アドホック



暗闇のような寒気の中にその男は立っていた。

手の中に収まる拳銃を遊びながら立っていた。

視線の先に居たのは可哀想な餌食たちだった。


彼を知る者は多くない。しかし、皆口を揃えてその姿を、"アドホック"と呼ぶ。





「__努々、忘れる事なかれ」


 ジェームス・リントンはそう締め括った。大衆からは盛大な拍手が贈られ、彼はそれに至極満足したように数回頷いた。溜息を吐きながら席を立つ人間には興味が無いらしい。大衆の中でも一層熱心に話を聞き、いの一番に手を叩いた青年に彼は歩み寄り、笑顔で話しかけた。


「今日の演説は、君にはどう聞こえたかな」


青年は少し驚いて、一歩後退った。頬を抓って夢ではないと気づいたらしい、恐縮した体をどうにか持ち直し、考えも纏まらないままに言葉を紡いだ。


「は、はいっ、Mr.リントンっ。本日も素晴らしい演説でした、力は与えられるものではなく、自ら手にしようとして初めて手に入るものなのだという言葉っ、いつ拝聴してもこの身に余る程に気高き志にありますっ」


青年の慌ただしいながら興奮が伝わる口振りに、殊更満足したように大きく頷いて、ジェームス・リントンは彼に手を差し出した。青年はまた一際畏れ多さを増したように手を顔の横で振ったが、ジェームス・リントンはそれを聞き入れようとはしなかった。青年は何ともありがたいものを見る目で彼を仰ぎ、それから震える手をそっと重ねた。


「君のような聡明な若者がいるから、未来も捨てたものでは無いな。これからも励んでくれたまえよ」

「あ、ありがたきお言葉……必ずや、貴方様のお役に立てる人財となります事を誓いますっ」

「期待しているよ。それでは、また会おう」


ジェームス・リントンは目尻を優しく下げて、青年に背を向けた。その姿を、青年はただ惚けたように見つめ続けていた。感動に未だ思考が追いついていないようだった。それは誰が見ても明らかだった。





「やぁ、アドホック。今回はどうだったよ」


白く長い髪を靡かせた、人相の悪い男がニヤつきながら話しかける。呼ばれた方は至って冷静で、ヤニの臭いに眉をしかめながら応えた。


「上々ですね。明日にはニュースに載るでしょうか、明後日になるかも分かりませんが」

「おぉ、流石だな。今度は誰で行くつもりだ?全く同じじゃないだろうな」

「まさか」


肩を竦めた"青年アドホック"はぐにゃりと口角を歪ませ笑った。爽やかそうな雰囲気は一切の残滓を見せず、手の向きはだらりと重力に従う。先程まで20代前半だったその男は、今や40代後半にまで落ち込んだ。


「次のターゲットは32歳らしいんでね。リードしてくれるヤサシイオジサマ、が似合いだろ」


白髪の男は、相変わらずだなぁとがしゃがしゃ笑んだ。昔馴染みであるこの男ではあるが、目の前でころころと変わる見目の真の姿を拝んだことは、その実一度たりともない。


「ま、無茶はすんじゃねぇぞ。お前の代わりなんて出来るやつァ居ねぇんだからよ」

「分かってるよ。ご心配ありがとうな、兄弟」


ひらりと手を振って、アドホックはその場を立ち去った。白髪の男がその背中を、じっくりと眺めていた。ほんの少し前の"青年"を思い浮かべながら。


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