アイスティー編
その11 新学期早々の波紋
ピーピーピーとアラームが鳴った。
右の足の指で左の足の裏を掻きながら、俺は手をアラームのほうに伸ばしていく。
アラームがピタッと止まったあたりで、背中の違和感を覚えた。
「おはよう」
違和感の正体が声かけてくる。
振り向いて、瑠璃川の方を見たら、彼女は俺の隣で寝てるわけではなく、凛とした制服姿で身を固めていた。
何度も見てきたはずの女子の制服を、自分の家という特別なシチュエーションで眺めると、浮かんでくるはずのないドキドキが胸をくすぐってくる。
いや、それだけじゃないのは分かってる。瑠璃川の制服姿だからこそ、俺は言葉を失って、彼女の挨拶に返事出来ずにいるのだ。
すらっとした白いシャツに、膝より少し上にある縞模様のスカートの裾。
何の変哲もない着こなしなのに、瑠璃川というだけで、それはもはや天使の羽衣に見えた。
それほど、ひとかけらの影もない、透明感溢れる姿だった。
「じゃ、行ってくるねー」
そう言って、瑠璃川はスクールバッグを肩にかけ、玄関へと向かっていった。
そして、ガチャという音だけを残して、部屋はまた静寂に戻った。
「うそ!!」
「わん!!」
ふわも俺と同じことを思ったのか、あいづちを打ってくれた。
あの夏休み中いつもだらだらして、朝は10時を過ぎないと起きない瑠璃川が、まだ6時半だというのに、もう登校している!
ふわも朝起きたら、瑠璃川の顔を舐めて起こそうとしてたけど、全部不発に終わったという。
一体どういうことなんだ!?
ふと、嫌な考えが脳裏をよぎる。
もしかして、瑠璃川は俺と一緒に登校してるところを見られたくないから、登校時間をずらしたのでは?
そう考えると、納得が行く、悲しいほどにね。
今日から二学期が始まる。つまり夏休みと違って、学校の友達とも顔を合わせるということになる。
家ではああだけど、瑠璃川は仮にも学校一の美少女なわけで、やはり彼女自身も男子との噂とかを気にするのだろうね。
俺は本物の彼氏ではない。あくまでも瑠璃川にとって疑似恋愛するための相手。
そして、その疑似恋愛によって、何かを得るのは俺のほうだ。
だから、彼女にとって、俺との関係をおおやけにするメリットはない。
「わん」
悶々としていると、ふわは自動給餌器のボタンを押して、シャララとドッグフードが皿の中を満たしていく。
そうか、ふわ、お腹すいたのね。
そんなふわの可愛い仕草を見て、名状しがたい愛しさが込み上げてくる。
俺はふわに近づいて、ゆっくりとふわを抱き上げた。
たとえ学校では瑠璃川と話せなくても、俺たちの間には確かな絆があると、なぜかふわにそう教えられた気がした。
「じゃ、パパは学校に行ってくるね? ふわ、ちゃんと留守番できる?」
「わん!」
いい返事だ。
瑠璃川は聞いてないから知らないが、俺は帰宅部。
ふわに寂しい思いをさせるけど、学校が終わったらすぐに帰ってくるからね?
