その12 彼女にとっての恋とは

『君はわたしのものだから』


 去り際に瑠璃川が放った一言。

 それは何を意味しているのか、俺には分からない。


 それもそうだろう。

 言葉ほど曖昧なものはない。

 人の思いを全て言葉で伝えることは出来ない―――でも、思いのない言葉はない。


 瑠璃川は少なくともなにかの思いを持ってその言葉を俺にかけた。

 俺はその思いが知りたい。


「ここにxを代入してだな」


 黒板に先生が一生懸命にチョークで数式を描く。

 ただ、俺はそれを開いてるノートに書き写すことが出来なかった。


 瑠璃川の言葉が頭から離れられない。

 そして、考えに考えた末に、一つの可能性が出てきた。


 ―――疑似恋愛とはいえ、いま君のパートナーは私なんだから、ほかの女の子と親密にしているのはルール違反じゃないかな。


 いずれにしろ、多分瑠璃川の言葉は恋とか嫉妬とかそういう類のものではなく、単に俺たちの関係性に基づいたものだと思う。


 そう、瑠璃川は俺の作品に恋をして、それをもっといいものにしたいから、俺と疑似恋愛という契約のようなものを交わした。

 彼女はそのために、付き合ってもいない、そもそも今まで関わったこともない男と同棲までしている。

 それだけ、彼女は俺のためにいっぱいしてくれた。

 契約は公平なものでなくてはならない。


 実際、瑠璃川の性格を考えると、俺と疑似恋愛をしている今、彼女がほかの男に靡くことはないと思う。

 だから、瑠璃川は西園寺と俺の関係を勘違いして、俺が作品をよりよくするための疑似恋愛をほったらかして、恋愛にうつつを抜かさないように釘を刺したのかもしれない。


 あれ? ちょっと待ってよ?

 西園寺との関係は置いといて、そもそも、俺が本当の恋愛をすれば、瑠璃川はわざわざ俺と疑似恋愛をしなくても済むんじゃないのか?

 それが嫌なのは、せっかくここまでやってきたから、中途半端で終わらせたくないから?


 ほんと、それなら大した誤解だよ……

 西園寺は何考えてるか分からないけど、俺のことを好きだなんて絶対ありえない。

 瑠璃川様も勘が外れる時ってあるんだな、ははっ。


「伊桜くん、何やれやれと笑っているんだ?」


 先生に呼ばれて、我に返ると、クラスメイト全員は俺を見て笑っていた。


「モテる男は辛いってか?」


「「「はははっ」」」


 先生のジョークに、クラスは笑い声に包まれた。


 自分でも分かるくらい、頬が熱くなっていく。

 瑠璃川のこと考えていたら、まさか表情に出ていたとは……

 にしても、先生、ユーモアなこと言ってるつもりだろうけど、言われてる本人はまじでいたたまれなくなるから、やめてください。


 とりあえず、授業に集中だ。

 瑠璃川のその言葉に深い意味はないと分かった今では、もうぐだくだと考える必要はない。




 午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、俺はカバンの中を漁り出した。

 そして、まもなく絶望に襲われた。


 弁当がない……

 

 いつもは自分で弁当を作ってくるのだが、瑠璃川が来てから、すっかり料理を彼女に任せている。

 そういうわけで、朝弁当作ってくるのを忘れてしまった。


 どうしよう……

 今から購買でパンでも買ってこようか?

 でも、昼休みの購買は戦場なんだよね。あそこに足を踏み入れて果たして俺は生きて帰れるかどうか。

 

