その心ごと飲み干して


物騒な世の中だ。最近はこの辺りでも行方不明事件が増えている。そんな中でも授業は無くならない、いつもの通学路を怖がりながら、数人固まって走る生徒たちが多く見られる。かくいう私もその一人だ。どんなに勉強ができても、どんなに話が上手くても、武器を向けられれば何も出来ない。或いは後ろから薬でも嗅がされたら、何が起きたかも分からずXの思うままだ。嫌だと言ってもどうせそうなったら逃げられないから、せめてそうならないように友人たちと会話しながら学校を目指すのが最善である。

「おはよう、アッシュ。元気そうだね」

「おはようソリル。いつも通りだよ」

ソリル・ノールグランは幼馴染だ。両親同士も仲が良い、家族ぐるみでバーベキューをしたりもする。ソリルはあまり肉を好まないから、その分を私がかっさらって怒られることもある。

「相変わらずだなぁ。さ、早く行こう。遅れちゃう」

「そうだね、早く行こう」

ソリルの苦笑いもいつものことだ。私たちは、正にいつも通りに通学路を進んだ。


*



思考がはっきりしないまま目が覚める。ここはどこだろう。何をしていたんだっけ。……思い出せない。辺りを見渡そうとしてから気づく。前が見えない。布の感触がある。目隠しをされているらしい。考えてみれば、腕も足も動かせない。縛られているようだ。

しかし、本当にどこなんだろう。音が無い。時折、ぴたりと水が滴るような。代わりと言わんばかりに充満する酷い匂い。何かが腐ったような、鼻の奥を握り潰すような悪臭。

不意に鼓膜が揺れる。今まで無かった音が響いてくる。足音だ。高いヒールの音。整った音がする。こちらに近づいてくる。気配がある。目の前に。

「やぁ、お目覚めかな」

「何も見えないけど。ここはどこ」

「そう急かないで、かわい子ちゃん。せっかく二人きりなのよ」

前触れなく唇に柔らかい何かが触れる。きっとこれは唇だ。目の前の気配の。ゆっくりと蝕んでいく。少しぬるい感覚。

「ぁは、カタブツなのね、かわい子ちゃん。そういう所もステキ」

「ねぇ、ここどこ」

静電気が走ったような空気の揺れ。何となく機嫌が悪い目の前の気配と消えない悪臭。

「……まぁいいわ。ここは地下室。秘密のね。私とあなたのための場所」

「地下室、」

「そうよ。やっと私とあなたの愛が認められる時が来たの。お祝いをしなくちゃ、嫌がりのあなたでもちゃんと素直に言えるように、私がたっぷり愛してあげるわ……」

「……愛」

気配が近付いてくる。さっきよりも鮮明に。愛を示すために。気配は手を伸ばす。私に手を伸ばす。私のために。


私のために?



*


咄嗟に引いた手があった場所を、彼女が今まさに食らいつく。虚空を噛む彼女の歯はガチンと音を立てて閉じる。本当に噛みちぎろうとしていたように。

「な、何するの……っ」

「……愛を示してくれるんじゃなかったの?」

いつの間にか縄の解けた手で目隠しと足枷を外し、彼女は天使のように微笑んだ。

「動かしたくないなら、もっと食い込むまで強く縛らなくちゃ。少しでも隙間があったら抜けられちゃうよ。五感は耳以外潰して、囁き声しか使っちゃいけない。正体が推測できてしまったら、支配するための恐怖が減ってしまう」

服についた砂を払って、垂れた前髪を耳の後ろへかけ流す。昔から見続けた彼女の癖だ。ずっと焦がれたその仕草が、何故か今は嫌に恐ろしい。

「何を、言ってるの、」

「何をって、お手本を見せてあげようと思って。それから、ちゃんと私から、愛を示してあげないとと思って」

彼女は、いつも着けていたロケットペンダントの中から何かを取り出し、口の中に放り入れた。それから、ぱたぱたとこちらに近づくと、強引に私の唇を奪った。

「っ!ん、〜〜……っ」

蛇のようにねじ込まれた舌が上顎を滑る。かくんと力が抜けたことに気づかないまま、彼女の目から目が離せないまま、天井から落ちる雨漏りの音を聞いていた。

「っふ、ぁ……」

「初めてでしょう?私を好きでいてくれたなら。ソリルが私を好きでいてくれたなんて、とても嬉しい。優しい香りがするあなたなら、きっとローズマリーがお似合いね」

幼い頃から変わらない、囀るような愛らしい声で彼女は囁く。簡単に跳ねる体と裏腹に、底知れぬ恐怖が心臓の奥から溢れ出す。逃げなければ。絶対に逃げなければ。でも動かない。体が。体が。

「どうしたの?撤回なんてしないでしょう?愛を示してくれるんでしょう?だから、私のとっておきをあげたの。おいしかった?素敵でしょう?普通よりずっと痛くて、普通よりずっと気持ちいいよ。それに、普通よりずっと、可愛い声が聞けるの」

一緒にケーキを作った時と同じ顔で、彼女は笑っている。分からない。とっておき?そういえば、ロケットから出した何かはどこにいった?あの後彼女は口に含んで、それからすぐに私に、私に、口付けた、

「ねぇ、愛してるよ、ソリル。ちゃんと味わってあげるから、たくさん声を聞かせてね」

ガシャリと音がした。アッシュはナイフを持っていた。私の顔が映っていた。赤黒く光っていた。

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