玄関までついてきたふわの頭を撫でて、俺も家を出た。
俺の通う高校までは徒歩で約20分ほど。
自転車を使えばもっと早く着けるのだが、途中には
舞桜坂の上から後ろを見ると、そこには俺が住んでいる街があって、そして、俺と瑠璃川の家がある。
そう思うと、やはり少し寂しい気持ちになった。
ほんとは瑠璃川と一緒に登校してみたいとは思っていた。
まあ、本来なら一生関わることも無い瑠璃川と一緒に暮らせるようになったから、それだけで良しとしよう。
そう、本来なら別世界だと思っていた瑠璃川と一緒に住んで、同じ食卓でご飯を食べて、夜ふわと一緒に散歩しているのだから、これ以上なにかを欲したらほんとに天罰が下るだろう。
いや、そうじゃなくても、学校の男子どもにこのことを知られれば、私刑に処されかねないし。
女子たちに知らられば、なんて噂をされるか分かったもんじゃない。
こう考えると、むしろ瑠璃川が登校時間ずらしてくれたことには感謝すべきかもしれないね。
1ヶ月半ぶりの教室。
自分の席を見つけて、そっと座る。
周りは友達との再会を喜んだり、夏休みで一緒に遊んだことを懐かしんだりして、結構賑やか。
入学当初は話しかけてくれる人もいたが、次第にそういう人たちもいなくなった。
俺はずっと心が傷んでいた。両親が海外に行ったあと、この世界はまるでホログラムのように、現実味が欠けていた。
だから、だぶん、そういう俺を、クラスメイトたちは距離を置いたのだと思う。
ただ、一人を除いて―――
「やほー! 元気してた?」
髪をカチューシャのような白いリボンでレースアップに編み込んで、少しだけウェーブのかかった横髪が細い糸のように靡いている。
そしてくるりとした目で俺の顔を覗き込んできたこの女の子の名前は
「ああ、それなりにね」
「あはは、ウケる」
「いや、どこにウケる要素があるんだよ」
その気品のある名前と端麗な容姿とは裏腹に、西園寺の言動はどこか軽い。
今年で同じクラスになってから、用もないのに、こういう意味のない会話をしょっちゅうしに来る。
迷惑ってほどじゃないけど、西園寺は瑠璃川に埋もれているだけで、それなりに美人で、もちろん男子からの人気もそこそこある。
そこそこというのは、瑠璃川は年相応の透明感あふれる美少女だとすると、西園寺は年に似合わず大人の女性の色香を帯びた美人なのだ。
だから、大多数の正統派は瑠璃川にぞっこんで、一部のませた男子は西園寺に夢中という構図になっている。
実際、今みたいに西園寺が俺に話しかけてる時、数人の男子の視線は俺と西園寺に釘付けになっている。
注目されるのは嫌いではないが、好きでもない。
「で、童貞は卒業したか?」
「お前な、仮にも女の子だから、軽々しくそういうことをいうんじゃない!」
「ってことは、まだってこと?」
「……ああ」
何が悲しくて、ばか正直に答えなきゃならないのだろう……
でも、見栄を張ったら、そのあと空しいのは自分だ。
「よかったね!」
「意味わかんないよ……」
俺の返答を聞いて、なぜか西園寺は嬉しそうににこにこしている。
美人なだけあって、しかもいつもちゃらんぽらんだから、そういう笑顔は反則級だ。
ほんと、西園寺は何しに来たのだろう。
高一のときはそれほど関わったこともないのに、なぜか同じクラスになったとたん、こうもしつこくくだらない話をしてくるようになったのだろう。
てか、童貞かどうかどうでもよくない?
うん、どうでもいいよね……
「あれ、目が赤くなってるー」
「うるさい! 誰のせいだと思ってるんだよ!」
「あたしじゃないよね?」
「清々しいほどすっとぼけてるんだな、おい」
さすがに学校では泣いちゃいけないから、ぐっとこらえて、いばることでごまかす。
「伊桜くんってさ、みんなにもこう接したら友達増えると思うんだけどねー」
「余計なお世話だ!」
「「「うわー!!」」」
と、まあ、こんなふうに西園寺と会話している時、教室がざわめいた。
正直、会話と言えるかはまだ議論の余地がある。
目的のないやりとりは果たして会話と言えるのだろうか?
すくなくとも、西園寺から目的みたいなものは感じられない。
みんなの視線の先を辿ると、ドアのところにまさか瑠璃川の姿があった。
なんで、瑠璃川がここに?
そんな疑問に脳を支配された時、瑠璃川はすたすたと俺の横に歩いてきた。
「ごめんなさい」
「えっ?」
「今日ってほら、わたし早めに登校したじゃん?」
うん、それは俺とのことがバレないように登校時間をずらしたからじゃないの?
なら、こうやって俺に話しかけてきたら、登校時間ずらした意味がないじゃないか。
「新学期にさ、図書室にたくさん新しいラノベが入荷されるの。一刻も早く借りたくて、今朝頑張って早起きしたんだ―――」
そう言って、瑠璃川はぺこりと頭を下げて、長い髪は綺麗に垂れていた。
そういえば、瑠璃川はものすごくラノベが好きだったよね。
なら、早起きしてまで図書室に新しいラノベを借りに行くのも頷けよう。
「―――ごめんなさい、一緒に登校できなくて」
つまり、今朝早く登校したのは新しいラノベを借りたいからで、別に俺との関係を学校の人に知られたくないから、登校時間をずらしたわけではないということなのか?