「伊桜くん」


「西園寺、ごめん、今はお前の相手する場合じゃ……」


 そう言いながら、頭を上げると、俺は思わず口を噤んだ。

 なぜなら、そこにいるのは西園寺ではなく、瑠璃川だったのだ。


 一学期は、昼休みになると、俺が1人で弁当を食べてる時に、西園寺はいつもやってきて、どうでもいい話を垂れ流す。

 その癖で、今の声の持ち主を西園寺だと勘違いしてしまった。


「伊桜くんの弁当を届けに来たけど、いらないみたいだね」


 そして、どうやら、俺は地雷を踏んだことらしい

 瑠璃川はムッとした顔で、掲げていた2つの弁当箱をそっと、背中に隠した。


「……瑠璃川、まさか、弁当作ってくれたのか?」


「これからご飯作るって言ったから」


 そのご飯に、弁当まで含まれていることは予想していなかったから、じんわりと感動が胸の奥から込み上げてくる。


「でも、西園寺って子のほうがご所望みたいだから、弁当はいらないよね?」


「いやいや、西園寺って食べられないだろう!」


「ふーん、伊桜くんって有機物ならなんでも食べちゃうと思ってたけどね」


「俺をなんだと思ってるんだよ!」


「見境なく女の子だったら、愛想をばらまく節操のない男……」


「語呂いいな! って、そんなことした覚えはないぞ!」


 やはり、瑠璃川は俺と西園寺のことを勘違いしているんだね。

 まあ、お前の気持ちはわからなくもないよ?

 せっかく同棲までして疑似恋愛してるのに、それをほかの女の子に邪魔されたら面白くないよね。


 でも、それはあくまで、西園寺が俺のことが好きという前提で成り立つ話だ。

 その前提を見誤るなんて、瑠璃川らしくないな。


「で、弁当はいるの? いらないの?」


「……いる」


 結局、弁当を渡してくれるところ、瑠璃川は優しいんだな。


「ありがと……えっ!?」


 瑠璃川が渡してくる弁当を受け取ろうとしたところ、彼女はひょいとそれを引っ込めた。

 焦らしてんの?

 瑠璃川は実はドSだったりしてー?


「ここで食べるの?」


「そのつもりだが?」


「今日天気いいからさ、屋上で食べようよ」


 なるほど、場所の問題か……

 1年間ぼっち飯を食べてきた俺にはない発想だぜ。

 でも……


「屋上って入れたっけ?」


 確かに、屋上は立ち入り禁止のはずで、瑠璃川がそれを知らないのは考えにくい。

 まさか、二学期になって、生徒向けに開放されたとか?


「だからこそいいだよ?」


「うん?」


 瑠璃川は目をキラキラさせて、弁当箱を俺の机の上に置いて、少し屈んで、俺の耳に口を近づけてくる。

 一瞬の出来事なのに、心拍数が上がったせいか、彼女の動作がスローモーションに見えた。


「そのほうがドキドキするでしょう?」


 囁かれたそのセリフは心臓を通って、トキメキを俺の全ての細胞に運んでくれる。

 全身から力が抜けていき、ガタッと倒れそうだ。

 

 瑠璃川、それは疑似恋愛のためだよね! 俺にドキドキする気持ちを体験させるためだよね!

 にしても、お前が校則違反紛いのことをするとは思ってなかったよ。

 勝手に瑠璃川のことを規律正しい優等生と思ってたけど、家での瑠璃川を考えると、それは俺が彼女に押し付けたイメージでしかなかったのだ。


「分かったよ、行こう?」


 瑠璃川の顔は真っ赤になり、比喩でもなんでもなく、頭から蒸気が立ち上った。

 それはなぜかというと、俺はさっきの仕返しに、瑠璃川と同じように、彼女の耳に口を近づけてゆっくりと囁いたのだ。


 やられっぱなしの男だとは思われたくないからな!

 にしても、裸やパンツを見られても表情一つ変えないあの瑠璃川が耳元で囁かれるだけで動揺するなんて、可愛いにもほどがある。




 というわけで、瑠璃川はぶつぶつとさっき俺に仕返しされた不満をこぼしながら、2人で屋上までの階段に向かっていく。


「伊桜くん、不意打ちはだめだよ……」


「不意打ちされたから、仕返しだよ」


「ううっ……」


 瑠璃川の顔がずっと赤いまま、廊下の端っこにある階段のほうに着いたら、階段の上から微かに声が聞こえてきた。


「俺たちさ、付き合わない?」


 どうやら、屋上が立ち入り禁止のをいいことに、そこに繋がる階段の上で告白が行われてるみたい。


 俺と瑠璃川は見合わせて、屋上に行くのを辞めようとした。

 人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死ぬっていうし、俺と瑠璃川はそれほど野暮じゃない。


 だが、つぎの瞬間、この場から立ち去ろうとした俺と瑠璃川の足はピタッと止まった。


「その……」


 その声の主は西園寺だった。

 どうりで、さっきから西園寺の姿が見当たらないと思ったら、男子に呼び出されたのか。

 

