第30話 決別
「…ねえ、黒崎先輩ってなんでリン先輩に依存してる様な感じなの?」
ベッドに転がりながら友梨奈がしてきたそんな質問に、遥香は少し悩んでから答えた。
「椿ちゃんって昔からああだから」
「…どういう事?」
「完璧超人みたいな…」
「……どこが?」
「私達から見たらただの精神異常者だけど、兄さんとの関係とかを知るまではユリの中でもそうだったと思う」
友梨奈はそう言われて少しだけ納得する。
確かに自分も、黒崎椿という先輩に対して大きな理想を抱いていた様な気がしたから。
「実際表向きの椿ちゃんって成績良し、運動良し、性格良し、生活力があって、手のかかる彼氏に一途で嫉妬も買わない」
「…手のかかる彼氏…?」
友梨奈にはあまりにも想像がつかなかった。表向きの黒崎椿の彼氏である凛華に、そんな一面がある覚えはない。
「兄さんってああ見えて小中学生の時はそこらのヤンキーより喧嘩してる様な人だったから」
「えっ…嘘?」
「私もそう」
「…ハルも?」
「苛立つとすぐに皮肉と暴言と手が出る性格」
「人として終わってるよそれ…」
「だから、手のかかる彼氏」
「……成程…?」
今の穏やかな兄妹からは想像がつかない一面に理解が追い付かないが、友梨奈は一旦納得して話を進める。
「ともかく、そんな完璧超人だから…周りの人達も、椿ちゃんの一挙手一投足に注目するし何かの行事とかあったらとにかく期待する。能力があるのは事実だからどんな期待をされても応えられる。でも…」
「心は違うってこと?」
「良くも悪くも、そういう部分は普通の女の子だったって事だと思う。自分を理解して、どんな時でも隣に居て支えてくれる男の子が居たら、ときめくし好きにもなる。そんなのが十何年も続いたらその気持ちが歪みもする。私も兄さんも、苛立ちさえしなければ普段は大人しいから長く一緒に居ると相談しやすい性格だろうし」
遥香は自己評価が低く自分のことを客観視できてる様でできてない兄とは違う。
所々に目立つ能力がある自分を低く見せようとして顔を隠して手を抜いて気を抜いて生活している。
何故なら面倒くさいから。
面倒臭がりで無気力だが、大好きな兄の為なら気を張る事も頭を回転させる事も惜しまない。
「…ねえハル」
「なに?」
「ハルはさ、何で私に黒崎先輩とリン先輩の関係について相談してきたの?正直、私必要無いよね…?」
友梨奈の言葉に対して遥香はすぐに首を横に振った。
「私にも予想外な事とか分からない事はある。兄妹だからどうしても兄さん側の目線でしか見えない事だってある。それに…」
「…それに……?」
「…兄さんに恋する女の子の気持ちまでハッキリと分かる訳じゃないから。私も兄さんは大好きだけど、どこまで行っても兄さんは兄さん」
「…それもそっか」
(兄さんに対しての恋愛感情なんて、そんな
そもそも、椿と凛華の関係が上手くいくなんてハナから思ってなかったからこんな状況になっても別に驚いたりはしなかった。
遥香は、今頃は幼馴染みとの決別に四苦八苦しているだろう兄に思いを馳せた。
それはきっと兄にとって…その幼馴染みに裏切られる事よりも辛い事だろうから。
◆◆◆
隣に居られるのが俺しか居ない、他に受け入れてくれる人が居ない…と。
俺よりもよっぽど多くの人と関わって来ただろう椿の事だから、何かしらの根拠や経験からそう言ってるんだろう。
感情だけで動く事は無い。
何だかんだと言って椿は頭が良いから。
少なくとも、俺と居た時に何かに失敗してる姿を見た記憶は無い。
俺が居ない時に失敗してるのを見たことは何度かあったけど。
彼女の言う様に、俺が居ないとボロが出るのかも知れない。
…でも、それでも…だ。
「手遅れなんだよ、色々と。椿の行動には、君のそんな言葉や気持ちが伴って無かった」
そう、単純な話だ。
「椿には、お前の父親が大事にしてる「誠実さ」ってのが足りなかったんだよ」
「…っ…」
「俺はもうお前の茶番に付き合う気は無い。二度と俺の前に顔出さないでくれ」
椿の泣いている顔が見ていられなくて、俺はそれだけ言うと逃げるように公園を出た。
後ろから聞こえてくる嗚咽から耳を塞いで、瞼に焼き付いた彼女の泣き顔から目を逸らして、理由もなく脳裏に浮かんで来た彼女の笑顔を振り払って、掻き消して。
気付いたときには自宅の玄関前に立っていた。
夕空は梅雨時期らしい雨雲に侵されて薄暗くなっている。
一つの区切りを付けただけ、そう思ってる筈なのにどうしてこんなにも気分が晴れないんだろう。
自分が彼女にされた事を一つ一つ思い出して行っても、ここまで傷付いた記憶は無い。
この数ヶ月の出来事よりも、積み上げてきた十数年間のほうが俺にとっては重要なのだろうか。
その内の数年分は裏切られてる筈なのに。
小さく息を吐くと、無意識に目元を拭った。
濡れた指先を見て思わず苦笑する。
「…ははっ…なんでだよ」
実の父親に蹴飛ばされようが、彼女に浮気されようがこうはならなかったのに。
本格的に、自分の事が分からない。
椿にとって、東雲凛華がどんな存在かのかは確認できた。
でも、いつまで立っても東雲凛華にとって彼女が、黒崎椿がどんな存在なのかが分からない。
自分の事なのに、正解が見つからない。
……あー…でも一つだけ分かったかも知れない。
「おかえり、兄さん」
そんな声が聞こえて顔を上げた。
どうやら俺は、いつの間にか扉の前にしゃがみ込んでしまっていたらしい。
長い前髪の奥からちらっと見えた遥香の瞳と視線を交わして、俺は震えた声を出した。
「…なあ、遥香、俺さ…」
「分かってる。初めて自分から…幼馴染みを傷付けたんでしょ?」
「……流石遥香、よく分かってる」
立ち上がり家に入って玄関の鍵を締める。
靴を脱ごうと体勢を落としたところで、遥香にゆっくりと頭を抱き寄せられて、妹の胸元に額を埋める。
「…遥香?」
「私も今日、初めてやらなきゃ行けない事があった」
「…なに、それ?」
「泣いてる兄さんを慰めるのは初めて」
確かに物心ついてからという物、妹の前で涙を見せたのは初めてかも知れない。
「…お疲れ様、兄さん」
そんな、遥香の労いの言葉で、溢れないように繋ぎ止めていた感情が決壊した。
俺には自分が流す涙の理由が、漏れ出す嗚咽の理由が分からない。
多分、遥香は分かってるんだろうな。
俺がどうしてこんなに傷付いてるのかも、俺が椿を本当はどう思っているのかも。
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