序章 第三話「炎との出会い」

 振り返ったところに、人影。

 驚愕を仕舞いこんで、落ち着いて観察する。


 背はエルキュールよりもやや高いほど。こげ茶の軽装の上からもはっきりと分かる筋肉は、鍛え抜かれた逞しさを遺憾なく主張している。

 視線を上へ。燃えるような赤髪は無造作な伸びていて、火花が散っているかのように見えた。

 日に焼けた肌も、彫りの深い顔も、オルレーヌでは珍しい。親しみやすさを感じる笑みを顔に貼り付けてはいるが、総合的に判断すると、途轍もなく怪しいものだった。


 なおも注意深く視線を向けるエルキュールに、青年は肩をすくめた。


「そんなに見つめるなよ。……もしかして惚れたか?」


「失礼。そういった趣味は持っていない」


 軽薄そうな、ではなく。正しく軽薄な青年だった。突拍子もないことを平気で口にしてしまうのだから。

 ともかく、この青年は厄介な人物だ。不意を衝かれたこともあり、エルキュールは警戒を強めた。


「それで、俺に用があるのか?」


「ん、何のことだ? オレはただ『呑気な連中だな』と盛大に独り言を言っただけだぜ。用があるのはお前の方じゃあないのか?」


 軽薄だけでなく、不誠実でもあるらしい。遠回しな物言いは眉を寄せる。


 だが、確かによく考えてみれば一理あることかもしれない。

 青年が心を読んで話しかけてきたなど、発想が飛躍しているのは否めない。エルキュールがたまたま同じような感想を抱いていただけと思った方が自然である。


 ここは青年の失礼な態度には目を瞑ろう。そしてこの会話もなかったことに。

 そう思い直したエルキュールは彼の切れ長の目を真っ直ぐに見据えた。


「いや、そうではないんだ。ただ自分も似たようなことを考えていたから、つい勘違いしてしまった。すまなかったな」


 これでいい。そろそろ家族との予定の時間も近づいていることだ。エルキュールは当初の目的通りに家に帰ろうとしたが。


「……おーい」


 会話打ち切って歩き始めるエルキュールに、今度は明確に、それもこれまでの態度とは打って変わった落ち込んだ声色で、青年が話しかけてきた。


「……? 今度はどうしたんだ」


「……おいおい、嘘だろ? まさか、オレが本当にお前に聞こえるくらいの声量で独り言を言ったと思っているのか? 明らかにお前の思考を読んだ、オレの洞察力が為せる粋な会話方法だっただろ!?」


 自分で粋だというのも可笑しな話だが。やはり先の盛大な独り言とやらは、エルキュールに向けての発言だったらしい。


「というかよぉ、意味深にお前に向かって笑ってただろ……極上スマイルが炸裂してただろ……」


「はぁ……それならどうしてあんな嘘をついたんだ……」


 エルキュールは呆れた目で青年を見つめた。家族でない人間と関わるのがここまで難しいとは。閉じこもりがちだった今までの習慣が、嫌な形で正当化されつつあった。


「お前が素直すぎるんだ。ちょっとした言葉遊びじゃないか。ダメだぜ、言葉をそのまま受け取るだけじゃあ。その裏にあるモノも読み取るのがデキる男ってやつだ。そうだろ?」


「どうして俺が窘められているのか分からないんだが……急いでいるんだ、手短に頼む」


「悪い悪い。つっても何から話せば……。まず始めに、オレはグレンっていうんだが、わけあって今はあてのない一人旅をしていてな……」


 青年、グレンが真面目な顔を作ってぽつぽつと語り始める。


「つい先日、カヴォード帝国の方からから南下して来て、今はヌールに滞在しているんだが。その、なんだ、金が尽きちまって。一ガレもなくて宿代がもう払えそうにねぇんだよ」


