一章 第十六話「善悪の境」

 会合の約束を取り付けたエルキュールは、すぐさまクラーク一家と歓談していたジェナも来るように誘った。

 当の本人は快諾してくれたのだが、彼女に懐いているカイルとサラは難色を示し、説得するのに少し手間取ってしまった。

 どういう訳か、特にカイルはジェナが離れることに殊更に抵抗しており、事の発端のエルキュールを見る目は、まるで親の仇を見るような眼つきであった。

 話を聞く限りジェナとカイルたちとは共にヌールに行く約束を交わしたらしく、それが果たされぬまま別れることを惜しんでいるようだった。


 ヌールの街は崩壊した。だから約束も無効となる。簡単だが残酷な論理は十にも満たない幼子には受け入れ難いようで、説得するのには苦労した。

 彼らはしばらくしたら故郷であるガレアに帰るとのことで、結局のところ時を見てガレアに遊びに行くというジェナの提案で、なんとか子供たちも了承してくれたのだった。


 カイルたちがここまで渋るのも偏にジェナの人徳からなのだろうが、こういう場合にはそれすら面倒を起こす種になってしまうのだと、エルキュールは難儀したのだった。


 一悶着ありはしたが、カーティス隊長の案内の下、件の店までやって来た一行。木の香りが心安らげる居心地の良い内装の店だったが、この時勢からか閑古鳥が鳴いており、悲しいほどすんなりと奥の個室に案内された。

 席に着くや否や各々が注文を取り始め、エルキュールも渋々それに倣った。魔人である彼は食事を採らないためだ。


 動力源となる魔素はもちろん料理にも含まれているが、そこに含まれる魔素の属性はまちまちな上効率もすこぶる悪い。

 家族と同じ時間を共有するために、口に入れた料理を魔素に分解するという技能を身につけこそしたが、家族以外の人間、しかも複数人で揃って食事をするのは彼にとって中々心理的負担が重い行為だといえよう。


 詰まるところ、食事を採りながらの会合を認めたとはいえ、エルキュールはこの食事会に対して消極的であった。

 結局、エルキュールはお腹がすいていないという理由で簡単なサラダとスープを注文するに留めた。

 共に食事をしたことのあるグレンはともかく、ジェナやカーティス隊長には疑問に思われることを覚悟していたのだが、それも杞憂だったようだ。

 カーティス隊長からは「私も年なのか最近は食が細くなってしまいましてねぇ」などと共感を受けた。あるいはエルキュールが故郷を襲われた被害者であるということを気遣ってくれたのかもしれない。

 胸を撫で下ろしたエルキュールは、すぐ隣の席に着いたジェナをそれとなく盗み見たのだが、そんな彼の悩みはちっぽけなものだとすぐに気付かされた。


 深い安堵を覚え、エルキュールは深く息をついた。


「はわあぁぁ……! この鶏のステーキも、あの魚の刺身も……! どれも美味しそうなものばかりだよ……! こんな豪華な料理、何年ぶりだろ……すごい、すごいよね、エル君!」


 ジェナは食べることに目がないようだった。次々と料理が運ばれる度に目を輝かせ、いちいち感動を伝えてくれ、カイルたちの件も含めて思い悩んでいた自分が馬鹿らしくなるほどのはしゃぎようだった。


「……あ、ああ。そうだな」


 自分が注文したスープに口をつけながら何度目かも分からぬ相槌を打つ。彼女に共感することもできないので曖昧な調子になってしまったが、ともあれジェナの意識がそちらを向いてくれるのはありがたかった。


「お前、ここに来た目的忘れてはねぇだろうな……」


 能天気なジェナの態度に苦笑しながら、向かいに座るグレンが彼女を窘める。自ら店を指定した人物とは思えないその言い草に、ジェナは口に頬張っていた食べ物を嚥下してから反論する。


