだが。


 このことを知ったらきっと彼女は悲しむ。アヤは膝を立てて座り込んで蹲った。


「地べたに座るとお尻が痛くなるわよ」

「…………」

「ほら、せめて椅子に座りましょ」

「……るさい」

「もう、急に走って行っちゃうんだもの、びっくりしたわ」

「うるさい……!」


 つい怒鳴ってしまった。リゼットが心配してくれているのは百も承知だが、さりとて溢れ出る感情を止めることもかなわない。

 あの頃の、幼い頃に戻ってしまったかのような弱さを隠せないアヤ。リゼットは困ったような笑みを浮かべながら、そんな彼女の頭をそっと撫ぜた。

「そう。やっぱりあの子は行ってしまったのね」

「え……なんで知って」


 手紙は未だアヤの手の中にある。それなのにどうしてエルキュールのことを知っているのだろうか。

 それまでの激しい剣幕が湧き出た疑問で溶かされる。


「アヤの顔を見ればそれくらい分かるものよ」


 状況から考えるとそうなのだろうが、何となしに言い放つリゼットにまたしても若干の反感を覚える。

 十年連れ添った家族がいなくなってしまったのだ。もっと他に言うべきことがあるのではないか。

 負の衝動が再びアヤの理性を駆る。しかしこちらから視線を外す彼女の横顔には、確かな悲しさが滲み出ており、アヤは出かけた言葉を飲み込むしかなかった。


「……ねえ、それ、エルのでしょう? 私にも見せてくれる?」


 アヤの肩に手を置いて尋ねるリゼットに無言で手紙を渡す。そんな不愛想な態度にもリゼットは笑顔で礼を返すと、彼女の横に腰を下ろし、黙々とそれに目を通し始めた。


 アヤも読み、そして絶望したその内容。彼女ならばどんな反応をするのだろうと、アヤはその方を窺う。

 意外なことに、当のリゼットは愛し気に目を細めながら、エルキュールの手紙を読み進めていた。もしくは読みながら悲しみからくる涙を堪えているようにも見える。

 曖昧で、慈愛すら感じられるその表情の真意はさておき、やはりリゼットの態度は先ほどからどうも一貫して落ち着きすぎている気がしてならなかった。


 年の功ゆえか、それとも単なる薄情か。


 理由はいくつか浮かびはしたが、そのどれか一つを選ぶことをアヤは一向にしなかった。


 そんなことはどうでもいいと思ったわけではない。今はただ、この荒んだ心を少しでも慰むものがほしかったのだ。


 アヤはなおも手紙に目を向けるリゼットとの距離を詰める。


「お母さん……お兄ちゃんは、もう私たちと居るのが嫌になっちゃったのかな? 私たちが邪魔だったの?」

「そんなことないわよ」

「でも、実際行っちゃったんだよ……? 今までだって辛いことはあったけど、三人で頑張ってこれたのに」

「そうね……」


 リゼットは手紙を畳んで相槌を返す。見つめる視線は前に向けられており、アヤの方を映してはいない。その先はもちろん家の壁があるばかりなのだが、実際ただそれを見ているわけではないのだろう。呟きの後の言葉を探るような間が、それを雄弁に伝えてくる。


「……私たちが家族になって少し経った頃にね、エルがまだ覚えたての不器用な言葉で言ったのよ。『どうして俺はここにいるのか。どうして魔人であるのに人間の世界に生きるのか』ってね」


 その頃と言えばまだアヤは六歳にも満たない幼子であり、まだエルキュールとも打ち解けていなかった頃である。

 当時のアヤは内気だったこともあり、突然家に住むことになったエルキュールについて詳しい事情を尋ねることもできなかったうえ、リゼットもそれについて今まで触れようとはしてこなかった。


 そんな事を意識しなくても次第にアヤたちは家族になっていったし、今更その始まりについて考えることもなかったのだが。

 ごく自然に打ち明けられた未知の情報に、アヤは思わず息を呑んだ。


「当時はとても困ったわ。あの子にそれを告げるのは簡単だけれど、それでは彼との約束を破ってしまうことになるから」

「彼って……? お兄ちゃんじゃなくて?」


 まるで芋づる式に出てくる新事実に、これまで抱えてきた悲しみすら忘れて聞き返す。


「十年前ね、ある若い男の人が家に尋ねて突然言ってきたのよ。『これを人間として預かってほしい』って。彼の指す方を見れば、そこには黒い布で全身を覆った男の子がいたわ」

「それが、お兄ちゃん……?」

「ええ。見た目は今とそこまで変わらないけれど……どこまでも空っぽな目が印象に残っているわ。だからかしら、放っておけなくてね。名前も名乗らない男の人からの頼みだなんて受ける義理もないのに、気付いたら私はその子を引き取っていた」