 悲嘆が滲み出る声色だった。

 機能性に富んだ服装から旅人だとは思っていたが、よもや北の帝国からとは。

 魔物の脅威が拡大する情勢もあって、今の二国は穏やかな関係を保っているものの、一人で難なく越境できるほど状況は甘くない。

 エルキュール微かに警戒を解いた。


「なるほど。でも、お金は恵んでやることはできない」


 事情は理解できる。しかし今日初めて出会った他人に、それも信用に欠ける人物に金銭を譲るのはよろしくない。

 ほとんど家族以外との交流がないエルキュールでも、その程度の常識は持ち合わせていた。


「違えっつの! ガレを恵んでほしいってわけじゃない。ほら、さっきの報道でやってただろ? 魔獣が大量発生してるってな。そいつらを狩って、金目になりそうなものを頂戴しようと思ってるのさ」


 頭を掻きながら訂正、グレン背中に背負っている大剣を指さした。魔獣との戦闘に心得があるらしい。


「お前にはそれを手伝ってほしいんだ。最近は魔獣も凶暴になってるからな……回復をしてくれるだけでも構わねぇ、一緒に来てくれないか? このままじゃあ居場所がなくなっちまう」


 出会ったときの軽薄な態度はすっかり鳴りを潜め、グレンは殊勝な態度でエルキュールに頼み込む。相当切羽詰まっているのだろう、真に迫った物言いだった。


「居場所がなくなる、か」


 グレンの言葉を反芻する。

 その言葉は、エルキュールにとって間違いなく共感を誘う言葉だった。


 リゼットやアヤのおかげもあり、魔人であるエルキュールは辛うじてこの世界で生活できている。

 しかし、それでもなお、エルキュールの心にはある漠然とした寂寥は消えずにあった。

 この世界に生きていると、自分の存在は場違いなものに感じられるのだ。どうしようもないほどに。


 引き受けてもいい。一瞬考えるが、ここでグレンに同行することを引き受けては、エルキュールの正体に気付かれてしまうかもしれないかった。


 少しでも気を抜けば、隠している痣やコアの魔素質の発光が戻ってしまうだろう。それにもしも魔人としての力を使ってしまえば、グレンを危険に曝すことにもなりかねない。


 危険だ。断るべきだ。エルキュールはそう覚悟を胸にして。


「……分かった。ただし、前にも言ったが用事があるんだ。その後でいいなら構わない」


 引き受けることを選んだ。





 グレンとは後で合流する約束をしてから別れ、エルキュールはようやく家へたどり着いた。


 質素な木造の二階建ての家。たった三年の思い出しかないヌール。されど今のエルキュールにとってはここが唯一の帰る場所だった。

 普段に比べると濃密な朝だったからか、若干懐かしさすら覚える。


「ただいま。少し遅れたか……?」


 扉をくぐると、部屋に漂ういい香りと台所から聞こえてくる料理の音がエルキュールを迎えた。

 

「あ……! 兄さん、おかえりなさい! ちょうどご飯が出来上がったところよ」


 パンがいっぱいの平皿を両手で持って、アヤが台所から顔を出した。料理の手伝いをしていたからかだろう、いつも下ろしている薄紫色の髪は後ろで一つに結われている。


 魔動鏡の件やグレンの件で遅れたことを心配していたが、ちょうどいいタイミングだったようだ。


「おかえり、エル。もうすぐだから先に座っててもいいわよー」


 台所の奥からリゼットの声がかけられる。


「配膳くらい俺も手伝うよ」


 忙しなく動く二人に加わって、時期に食卓に料理が並ぶ。


 今朝の朝食は少しばかり豪華に思えた。

 焼きたての芳香を放つオルレーヌ麦のパン。きめの細かいオムレツに、ソーセージと色とりどりの野菜。料理に堪能で、家族の健康に気を遣っているリゼットらしい献立であった。