「何言ってるのグレン君! こんなに素敵な料理をせっかく用意してもらったんだから、食べないと失礼でしょ」

「まあ、それについては同感だな。あとは酒が出れば最高なんだが」

「……凄い勢いで矛盾してるね、あなた。お酒飲みたすぎて頭とかおかしくなっちゃったのかな」

「はあぁ……あの旨さが分かりえないなんてなぁ。ガキっつのも大変だ」

「私は十八だからもう成人してますー! お酒飲めますー!」


 ここに至る道中ですっかり打ち解けたのか、二人は息の合った言い争いを繰り広げる。

 グレンの言うように流石に酒はでないが、いくらこの場がエルキュールたちの慰労を兼ねているとはいえ、そろそろ本題に移りたかった。

 斜向かいで彼らのじゃれ合いを傍観していたカーティス隊長に視線を投げかけると、片手を上げて皆の注目を集めてくれた。


「はい。そこまでですよお二方。そろそろ本題に移りましょうね」


 まるで子供をあやすような言い方。どうやらそれが一番効くらしく、グレンもジェナもどこか悔しそうに口を閉じた。

 ようやく場が整ったことを確認し、エルキュールは切り出す。


「とりあえず確認ですが。カーティス隊長、あの日ヌールで起こったことは先ほどの説明で理解してくれましたか」

「ええ――狙いすましたかのようなアマルティアの襲撃。およその街の被害の見積もり。知人が汚染された挙句、彼の者たちに目をつけられた……改めてになりますが、さぞあなたは苦労されたようですねぇ」


 全ての始まり、ヌールが襲われたときの状況説明は、それほど時間もかからないので既に済ませている。

 神妙に答えるカーティス隊長はその悲惨さに胸を痛め、これからもヌールの難民を支援するだけでなく、近辺の街の騎士とも協力しヌールの復興に力を貸すことを約束してくれた。


 改めての気遣いに簡単な会釈で返すエルキュールに、カーティス隊長は慈愛に溢れた笑みから一転して表情を難しいものにして続ける。


「街のことはニコラスとも連携してどうにかするとして……しかし、妙なこともあるようですね。行方の知れないヌール伯、数が少ない騎士……ザラームが気にしていたという王都も同様に意味深です」

「ついでに言うと事件前にヌール伯と会合していたのは王都から来たマクダウェル家のご子息であり、今日遭遇したアマルティア幹部の魔人は、何やら力を蓄えている様子でした」

「……王都のマクダウェルと、雌伏の魔人ですか。ふむ、あなたが王都を目指したくなる気持ちはよくわかります」


 満足げに呟くカーティス隊長とは別に、それまで黙って話を聞いていたジェナは、要領を得ないようで頭を押さえながら呻く。

 それを見かねたグレンがすかさず、溜息交じりに分かりやすく噛み砕いて説明する。


「要するにヌールの事件は二つの軸で王都と関係している可能性があるんだよ。一つは人間の流れだ。ここ最近のヌール騎士は王都の方に行っていたという情報に、王都からの客と会った直後にいなくなった統治者――」

「……王都って単語がよく出てくるね」

「ああ。そして二つ目はアマルティア。あのザラームとかいう野郎、ヌールを襲う前に王都の方にも関与している可能性がある。あいつがした演説は王国全体に向けていたものだったし、エルキュールからの証言ではあいつ本人も王都の方を気にしていたそうだ」

「確かに、私はその時アルトニーにいたけど……あの演説はここから聞こえていたよ。そんなことができるのは、ミクシリアの魔動鏡だけだよね。オルレーヌ放送も王都から発信されてるし」


 ジェナのために詳しく触れられた説明だったが、改めて聞くとやはり疑わざるを得ないなと、エルキュールは暗い推測を滲ませる。


「お前らが出会ったとかいう魔人については、まだなんとも言えねえが。さっき上げた情報を踏まえると、今回のヌールの事件と王都は、二つの別の角度から繋が――」


 と、纏めに入ったグレンの言葉が詰まる。ついで、見る見るうちにその顔が暗澹たるものへと変容していく。


「いや、別……じゃねえのか。この二つは」

「……!」


 彼のその独り言が示す先にあるのはエルキュールの頭にもよぎっていた可能性。そして敢えて思考の内から遠ざけていた可能性でもあった。


「つまり、この二つの線は実際には二つ別個でなく、どちらも一つの大きな陰謀の一部だったと……そういうことですね、グレン卿」


 カーティス隊長がグレンの意を汲み、わざわざ分かりやすいように言葉におこしてくれる。

 できるだけ排除しようとしていたのに。こうもはっきり口にされると、それ以外の可能性など考えられなくなってしまう。


「思えば魔動鏡の件がどうにも解せませんでした。王都の防衛は実に堅牢――先日も侵入する危険のあった王都外の魔人を討伐したと聞き及んでいます。しかし……それなのにあの日、ミクシリア魔動鏡はアマルティアの都合の良いように働いていた」

