ココアに金木犀



本を読むのにとても良い季節が、今年もやってきた。私は自作の栞と、可愛らしい――と言うと彼は怒るのだけれど――狸が描かれた彼お手製の貸出券を持って、隣の家のインターホンを押した。

二秒もしないで、「はい」と応答があった。この季節に私がここに来るのは毎年恒例だから、もう分かられている。私もまた分かったような口振りで、「仲崎です」とだけ言った。それに対して応答は無くて、いつの間にか押したボタンの上で赤く光っていたカメラも切れていて。一分かかるかという所で家主が迎えに出てきてくれた。


「息災か、仲崎」

「お久しぶりです、言乃先生」

「あぁ。きっかり一年ぶりだな。ま、入れ」

「お邪魔します」


言乃ことの治臣はるおみ。大学時代に取っていた、現文の講師だった。生きる言葉を扱う人だ、著名な小説家でもある。昔から本の虫だった私は、彼の講義だけは欠かさず取っていた。論理的で構造が複雑な彼の講義は他の生徒からは嫌われていて、結果的に少なくなった受講者の中でも一際私が熱心に聞いていたのを彼は知っていたらしく、ある休日に私をこの場所に招待してくれた。芳ばしく歳を召した木造の暖かさに、溢れんばかりの蔵書の飾らない輝きに、ただただ感動したのを覚えている。


甘い香りが揺れて来た。この家の窓辺に毎年花を開く、金木犀の香りだ。あの日、初めてここに足を踏み入れた瞬間に、私の心はもう掴まれていた。柔らかな色に包まれた甘い香りが鼻腔に抜ける度に、あの時震えた気持を思い出す。

玄関をくぐればすぐに、見慣れた本たちが出迎えてくれる。この家は本のために作られた家。温度や湿度は一定に保たれており、夏は涼しく冬は暖かい。その環境は人にとっても非常に過ごしやすいが、先生曰くこの家は、ただ本を置くためだけに建てた別宅らしい。尤も、最近は私が訪ねる事も多い故に、ここに寝泊まりすることも多いのだとか。ご迷惑を、と謝罪すると先生は、からりと手を横に振っていた。


「先生、今年度の一押しは」

「やはり夜市やじ紅灯こうとう著の<廻勘定めぐりかんじょう>だな。洋物ならレディ・グレイ著、赤巻あかまき冷史れいじ訳の<閑古鳥に栄光を>が中々良作だった」


いつもの特等席に栞を置いて、いつもの質問を投げかけた。先生は新しく世に出た小説を、ジャンルを問わず片っ端から買い集める。漏れがないようにリストアップまでして、全ての新刊を集めているそうで、手に入れたものは一度読了してからこの家に置くのだと言う。だからか先生のおすすめにハズレは稀にも無くて、毎年その日までに出た小説の中でのおすすめを訊くのがここに来る楽しみの一つだったりする。


「夜市紅灯は兎も角、先生がレディ・グレイを勧めるなんて珍しいですね」

「いや、その通り。正直な所なめていたよ。女性作家にはあまり見られない切り口で物語が進んでいくんだ、和訳も素晴らしい。原作と併せて読んでみるといい」


あまり動かない表情筋を軽く弛めて、彼は話に挙げたそれがある棚を教えてくれた。それから私に、ココアでいいか、と何ともなく言った。彼がコーヒーや紅茶を一切飲まないのは旧知の仲しか知らないらしい。初めて知った時は特別感に浸れて嬉しかったのを覚えている。

私は彼に、いつも通りで、と返した。前述の通り彼はコーヒーも紅茶も家に常備せず、唯一あると言えば、水と牛乳の他には彼の好みのココアだけ。毎年ここに来る時は、砂糖を多めにしたココアをいただくのがお決まりになっている。


喫茶店のような"いつもの"を待つ間に、私は先生に聞いたおすすめがある棚と、個人的に好きな作家の棚を軽く漁り、何冊かを手に取った。この家は先生の性格ゆえ至極丁寧に整えられてはいるものの、如何せん蔵書の量が多いのと私の優柔不断が相まって、目当てを選び出すのにも少々時間がかかる。席についた頃には、ちょうどよく湯気の漂うココアが机に置かれていた。


