悪夢:献身/傍観


 友人が死んだ。それなりに気を置かずいられる程度には話し込んだ仲だった。通夜に出て、起きていればひょっこり覗いて驚いたかなどと言うような阿呆だから、その声がなかったことでようやく現実味がこの身に滲んできた。

 こうしみったれた面をするとは、あれも思ってもみなかっただろう。自分でもそうだった。もう少し、からっと別れに納得しているつもりだった。案外、己で考えるよりは薄情ではなかったようだ。

 ぼつぼつと、どうともならない足元が覚束ないわけでもなく歩いていた。帰る心持ちもまだできてやいなかったし、かといって他の知らない人間と涙を流すなんて質ではないし。

 動きたくない目を仕方なく泳がせながら、岩隠れの逸話のような重たい雲を眺めていたら、あれの嫁に出くわした。同等程度に友人として仲良くしていた。大丈夫かと寄って、その目に数秒躊躇ってから声をかけた。

「よう。心配してもいいか」

「……いらしてくれてたんですね。ご足労痛み入ります。あの人もきっと喜ぶでしょう」

「アイツが俺で喜ぶかね。アンタがまだ生きてる方に安心しそうだけど」

 そうかもしれないですね、と微かに笑ったその人の、瞳に映る光が酷く痛くて、咄嗟に目を逸らした。

「なぁ。大丈夫なの。体調とか」

「お気持ち、ありがたくいただきます。もう、良いのです。もう、」

 その人は、少しの瞑目の後ゆると横を向いた。続く言葉を待って、声を止める時間があまりに長く感じて、息が苦しかった。唇を割って空気を食んで、そのままはくりと飲み込む音が幾度か鳴って。それから、きゅう、と喉が締まって、その人は震える手を自身の胸元に寄せた。

「もう、あのひとはいないんです。私が見える世界の、どこにも。もう、どこにも」

 何と返せばいいのかも分からなくて、ただ見ていた。その人から見た俺は一体、どんな顔をしていただろう。滑稽だっただろうか。そうに違いない、その人はこちらを見て、諦めたように笑ったのだから。

「常々重いのは苦手だと仰る貴方には、これは見当もつかない感情かもしれませんね。私とて彼に会うまでは、そうと信じきっておりましたから」

「……と、いうと」

 わざと分からない振りをしたことには、気がついたのだろう、その人は。じっくりと、瞼を焼くように瞬きをして。溢れた大粒の水晶を、拭うこともせず、言った。

「生涯を、かけて。共に在りたい、と、願ったのです、私は。彼に、そう、願ったのです」

 あぁ、クソったれ。アイツは幸せ者だ。と、人でなしの感想を抱くような男に、あれは嫁なんて任せないだろう。多分この人は、三日ほどして、舞い散りそうな覚悟を蝋で固めて、爆発しかけの恐怖と一緒に、アイツの後を追うのだろう。そして俺に、それを止めることは、出来ない。

 本当にありがとうございます、と言ったその人の目の奥に嘘はなかった。それだけが救いだった。最初から最後までこの人は、悲劇のヒロイン気取りなんざという下手なものではない。心の底からあれを想って、満たしてしまっていたのだ。空いた孔に何が入ることもない。この人と共通項で嫌いな人間に、この人がならない事に心底安堵した。つくづく性格の悪い男だ。

 引き止めたいと思いはしても、実現はしないから。最後に、聞いておこうかと、思った。

「……あの世に、アイツが居ると思うのか?」

 その人は、少し驚いたようにそっとこちらを向いてから、泣きそうに笑った。柔らかい笑みだった。聞かなきゃ良かったなと思った。

「いいえ。来世で、逢えれば」

 嗚呼。聞かなきゃ良かったな。この人は、こういう人だった。


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