 呆れたように笑うリゼット。エルキュールの過去にそんなことがあったとは知らず、アヤは少し悔しさを感じながら続く言葉に耳を傾ける。


「それで話が戻るんだけど。そんなことがあって、エルの疑問になんて答えようか迷っていたの。確かに魔人と人間が一緒にいるなんて他の人からすれば気持ちの悪いことでしょうけど……成り行きとはいえいざ暮らしてみたら、思ったよりもしっくりきたの。最初は一言も話せなかったり魔人としての力を抑えることに苦労したりで大変だったけど、みるみる男の子っぽく成長していって……あの人に先立だれていなければ、こんな息子がいる生活になっていたのかしらって思うくらい」

「うん、それは私もそう思う。弱虫で卑屈だった私のことも認めてくれて、一緒に花の話をしたり、本を読んだり、頭を撫でてくれたり……幸せだったよ」

「そう。だから私も言ったのよ、『あなたがここにいることに深い意味はない。それは当たり前で幸せなことだ』って……だけどねぇ」


 それまで楽しそうに在りし日の思い出を語っていたリゼットの顔が曇る。


「エルにとってはそんな単純な話じゃなかったみたい。あの子はね『母さんたちのようになれないのが悲しい。その差がいつか、きっと母さんたちによくないことを招く』と言っていた。実際にその後は住んでいた村を追われたし、ヌールについてからも似たようなことを口にしていたわ。あなたの前ではできるだけそういう部分を見せないように振る舞っていたけれどね」

「…………そっか」


 長い沈黙を破り、絞り込むように返す。

 それからアヤは徐に立ち上がると、玄関の横に備え付けられた小窓越しに外の様子を窺った。


 かつてあった景観は見る影もない。所々がひび割れた街路に、倒壊した家屋も少なくない。崩れた家の住人と思しき人がその真ん前で肩を落としていたり、それを慰めるような人々もいたり。周囲に散った瓦礫を端に寄せて通りやすく整えている者もいれば、使えそうな家具を運び出して忙しそうに通りを行く者もいる。


 皆が現実を受け入れ、前を向こうとしている一方で、依然として受けた傷というのは惨たらしいほどにはっきりと曝されている。


 妥協。まさにその言葉に尽きる。


 あの者たちは決してこんな仕打ちを受けたいわけではなかったが、それでもこの魔獣が蔓延る世界で生きなければならない宿命を甘受するほかない。

 エルキュールも自身の正体が露見してしまうことへの不安に怯え、周囲に疎まれながら生きていかなければならないことを望んでいたはずもなかった。それでも選択肢がない以上、アヤたちとの過ごす幸せな時間で傷を埋めていくことしかできなかった。


 その天秤が壊れかけてしまったとき。


 不幸中の幸いとして、あの者たちには傷を舐め合うことのできる同朋がいた。志を共にする仲間がいた。


 だが一方のエルキュールには、本当の意味で悩みを共有できる同胞がいなかった。人の世界に近づくことは人の世界を壊してしまうことであり、優しい彼はそのことで自責の念に苛まれたのだろう。


 そうしてエルキュールが両者の根本が違ってしまっていることに苦しむ間にも、アヤはその差異から目を背け続けた。このまま自分たちが彼の傍で支えることが、彼を慰める唯一の方法だと勘違いしていたのだ。


「ねえ、お母さん。私……間違っていたみたい。お兄ちゃんの事、大切にできていなかったのかもしれないね」

「……アヤがそうなのだとしたら、きっと私も同じよ。でもね、アヤ。それを後悔し過ぎても――」

「だから、決めたの。まずは誰よりもこの街の復興に協力するわ。それから今よりももっと強くなる! 精神的にも、肉体的にも。兄さんとのことはそれからたくさん考えようと思う」

「…………え」


 であるならばこれから改めていけばいいとでも言わんばかりに、それまでの鬱屈とした態度を吹き飛ばすが如く溌溂と宣言して見せるアヤ。

 さしものリゼットもこの変わり身には度肝を抜かれたのだろうか、彼女にしては珍しい呆けた表情を浮かべる。


 リゼットの意表を付けたのなら、少しは大袈裟に気分を高揚させた甲斐があるというものだ。アヤはしてやったりと笑顔を浮かべた。


「……まあ。あんなに落ち込んでいたのが嘘みたいね」

「そんなことないわ。私だってこれでも落ち込んでいるのよ? 兄さんが直接会いもせずにいなくなったのは悲しいし、悔しい。『兄さんのバカ!』って言ってやりたい。でも……今までの私たちの関係にも問題があったのも事実だから。そのことにやっと気付けたから。だったら悩んでなんかいられない! 兄さんが頼れるくらい立派になって、兄さんを苦しめるアマルティアと戦えるくらい強くなって、いつか兄さんを迎えに行くの」


 拳に力を込めて、自分を鼓舞するように力強く言葉にする。エルキュールからの手紙にも書いてあった。『いつか、アマルティアとの決着がついたら、俺のせいで二人が傷つかないと確信できたら帰ってくる』と。