なんだ、そういうことか……
不思議と、安心した。
瑠璃川は、俺とのことを隠そうとしていないって分かって、ほっとした。
「いいよ、別に、そんなことで謝らなくていいよ」
「伊桜くんはやはり優しいのね―――でも、わたしは一緒に登校したかったな……」
「あのー、イチャついてるところ悪いんだけど、あたしもここにいるよー」
気づいたら、西園寺はジト目で俺と瑠璃川を見つめている。
「瑠璃川さん、いつの間に伊桜くんとこんなに仲良くなったのかな?」
気のせいか、西園寺の声はどこか凍てついてる。
「わたしのこと知ってるの? 西園寺さん」
そして、なぜか穏やかな瑠璃川も少し言葉にトゲがあるように感じた。
「瑠璃川さんのこと知らない人はいないと思うんだけどねー。ていうか、なんであたしの名前知ってるんだよ」
「わたしは同学年の人の名前全員覚えてるから」
「なにそれ、すごくない?」
うん、そうなるよね……普通。
てか、文脈から推測するに、2人は今まで関わったことがないはずなのに、なんでいきなりこんな険悪な空気になってるんだよ。
「てか、さっき、一緒に登校するとかなんとかって言ったわよね? 2人はどういう関係なのよ!」
今度は、西園寺は矛先を俺に向けてきた。
いや、俺に聞かれてもね……
同棲相手? 疑似の恋人?
いやいや、普通に考えたらドン引きされる。
「わたしは伊桜くんと付き合ってるんだよ」
「ちょっと! それはほんとか!? 伊桜くん」
瑠璃川、お前、今なんて?
なんでそんな爆弾を投下してくるんだ?
これから、俺は男子に後ろ指を指されながら残りの学校生活を送らなきゃいけないんじゃないかよ!?
しかも、それはただの嘘なのに……
「違う! 創作の仲間だよ!」
俺はすぐさま訂正した。
「伊桜くんはそう思ってるだけだけどねー」
だから、瑠璃川、お前は今日どうしたんだ。
頑固なのは前からだけど、今日はもっとぐいぐい来てる感じがする。
どう考えても、そういう話をするのはお前にとってデメリットしかないのに……
「伊桜くんのばか! さっき童貞はまだ卒業してないって言ったのに!!」
ていうか、なんで、俺は西園寺に怒られるわけ? しかもそんな理由で!?
「いや、童貞だってば!」
ほんと、何が悲しくて自分が童貞だということを主張しないといけないんだろう……
でも、西園寺はきっと瑠璃川の話を鵜呑みにして、瑠璃川を相手に俺は童貞を卒業したんじゃないかと思ってるんだよね。
その張本人である瑠璃川の前で、「童貞じゃない」って宣言することは瑠璃川の話を肯定することになるし、なにより、瑠璃川に鼻で笑われそうで怖い。
「うん、それはわたしが保証する」
「なんで、瑠璃川さんが伊桜くんが童貞だってことを保証できるんだよ!」
うん、それは俺も聞きたい。
俺、お前に「俺は童貞です」なんて一言も言ってないはずだよね。
「だって、一緒に寝てるのに、全然襲ってこないんだもん? へたれだから」
「「くっ!」」
なぜか、俺と西園寺は同時に吐血した。
瑠璃川、俺がどんな思いで我慢してるのか分かってないんだな……ていうか一緒に寝てるなんて人に言っちゃいけないことだろうが!
「と、とりあえず、今は引いとくよ……」
そう言って、西園寺はふらふらと自分の席にもどっていった。
言い方は悪いけど、ゾンビのような歩き方だ。
「伊桜くん」
「は、はい!」
瑠璃川の声はいつもより低かったから、俺はつい反射的に返事した。
「君はわたしのものだから」
そういうと、瑠璃川は踵を返して、自分の教室に戻っていく。
瑠璃川がドアの向こうに消えるまでの間、少しだけ見られた彼女の後ろ姿はやはりすごく可愛かった。
そのあと、俺は男子たちにこれでもかと睨まれていたことはいうまでもないだろう。
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