「ありがとうございます」

「あぁ。まぁ、ゆっくりしていきなさい。どうせ一人で居るのは、退屈だからな」

「お言葉に甘えて。金木犀、一輪摘んでもいいですか?」


これもいつもの質問だ――質問というよりは、許可を求めるものだけれど。彼は少し悩んだ後に、一つだけだぞ、と了承してくれた。お礼を言った私は窓辺から、小さな甘い香りを一輪、指の腹で摘む。それからそれを、暖かいマグの中にそっと浮かべた。

ココアに金木犀。昔、先生が教えてくれた内の一つだ。嗅覚と味覚の甘みが重なってリラックスできるんだ、と柄になく朗らかに笑っていたものだから、可笑しくて笑ったのを怒られて、次の単位を落としかけたのは良い思い出だ。


いつかの話を脳裏に浮かべて、口角で小さく頬を押し上げながら温もりを一口含んだ。いつの間にか隣に先生が座っていて、何故か本ではなく私を見つめていたから、不思議に思って首を傾げた。そちらを向いていないのに気付かれたと思ったのか、先生は少し驚いた様子で口を開いた。


「……いや。美味そうに飲むなと」

「そうですか。まぁ、美味しいですからね」

「それは、うん。よかった。……うん」

「珍しく歯切れが悪いですね。なんですか」


今日は珍しいこと続きだな、と笑いを堪えきれずに口許を押さえていると、先生は大きな咳払いをしてからわざわざ私に向き直った。本当に珍しい。先生が本と進路の話以外で、人と向き合って喋ることなんて滅多にない。ここで私もようやっと先生をしっかりと視界に捉えた。


「仲崎」

「はい、先生」

「……"金木犀の花言葉を、知ってるかい"」


先生は、わざとらしく諳んじた。それは先生が、私の在学中に発表した小説の始まりの文章だった。この人がこんな物語を書けるのかと、その一点が衝撃すぎてタイトルは覚えていないけれど、それこそ擦り切れるほど読んだから。続きを繋ぐことは容易だった。


「"いえ、存じ上げませんわ、ミスター"」

「"そうかい。ならば教えてあげよう"」


少しだけ冷めた、しかし飲むには心地好い暖かさを保っているココアが、先程と変わらず甘い香りを揺らがせている。じっくりとそれを飲み込むように瞼を閉じて、彼は一言、微かな声で紡いだ。


「"謙虚、そして……初恋。そう、君の事だ"」


そうして、じっと私の目を射貫くものだから。たまらなくなって、私は咄嗟に目を逸らして。それから、念の為に、続きを諳んじた。


「……、あ、"あら、ありがたいお言葉ですこと。いったいいつからお想いいただいていたのかしら"」


先生は私の動揺を特別意に介する様子もなく、というか先程よりも元気になっている。そういえば、私を弄る時だけは嬉々として表情を歪ませていたな、と思い出す――いや、忘れていたつもりはないけれど。そういえば、そういう人だった。先生はそれを崩さずに続けた。


「"もう、ずっと前さ。君と、初めて。初めて、出逢ったその時から、――」


次の言葉を、私は知っている。だから、わざと先生がその読点を溜めに溜めているのも知っている。先生は同じ調子でくすくすと笑いながら空白をとうとう切った。どうしてか、目だけは笑わずに。


「――君が好きだ。"」


それは重かった。生きた言葉だった。揶揄っていることは重々承知していたけれど、それにしては声が真面目に聞こえて。思わず目を見て、それで後悔した。


「なぁ、仲崎」

「な、んですか、先生」


駄目だった。先生には勝てなかった。幼馴染に言い寄られて困っていたことを、一体どこから仕入れてきたのだろう。中学生の頃先生の小説を読んで、大学で先生に出逢って、ずっと先生のことしか見ていなかったのを、いつ気づかれたのだろう。


先生は、眩しそうに目を細めて、笑った。


「気に入ってくれて何よりだ。

 君のための<ココアに金木犀>を」


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