 だが、そこは問題ではない。

 西園寺は誰に告られようが、俺と瑠璃川が干渉すべきではない。

 しかし、西園寺の声はかなり困惑したように聞こえた。


 西園寺とはクラスメイトで、それ以上でもそれ以下でもない。

 でも、みんなが俺から遠ざかっていく中、彼女だけがずっと話しかけてくれた。

 

 瑠璃川に関しては違う理由があるだろう。

 彼女と同棲してから分かったことがある。彼女は困ってる人を見て見ぬふりはしない。俺に対しても、ふわに対しても、そして、おそらく誰に対しても……


 だから、今まで聞いた事のない、あのいつも言動が軽い西園寺から発した困惑した声を、俺と瑠璃川は放っておくことができなかった。


「いいじゃん? 俺は瑠璃川に振られたし、お前だって瑠璃川がいるから、埋もれてんじゃん?」


「……そうだけど」


「だからさ、サッカー部のエースである俺と付き合ってさ、美男美女カップルってチヤホヤされたらお互いにウィンウィンじゃない?」


「……うん」


「瑠璃川より目立って、見返してやろうぜ?」

 

 盗み聞きは悪いことだってくらいは知っているさ。

 でも、罪悪感よりもはらわたが煮えくり返るほどの怒りが俺を支配した。


 上手く言えないけど、その男は西園寺のことに恋しているわけではない。

 ただ、瑠璃川に振られて、瑠璃川を見返すため、西園寺を利用しようとしているだけ。

 それくらい、この気色悪い会話を聞いてたら、嫌でも分かる。


「瑠璃川……」


 なぜ、今俺が瑠璃川のことを呼んだのか、理由は簡単。

 俺は今から西園寺を助けに行く。今だけお前以外の女の子を守ろうとしたことを許してくれって伝えるために……


 ただ、振り返ると、そこには瑠璃川の姿はもうなかった。

 代わりにおびただしいほどの階段を登っていく音が廊下に響く。


「恋は人を見返すための道具じゃない」


 瑠璃川の言葉は残暑の蝉の鳴き声をかき消した。

 その声は穏やかで、そして、力強かった。


「る、瑠璃川、なんでお前がここに!?」


 告白している男は瑠璃川を見て狼狽える。

 そもそもそれは告白ですらなかった。ただの人を利用するための交渉。いや、脅迫。


「瑠璃川さん?」


 少し階段を登ったら、西園寺が瑠璃川を見て驚いてる姿が見えた。


 だが、瑠璃川は西園寺の声に反応せず、その男に対して言葉を続ける。


「恋を、絶対にほかの目的で利用してはいけない」


「んなもん、知るか! 振ったからって上から説教垂らしてんじゃない!」


「説教してるつもりはないよ……ただ、恋を恋以外の理由でしてはいけないと思う。違いますか?」


 威圧的な態度を取ってくる男に、瑠璃川は微塵も怯える様子はなく、堂々と言い返した。


「まして、人を見返すための恋に女の子を巻き込んではいけないと思う」


「知るか!!」


 男はパニクったのか、ひたすら同じセリフを繰り返す。

 恋すると理性はなくなるというが、この男はそもそも西園寺に恋もしていないし、理性も持っていなかった。


「西園寺さん、あなたはそう思わない?」


 今度は、瑠璃川は西園寺に向き直った。

 瑠璃川の口から放たれた質問に、西園寺は一瞬ビクッとした。


 そして、次の瞬間、パチンという音が響いた。

 西園寺が男の顔をビンタしたのだ。

 

 それは俺も驚いた。

 あのいつもちゃらんぽらんの西園寺が真剣な顔で誰かの顔を平手打ちするところなんて想像もつかなかった。

 たぶん、それは瑠璃川の言葉から勇気かなにかを貰ったからなのだろう。


「ちくしょー」


 ビンタの音で、人がどんどん集まってきて、男は決まりが悪くなったのか、この場を離れていった。

 すれ違いざまに、俺を一瞥したけど、俺は睨み返した。

 そう、瑠璃川が動いてなかったら、俺は何かしていたのだろう。

 それほど、俺も怒ってたから。


「うん、そう思う」


 西園寺は瑠璃川の質問に答えて、はにかんだような笑顔がこぼれた。

 この瞬間だけ、瑠璃川と西園寺の思いは通じあったのだろう。

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