その10 ほんのり幸せな夏の夜
「疲れたー」
瑠璃川は家に着いたとたん、ふわを床にそっと置いて、両手を上げて万歳のポーズで吐息を漏らした。
脇はくっきりはっきりと俺には見えているけど、それは瑠璃川的に大丈夫かな。
にしても、瑠璃川だって汗かいたはずなのに、彼女の脇から漂ってくるのはラベンダーのような香り。
いや、これは不可抗力だ。決して、わざわざ瑠璃川の脇に近づいて匂いを嗅いだわけではないぞ?
ただ、なんとなくこのラベンダーのような香りは瑠璃川の脇からくるものだと、そう直感したのだ。
そう、俺は決して変態ではない。
ふわの身の回りの物を買いに行くという名目だけど、買い物そのものには変わらない。
そして、その買い物でめっちゃテンション上がって、長くモノ選びに俺を付き合わせた瑠璃川より、俺の方こそ「疲れたー」というセリフを先にいう権利があるんじゃないかな。
なんで「疲れたー」っていう割に、すがすがしいほど笑顔なんだよ、お前。理解に苦しむわ。
I'm suffering from understanding.
頭の中に、一学期末の英語のテストにあったフレーズが脳裏をよぎった。
瑠璃川がとてもとても不思議な生き物だということを、俺の脳が日本語と英語両方を使って、訴えてきているのかもしれない。
「では、よろしくー」
「はいよ」
阿吽の呼吸まではいかないにしても、なんとなく瑠璃川の言おうとしてることは分かってる。
伊達にしばらく一緒に暮らしてるわけじゃないからな。
要は「荷物は頼んだ」ってことなんだろう。
はいはい、ちゃんとしますよ。
「わん!」
ふわは元気に部屋の方に走っていき、それについて行く瑠璃川。
俺はというと、色々買ったから、それらを6畳の狭い部屋で開封できないので、短い廊下でふわのベッドとトイレを取り出した。
「瑠璃川、ふわのベッドとトイレは取り出したから、部屋にスペースを作ってくれ」
「分かった!」
元気に返事して、瑠璃川はスペースの確保に乗りかかった。
しばらくすると、瑠璃川は廊下のほうへやって来て、ふわのベッドとトイレを部屋のほうに持っていく。
ふわのご飯は一応台所の下の棚にしまうことにした。
あとはふわのおもちゃを持っていくだけか。
そう思った時に―――
「伊桜くん、早くきて!」
―――瑠璃川は慌てて俺を呼んだ。
なんだろう。ふわが変なところでおしっこでもしたのかな。
それなら、お前が拭けばいいだろう?
「ここでおしっこして」
「はい?」
部屋を見渡してみたものの、どこにもふわがおしっこした痕跡が見当たらないから、立ち往生しているところを、瑠璃川に訳分からない指図をされた。
思わず聞き返してしまった。
だって、年頃の女の子が同じく年頃の男の子に、部屋の中でかつ目の前で「おしっこして」って言ってきたんだもん。
どう考えても、俺の耳か脳みそが暑さにやられたから、聞き間違えたのだとしか思えないじゃん。
「ここでおしっこして?」
「バカですか?」
思わず本音が出てしまった。だって、どう考えても普通の人間が言うセリフじゃないだろう。
それとも、やはり俺は人間として扱われてないってこと?
瑠璃川ならありえるけどね。
「バカってなんですか!? ほら、さっきの店員さんが言ってたじゃん」
俺が訝しげに瑠璃川を見つめていたら、彼女は「あっ、説明するの忘れた」みたいな顔で口を開いた。
「わんちゃんはおしっこの匂いがある場所でおしっこするんだってさー」
「だから、俺にふわのトイレの上におしっこをしろと!?」
「うん!」
「うん! じゃないよ! どう考えてもおかしいだろう!! そもそも人間と犬のおしっこの匂い違うだろうが!!」
「……嗅いだことあるの?」
「いや、ないけど……」
いやいや、なんでそんな変質者を見るような視線を向けてくるんだ―――嗅がなくても分かることだろう?
「そう……ならいいけど」
だから、その分かりやすい間はなんだ? 俺の言葉信じてないのか!?