 曲がりなりにも家族の未来を思ってくれているのなら、アヤの方からも手を差し伸べるべきだろう。

 エルキュールがアヤたちから離れることを選ばせたのは、他ならぬアヤたちであり、この世界だ。

 ならばアヤはどんなに辛い手段を用いても、どんなに果てしない時間をかけてでも、変えてやるまでだ。


「……本当に成長したわね、アヤ。すぐに泣きじゃくっていた頃が懐かしいわ」

「ふふん、そうでしょう?」

「けど、たまにはさっきみたいに『お母さん、お兄ちゃん』って呼んでもいいのよ? 話し方だって無理して変えなくても十分立派なのに」

「うぅ……それは私の勝手でしょ、もう!」


 揶揄われたことによる羞恥もそうだが、ようやくいつもの調子が出てきたことによる安心感の方が大きい。

 アヤは一つ深呼吸すると、小窓から離れ居間の方に移動する。帰ってきた当初は気付かなかったが、室内は少々乱れており、長テーブルには埃が被ってしまっていた。


「ふう……まずは家のことからだよね。母さん、掃除をするから箒と雑巾を用意してくれる?」

「はいはい……っと、そうだ。なら代わりにエルの手紙を仕舞っておいてくれる? 場所は任せるけれど……どうせなら自分の部屋に持ち帰って、毎晩読んでお兄ちゃんへの想いを募らせてもいいわよ」

「そんなことしません! もう……って、あれ?」


 軽口を叩きながらもアヤは手紙を受け取るが、その手紙に何やら見慣れない汚れのようなものが付いているのに気付く。

 よく見れば砂であるようだが、アヤがこれを読んでいたときにはついていなかったため、疑問は変わらずだった。


「ねえ、この手紙。砂で汚れてるけど、どうしたの?」

「え……? あ、ごめんなさい。それ、私が外で転んだときについたのがそのまま手紙にまでいっちゃったのかも」

「転んだ……って、瓦礫に躓いたとか?」

「違うわよ、私もそこまでドジじゃないわ。ここに来る途中に人とぶつかっちゃったのよ」


 別にそんなつもりではなかったのだが、やけにはっきりと訂正してくるリゼット。

 彼女の体裁はさておき、取り敢えず手紙をこのままにしておくわけにもいかないだろう。奥の窓から外に出して砂を払い落としてしまおうと、アヤは手紙を持ってゆく。


「それより、転ぶくらい勢いよくぶつかっちゃって大丈夫だった? 怪我とかさせてないよね?」

「……できればお母さんの心配をしてほしいけど。まあ、それについては大丈夫よ、多分」

「多分って」

「だってその相手の人ってば、真っ黒いローブをしていたんだもの。これからどんどん暑くなるっていう季節なのにねぇ。それにぶつかっても謝罪の一つもなかったのよ? なんだか思い出したら嫌な気分に――」

「……母さん、今なんて」


 続くリゼットの言葉を遮ったアヤの声色は冷たい。が、それも無理からぬことであり、アヤは今自分の目の前で起こっていることを正しく理解するために、彼女の返答を煽った。


 そんなリゼットは急な態度の変わりように驚いたのか、それまで動かしていた手を止めると、アヤの方に視線を寄越しながら答える。


「えぇ……? それは、思い出したら嫌な気分になるってところ?」

「ううん、その前」

「その人から謝罪の一つもなかったというところかしら?」

「その前」

「これからどんどん暑くなる――」

「もう、そこじゃないって! ほら、ちょっとこっち見て!」


 一言一言ゆっくりと遡るリゼットに焦れて、アヤは指し示す。


 窓の枠に落ちていた一本の黒色の繊維を。窓の下の地面に刻まれた人の足跡を。


「……これは」

「母さん。念のため聞くけど、その人はどっちから向かってきてた?」

「…………私たちの家の方から」


 自身の予感が次第に現実味を帯びてくるのを感じ、アヤは眉を歪ませる。

 今までのリゼットの話もそうだが、今にして考えればアヤが最初に手紙を見つけたときの状況もおかしかった。


 既に開いていた窓。アヤたちへ向けて書かれたにもかかわらず床に落ちていた手紙。


 これまでの情報を総合すると、その黒ローブはつい最近までこの家に侵入していたということになる。


「母さんは念のため家を調べてくれる? 何か盗まれているかもしれないし」

「分かった、アヤは?」

「私はここにいる騎士に連絡してみる。住民の誰かが盗みに入ったってこともありそうだけど、部外者である可能性もあると思うから」

「部外者ね……アヤ、あまり考えたくないけれど、これもアマルティアの仕業なのかしら」

「……分からない。でもそうだとしても、私はこの街を元通りにするって決めたの。兄さんのためにも、これ以上ヌールの街を傷付けさせはしないんだから……!」


 どうやらこのヌールの街には未だ影が蔓延っているらしい。だがエルキュールが陰ながら守ってきた街を、アヤたちが暮らす街を、これ以上好きにさせる訳にはいかなかった。


 アヤは今一度自身を奮い立たせると、郊外の騎士団詰所を目指した。



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