或る助手の悔恨


 思えば、あの問いは間違いだったのだとよく分かります。先生に、御友人の事を伺ってしまった私を、殴りに行きたい今の私が居ります。

「友人か。そうだな。……もう、何年になるだろうか。親友と呼んだ友が居たよ。同性だが、妙に割り切ったところがあった。私とは違って愛想が良くて美人でな。良い女だったはずだ、思い返してもよく声をかけられていた」

 朗らかに話し始めた先生の言葉尻に、何処とない寂寞が交じっているのを、その時の私は気付いていませんでした。

「彼女と出逢ったのは、高校2年の時だ。学年が変わって同じクラスになって、席替えで隣になった。先に言ったように私とは真逆でな、最初は仲良くはなかった。仲良くなったのは確かなぁ、何だったか。文化祭だったか?」

 先生はいつも物事をよく覚えていて、だから私は先生が大切な御友人との思い出を忘れていることに驚きました。失礼だったとあとから思い至りましたが、私の様子を気にしたようなことはなく、先生はその記憶をゆっくりと思い出しておられました。

「そうだ、文化祭だ。端でコーヒーとクレープを貪っている私に、彼女はクレープの出処が何処かと聞いてきた。聞くに相当な道音痴で、普段の移動教室でもよく迷っていたらしい。見かねて一緒に行ったんだ、それが最初の会話だ」

 先生は、くつくつと小さく笑いながら、そう仰いました。それが何処か空虚な事に、私は漸く気が付きました。

「それからは、よく昼食を共にしたよ。彼女は私と違って勉強が苦手で、それを教えたりもした。大学に入ってからも時折会って話をした。楽しかったよ。私はな」

 珍しくぼんやりと言葉を切った先生を見ると、先の笑顔が暗く沈んでいました。私が間違いに顔を青くしたのは、この時でした。

「彼女は度々、生きるのが面倒だと話す事があった。私は冗談を止してくれと何度も伝えた、その都度彼女は軽く笑いながら、分かったからそう力むなと、そう言っていたのだがね。……彼女は冗談のつもりではなかった。出逢ってから、ちょうど10年経った日、私は彼女の家に呼び出された。大事な話があると言われて」

 先生は雨が海に溶けるように瞑目し、眉間に深く、深く皺を寄せました。強い、後悔の念が見えました。見ている私が苦しいほどに、先生は己を責めておられました。

「彼女は私が家に入ったのを見た瞬間、菓子と一緒に紅茶を嗜むような優雅な仕種で、首に縄をかけた。最初から話など、するつもりも無かったのだろう。すぐに、すぐにでも止めるべきだっただろう、勿論な。だが、彼女の目を……あの決意と失望の目を見て、私は彼女に無理を強いることは、できなかった」

 先生は何処か、遠くを見ているようでした。今も目の前に浮かぶ、"彼女"の死に際が、そこにあるようでした。

「彼女は少し、顔を顰めた。苦しかったのだろうな、当然だ。しかし彼女は、瞬きをひとつしてから、華やかに微笑んだ。私に、笑顔で送り出せと言わんばかりに。その後は、」

 先生は、深くため息を吐きました。"彼女"の姿を、脳の映写機から瞼の裏へ映しているのであろう先生を見ながら、私は何も言えずにいました。それに勘づいたのか、先生はゆっくりと私の目に焦点を合わせました。

「なぁ、鹿川くん。無に立ち返ったその後で、我々はどこへ向かうんだろうな」

 そして、こう、呟きました。私は、何も言えずにいました。私の頭の中で、先生の言葉が、風に吹かれた閑古鳥のように回り続けておりました。

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