 エルキュールはリゼットとアヤに用意された二人前の食事を何気なく観察しながら、アヤ特製のハーブティーに口をつける。

 リゼットが長く花屋を営んでいることもあって、アヤの植物に関する知識は相応なものだった。


「どう、美味しい? 今回のは自信作なのよ? ガレアで採れた良質なハーブを使ったんだから」


 隣に腰かけたアヤが、髪先をいじりながらエルキュールに尋ねる。期待の籠った眼差し。答えは一つしかないだろう。


「うん、今日のは一段といい香りだ」


 口に入れた液体をゆっくりと魔素に分解し、微笑みながら賛辞を贈る。


 魔人であるエルキュールは消化器官を有していないが、食物に含まれる魔素をコアの活動に充てることで疑似的な食事は可能である。

 最初はヒトを模倣するための行為であったし、味覚も曖昧であるが。アヤが淹れてくれたハーブティーはそれでもかなり気に入っていた。


「ふふ、よかった。 兄さんが喜んでくれると私も嬉しい……から」


「大袈裟だな、ただの食事だろう?」


 そう言いながらも、嬉しそうなアヤの姿を見ると、エルキュールの心にも温かな感情が広がる。


「よかったわね、アヤ。最近はこんな風に過ごすこともなかったものね……」


「そうね、母さん。兄さんったら、この街に引っ越してきてから、前に比べて私たちのこと避けてたから……」


「……それは」


 落としてしまわないようそっとカップを置き、目を逸らす。

 早朝にもリゼットに似たようなことを言われたが、アヤもそのことを気にしていたようだ。


「兄さん? もしかして、まだあの事を気にしているの?」


「……当然だ。俺があんな事件を起こさなければ。力を無闇に使わなければ。アヤたちは故郷を追われることもなかった。安穏な暮らしができていたはずだ」


 沸々と、忌まわしい記憶が蘇る。

 アヤたちから故郷を奪い、魔物が地を放浪するのを強いた。他ならぬ、エルキュールの咎である。


「でも……! 私はそのおかげで救われたのに、兄さんは必要以上に自分を責めすぎなのよ……!」


 妹が痛烈に訴えるも、エルキュールの表情は依然として晴れなかった。八年前積もった罪悪感は、言葉だけでは決して浄化できない。それが最も気を許した相手のものだとしても。


「……はいはい。二人とも、暗い話はそこまで! アヤ、エルを心配する気持ちは分かる。でも今こうしてここに座っているということは、少しは前進してると思うのよ」


 暗い雰囲気を変えるように、リゼットはことさら明るく振る舞う。無理に作った笑みは、唇の端が細かく震えている。

 優しく、不器用。そんな母の姿に、子供たちもひとまずは矛を収めた。


「……うん、母さんの言う通りね。兄さんもごめんなさい、せっかくの機会だったのに」


「……気に病まなくていい。俺もいい加減、断ち切らないとな」


 同じ屋根のもとで暮らしているのに、中途半端に関りを避けるのはよくないだろう。

 残りのハーブティーを勢いよく口に流し込んで、エルキュールは思考を切り替える。


 それからはめいめい不安を掻き消すように、楽しい話に花を咲かせた。


「あ、そうだ。エル、私たちこの後は久々に隣町の市場にまで買い物に行こうと思ってるんだけど。せっかくの休日だし、あなたも付き合わない?」


 暫く経った頃、リゼットが思い出したように手を叩いた。

 ここまでの流れから、今ならエルキュールも乗ってくれるのではないかと思ったか。その表情は明るい。


「ん、ああ。それなら別に――」


 構わない。エルキュールも二つ返事で了承しようとしたが、寸前に気づく。今日に限ってどういう訳か先約があることに。


「いや、今日はこの後に人と会う約束があったんだ。すまないが、今回は一緒に行けない」


 せっかくの誘い、先ほどの気まずさを挽回する機会だというのに。

 あるいは二人をがっかりさせてしまうだろうか。

 エルキュールの胸に様々な葛藤が広がってゆく。

 ちらとリゼットの方を見る。失望しては、ない。むしろ。


「まあ! ついにエルにも友達が!? もしかして女の子かしら!?」


 かつてない盛り上がりを見せていた。「ああ……大精霊様、感謝いたします……」などと古の精霊への感謝すら示す感動ぶり。


「はあ……? そうではなくて、ただ――」


 想定外の反応に戸惑いながら、今度はアヤの方に目を向ける。


「お、女の人!? そ、そっか、兄さんが……。あぁ、でもどうしよう、まだ心の準備が……うぅ……」


 こちらもこちらで大仰な反応。「おめでとう、兄さん」ぎこちない笑顔で、無理に祝いの言葉を述べる始末だった。


「だから、そうではなくて――」


 二人の反応に気が遠くなりそうだったが。エルキュールはどうにか事の顛末を話し始める。

 結局、話は理解してもらったが、エルキュールにしては珍しい約束の件は、暫く家族からもてはやされることになった。

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