「……うーん。それでも別のアマルティアの魔人が侵入していたとか、それで勝手に魔動鏡をいじって……とかですかね?」

「それならば、今頃王都が襲撃されていない理由が説明ができませんよ。彼らの目的は人間の汚染。隠れて侵入できたのなら、既に汚染を開始していなければおかしい」

「そっか……そうですね。今のところそんな騒ぎは聞かないですから」


 不安に苛まれているエルキュールの心をまるで救うかのようなジェナの疑問。それすらもカーティス隊長の整然とした理論によって砕かれ、エルキュールはいよいよ参ってしまった。


「まあ、魔人も関係しているといえばしてそうだが……やっぱりここで考えるべきは――」

「……人間の、それも王都にいる者の中にアマルティアに与している奴がいるということ、か?」


 議論の端緒を開いた張本人であるグレンの言葉を奪い取って、エルキュールは投げやりに結論を叩きつけた。もう一刻でも早く自分の口から言ってしまい、楽になりたかったのだ。


 その尋常じゃないエルキュールの空気感は周囲にも伝わり、場に一瞬の間ができる。まるでその沈黙がエルキュールを責めているような気がして、誰に何かを言われる前に自身を取り繕う。


「人間がアマルティアと連携しているなんて、馬鹿げている。自分たちに仇なし、争いの種を撒くだけの連中に媚びる必要などないはずだ」

「おい、それは別に仮定の話だぜ? 何をそんなに――」

「……この世界を傷つけるのは決まってイブリスのはずなんだ。だからアマルティアを滅ぼせばそれで――」

「エル君……」


 そう。イブリスが、アマルティアが、悪の根源。だから正義の名のもとにいる人間は彼らを討つ。

 それが世界の、もっと言うとエルキュールがこれまでずっと信じてきた価値観であった。


 もちろん今朝のジェイクのように、悪い人間というのは少なからずいるだろう。自分の保身や都合を優先してしまい、その結果として他人を傷つけてしまうというのは十分にあり得ることだろう。


 しかし、どんなに腐った性根の持ち主でも、人の幸せを踏みにじり、あまつさえそれに快感を覚えるような外道は、人間には存在しないと思っていた。人は基本的に善の存在だと考えていた。だからこそ人間でない自分は周囲を脅かさないように忍び、慎ましく暮らすほかないと自らに言い聞かせてきたのだ。


 だがそれは、エルキュールが盲目的に信じ込んでいただけの、単なる理想に過ぎないのかもしれない。もしくは人間に強い敵意を向けることは、疎まれる定めにある魔人の範疇にはない思考なのかもしれなかった。


「仮に王都の人間がヌールの事件に加担していたとして、それはきっと生命が脅かされているとかの、やむにやまれぬ事情があったはずだ。そうでなければ、そんなことできるはずがない」


 壁をつくるように、自身を守るように、取ってつけたような条件を加える。しかし、それでも気が晴れるわけもなかった。何故ならエルキュールも本当は理解しているから。見えないように蓋をしても、そこにある存在自体は変わらずそこにある。


 エルキュールの豹変をじっと見据えていたカーティス隊長が口を開く。


「エルキュール、仮説はただの仮説ですよ。現時点では何も確かなことは言えません。むしろあなたが王都に向かおうとするのは、その事態を明らかにするためでもあるのでしょう?」


 聞いていて安らぐ、落ち着いた声。

 確かにカーティス隊長の言う通りで、人間があのアマルティアと繋がっているというのはあくまで可能性に過ぎない。そう考えると不可解な現状を上手く説明できるという、ただのこちら側の勝手の都合。


 それに触れてくれたことで、エルキュールの心も幾らか回復したようで、その琥珀の瞳にも輝きが戻る。

 すっかり安心を覚えたエルキュールは、もう心配はいらないとでも示すように、暫く口を付けてなかったスープを勢いよく呷った。


「――ですけどねぇ、純粋すぎるあなたに一つ忠告を。人間はあなたが思っている以上に愚かな生き物です……資源を取り合い、地位を奪い合い、そのために平気で人を陥れる。魔物が溢れる前から行われてきた、その血塗られた人の歴史は……今もなお続いているのですよ」


 だが、その優しさゆえにカーティス隊長は、エルキュールが現実から目を背けることを許さなかった。

 はっきりと人が持つ底知れない悪意に踏み込み、その危険性を否が応でも知らしめる。


 悲しく、しかし力強くもあったその言葉は、この会合において最もエルキュールの心に突き刺さるものになった。


 味覚を感じられないのにもかかわらず、口に残るスープの味がやけに不味く感じられた。

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