第107話 寒の雨
……あれ、どのくらいだっけ…。
俺がこの家の敷居をまたぐ様になってからどれくらいの日常が過ぎて行っただろう。
最近は妹達が三人で出かけたり、そこに如月達一年の後輩とかが混ざっていたり、偶に勉強を見てあげたりもしてるらしい。
俺も妹達とは少しずつ距離感が掴めて来たと。
千怜さんとも、会話をすることが増えたと思う。
でも、どうしても…この人だけは苦手だ。
そもそも同性の同級生との関係すら上手く立ち回れなかった俺に、親子ほど歳が離れている人と上手い具合に関係を保てという方が無理な話だ。
例えそれが、言葉通り血の繋がった父親だとしても。
小さい頃から一緒にいた血の繋がってない父親とすら、俺はちゃんとした親子で在れなかった。
俺の前にあるマグカップには、一口だけ飲んだあとの冷めきったブラックコーヒーが入っていた。
普段居るリビングと比べると少し広い間取りの部屋。カウンターキッチンに置かれた酒瓶は開けられたばかりなのに半分以下にまで減っている。
視線だけを隣に動かすと、ソーダで割ったジンを飲んでいる男性が居た。
少しだけ白髪の混じった短髪、上品さを感じる落ち着いた雰囲気、年齢よりも老けた印象の顔立ちをしており、体格は細身で長身。
この人は篠原
目を細めた時の印象は、笑っている時の雛に似ている。
「…話、あるんじゃなかったのか?」
ハスキーな柔らかい声をしている。
威圧感はないが、俺は自分が萎縮しているのを感じた。
「……話…というか、相談…です」
「今は…17だったか。オレはそのくらいの時に父親に相談なんて、したこと無かったなぁ。大して意味のないプライドをぶら下げてたもんでな。それに、相談に乗ってくれる様な父親でもなかった」
「…冬司さん…は、相談に乗ってくれる方の父親…ですよね」
「おう、なんでも話してくれ」
上機嫌に頷いて、あまり上手く作れていない笑顔を見せた。
この人も、俺との距離感を掴みかねているんだろうな。
俺はゆっくりと深く息を吐いて、相談の内容を口にした。
「……俺、こっちの家に住もうと思ってるんです」
ガタガタッと椅子を揺らして、冬司さんはコップを落としそうになった。
酷く動揺している冬司さんの様子は一旦スルーして、俺は話だけを先に続けた。
「そうは言っても、大した時間ではないですよ。せいぜい1年か、それより短いかくらいになると思います。大学に行ったら…一人暮らししたいと思ってるので…。まあ、その一人暮らしも多分一年くらいで…それ以降は彼女と二人で…って感じになるだろうから…」
「ちょ、ちょっと待て、ストップ。色々待ってくれ!」
止められたので口をつぐんで横を見ると、表情を引き攣らせてひどく動揺している冬司さんの姿があった。
「ま…まず、なんで急にその…こっちで一緒に暮らしたいと思うようになったんだ?いや、勿論オレも母さん…千怜も嬉しいとは思うんだが…。こう言ってはなんだが、お前にとっては…遥香ちゃん、あっちの家族の方が大切なんだろう?」
「……?」
何を言っているんだこの人?
「どっちも、俺にとっては家族です。そこに優劣をつける気はないですから」
「……しっかりしてるなお前…」
しっかりしてる人間だったら今こんな事にはなってない。
母さんが決めた事に口を出すつもりないが、そもそも俺は父さんと母さんが離婚することは反対だった。どんな人で、誰に何をしていたにせよ。
…こういう考え方が、良くないってことも何となく分かっている。
「…優劣はつけたくないから、ずっと遥香と一緒に居た分…とまでは行かなくとも、家を離れる前の時間を妹二人と過ごしたいんです」
「一人暮らししたいってのは、いつから?」
「それ自体を考え始めたのは…今年に入る前くらいから、かな…」
そうなったらまず間違いなく雫は着いてくるだろうけど…。
「ずっと、思ってはいました。なにかのきっかけで、今と全く違う環境に身を置いたほうが良いんだろうなって。俺は、周りの環境が変わるのが凄く嫌いで……だからこそ、どっかで区切りはつけないと…って」
自分の中には何かに依存していたい…という性分がある事を最近知った。椿にせよ、遥香にせよ、白雪にせよ。傍に居てくれる人たちへ強い安心感を求めようとするし、気付いた時にはそれを嫌がらない人達が俺を好きだと言うようになっている。祢音も、多分今は…雫にも同じような事を思っているのだろう。
そう考えていると、人を好きになる感情が分からなくなってくる。
俺は椿の事が好きだった。それが果たして純粋な好意だったのか…遥香に対して抱いていたあの時の感情から来たものだったのか。
今となってはよく分からない。
…けど、多分…孤独になりたくなかったんだよ。
そんな訳で、一度、高校卒業というキッカケの後には一人の時間を増やしてみたいと思った。
知らなかっただけで、一人で居る時間は嫌いじゃない。
自分が孤独じゃないんだと思っていられる間は、きっと大丈夫。
だからその前に“血が繋がっている家族”との絆を深めたいと、そう考えた。
冬司さんには、今まで有ったことと今考えていること。
それを一つ一つ丁寧に、自分の中でも消化しながら話していった。
いつの間にか、時間は0時を回っていた。
少し乾いた喉を潤そうと飲み込んだブラックコーヒーはとても冷たい。
部屋の中には沈黙がこだましているが、雨の音で静寂は気にならない。
「……オレは高校の時、何考えて生きてたっけな。お前ほど、真剣に考えてなかったってのは分かる」
所詮は成人もしてない子どものことだ。真剣に考えるにしても機会がないと頭を働かせる気力すら起きない。それは俺だってそうだ。
「その、雫ちゃんって子には話したのか?」
「篠原家に住みたいって事は話しました。一人暮らしの方はまだ何も…。というか、そっちは誰にも何も言わないつもりです」
「んん…?なんでだ?」
「一人暮らしする…なんて言ったら、間違いなく着いてくる子ばっかりなので。勿論、遥香にも話す気は無いです」
「…まあ…。時々会ったりはするんだろ?」
「いや、どんなに短くても一年は会わないつもりです」
「……お前それじゃあなぁ…」
「愛想尽かされるならそれでも良いんですよ」
そもそも篠原家に住む、という話はある程度家族周りには話をするつもりだが…一人暮らしの事は冬司さん以外に話をするつもりはない。
一度今の環境から離れる、という目的がある以上は、そこだけは譲るつもりはない。
「冬司さんには…。それまでの準備と、口裏合わせ的なことを協力して欲しいんです。こういう頼み方は本当はしたくないんですけど……。貴方の息子の、最初で最後のワガママな頼みを聞いて欲しいんです」
言いながら、俺は冬司さんに向かって頭を下げた。
「……分かったよ」
ぽんと俺の肩に手が置かれた。
俺よりも大きくて、少し骨ばっている。
「お前の頼みは聞いてやる。しっかり、手伝ってやるよ。でも、『最初で最後』なんて言うんじゃない。ワガママな頼みくらいは何回だって聞いてやるから…な?オレだって、今までお前には何も出来なかったダメな父親なんだ。やれることはやらせてくれ」
父親という存在における理想的な姿、なんてのは俺にも父さんにも、勿論冬司さんにも分からない。
少なくとも俺にとっては、今目の前にいるこの人が少しだけ「当たり前の父親」を必死になって演じようとしているように見えた。
俺はきっと当たり前の息子では無いんだろうけど、この人には報いる様にしたい。
せめて、親子の距離感で居られるように。
「……ありがとう、父さん」
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