まあいいや。
そのうち分かるだろう。俺は犬のおしっこも人間のおしっこも嗅いだことがないって。
「とりあえず、ふわがそわそわしたら、トイレの上に抱っこしていけばいいよ。1回そこでおしっこしたら、褒めてあげて? そしたら、次からもそこでおしっこするから」
「伊桜くんって、詳しいんだね」
「まあ……」
特に瑠璃川に話すことでもないので、俺は言葉を濁した。
小さい頃、おじいちゃんが犬を飼っていた。おじいちゃんの家によく遊びに行った俺はなんとなく犬の飼い方が分かる。それだけ。
おじいちゃんもわんちゃんも何年前に他界したけど、これもよくある話で、変に同情されたくないから、瑠璃川には黙っておくことにした。
瑠璃川も察してくれたみたいで、これ以上の追及はなかった。
ほんと、お前はこういうところがあるから憎めないんだよね。
人の気持ちを人以上に
それから、しばらくして、ふわがそわそわしだしたから、瑠璃川は俺が教えたように、ふわをトイレの上までだっこして、ふわはちゃんもトイレの上で用を足した。
「ふーちゃんは偉いね〜」
天使と間違えるほどの声。それほど、瑠璃川がふわに話す時の声は甘くて優しい。
しゃがんでふわの頭を撫でてる瑠璃川は、まあ、天使に見えなくもないけどね……
翼こそ生えてないけど、瑠璃川は、たくさんのものをくれた―――天使が人にもらたすようなもの。
ふわは疲れたみたいで、とことこ自分のベッドのところに歩いていき、匂いを嗅いでから、身を丸めて眠りについた。
「ふーちゃんって、それが自分のベッドだって分かるんだね……」
瑠璃川のほうを見ると、彼女は少しほっとしたような、寂しいような顔をしていた。
ふわがすぐこの家に馴染んだのは安心したけど、まだふわと遊びたかったといった感情が彼女の中で入り交じってるのだろう。
「さーて、俺らもそろそろ寝ようか。もうすぐ夏休みも終わるし、瑠璃川は学校の友達ともすぐ会えるんだね」
瑠璃川のそういう顔を見かねて、俺なりに空気を変えようとした。
瑠璃川の寂しい表情は艶めかしく、少し大人びていて美しいけど、彼女には似合わないと思った。
かといって、「元気出せよ」なんて能天気な励まし方は自分の価値観の押し付けでしかない。
自分の周りの人が元気でいて欲しいからといって、単純に「元気出せよ」なんて言うのはあまりにも残酷すぎる。
それは、両親が海外に行った時、俺が当時の友達に「元気出せよ」と言われて気づいたことだ。
「そうね。先にお風呂入ってもいい?」
「うん」
順番なんて正直拘っていないしね。
俺の返事を聞いて、瑠璃川は洋服を脱ぎ始めた。
「そのパンツ似合ってるね」
瑠璃川がスカートを脱いだら、先日ランジェリーショップで買ったパンツがあらわになった。
いや、ちょっとまって?
なんで俺はまじまじと瑠璃川が服脱いでるところを見てるわけ?
なんで普通にパンツ見て感想を言ってるわけ?
同棲しているとはいえ、瑠璃川は俺の本物の恋人でもないだろうに。
いやいや、本物の恋人だとしても、こういうのってやはりなんか違う……瑠璃川のあまりの無防備さに、俺の感覚すら麻痺したのか。
「……伊桜くん」
「な、なに」
さすがにまずかったのか。
ここに来て、「なんでまじまじと見てんだよ、この変態」って言われるのか!?
今までさんざん無頓着だったのに!
でも、それを警察に言っても、果たして分かってくれるかどうか……
「君はパンツだけで満足するの? その先にあるものは無価値だと?」
「お前、何言ってんの?」
怒られるかと思ったら、まじで何言ってるのか分からない言葉を掛けられた。
パンツの先にあるものってなに?
哲学?
それともただの保健体育?
「いや、パンツばかり見て、わたしのことはいいのかなって」
「おかしいだろう! だいたい、俺らは疑似恋愛してるだけで、そ……そこまでやってはいけないだろう!」
「ふーん、それにしても慌ててるねー」
「からかうな! てか、なんでそんなこと言うんだよ」
「女の子のプライドですー」
「なんのプライドだよ!?」
「自分の体よりパンツに興味を持たれたら、そりゃプライドも傷つくよ」
「そういうのは本物の彼氏にしてくれ……」
ったく、元々今日1日色々あって疲れたというのに、さらに疲れる話をしてくるなよ。
まあ、疲れるというか、元気が出る話だけどね、変な意味で。
お前の体に、べ、別に興味がないわけじゃないよ……ただ、もし、自分の欲望に身を任せてたら、お前は俺から離れる気がした。
認めたくないが、俺はお前が必要かもしれない。
「だから、わたしの体にも興味を持って?」
「だからの使い方間違ってない!?」
「細かい男はモテないよ?」
「ほっとけ!」
「ふふっ」
なにがおかしいのか、瑠璃川はクスクスと笑っている。
せっかく、俺が理性を保とうとしているのに、誘惑してくんな。
「だいたい、俺がお前の、その……パンツの先にあるものに興味を持っていたら、お前はどうするのさ」
「……うん? 考えてなかった」
真面目に考えてた俺はバカだった。疲れたし、瑠璃川が風呂から上がったら、俺も風呂入って寝ようか。
とまあ、こんな感じで思考を転換してみたりしてー。
「ありがとうね」
風呂に入ろうとしたところで、瑠璃川は半身だけ振り向く。
細いクビレがより強調されるポーズだ。
「うん?」
「ううん、なんでもない」
「なんだよ……」
「これからもよろしくね、パパ」
あっ、よろしくね。
でも、そのパンツの先にあるものを隠したほうが感動的だったよ―――なんせ、俺はそれで変な気持ちになったから。
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