その5 なんとなく下着の話

 浴室の蛇口を業者さんに修理してもらった翌日。


「瑠璃川って家ではずっとノーブラなんだな」


 何気に呟いた。

 瑠璃川と同棲して一週間くらいが経ち、俺はすっかり上が可愛いキャミソールで、下がセクシーなパンツ一枚だけの彼女の格好に慣れてしまった。

 服越しでも存在感が半端ない彼女の双丘とその先端に意識を向けないようにするためのコツも掴みつつある。


 だから、別に深い意味で言ってるわけじゃない。

 例えるならしばらく晩飯はカレーが続いて、「今日もカレーか」と呟くような感じ。そこに感慨や不満はない。

 ただ、この言葉が今日の出来事のきっかけとなってしまった。


「あはははは―――」


 腹を抱えて笑ってやがる。俺、そんなにおかしなこと言ったかな。

 仮にも学校一の美少女なんだから、そんなに笑い崩れてビジュアル的に大丈夫ですか? まあ、俺しか見てないから、瑠璃川的に問題ないのだろう。


「―――えっちだね〜 伊桜くん。 いつも私の乳首見てるんだね!」


「み、見てないし!」


 図星をつかれて、俺は慌てる。

 別にえっちな目で見てるわけじゃなくて、一緒に生活していたらどうしても目に入っちゃうんだ―――なんて言っても信じてくれなさそう……


 俺が憚って表現を婉曲なものにしているというのに、なぜお前はすんなり「乳首」って言っちゃうんですか!? 俺の今までの努力はなんだったのだろう……賠償金を要求する。


「あはは、照れてる! ほら、わたし一人っ子だから、兄とか弟とかいなくて、家では気にする必要がないんだから、いつもノーブラなんだよね」


 からかってくるなよ。ただでさえお前可愛いから、そうやって小悪魔みたいなセリフを吐くと、ほんとどうしようもなくなる……ていうか、ほらって、俺、お前の家族構成知らないし。


 でも、なんとなく理解はできた。異性の兄弟がいない家庭環境だから、家では快適さを選んでいるということなのか。確かに、人によってはブラをつけるのを窮屈だと思う人もいるし、ずっとブラ付けてたら乳がんのリスクが上がるってどっかの記事で見たような……って、瑠璃川が乳がんになる心配してどうするんだよ!? ちなみに、今は俺んちにいるんだよね? 俺は異性として見られてないってこと?


 分かってはいたんだけどね。瑠璃川は俺のことが好きでこうやって俺と同棲してるわけじゃないってこと。でも、改めてそう考えるとなんか凹む……

 いかん。つい瑠璃川に気を許してしまった。会話していて、普通の女の子だと思ったが、こいつは仮にも学校一の美少女だ。今は俺と疑似恋愛するために、一緒に住んでいるとはいえ、彼女は手の届かない存在に変わりはない。


 どこかで期待していた。同棲しているから、彼女は少なからず俺に好意を抱いてるのではないかって。

 余計な想像や期待はよそう。いつか俺の恋愛描写がうまくなって、瑠璃川がそれに納得したら、俺らの関係はそこで終わりだ。同棲も解消するだろう。

 だから、期待はしない。しないようにするしかない。


「でも、そう言われたら―――」


 瑠璃川は急に眉をひそめて真面目な顔になり、考え込んだ。

 普段とのギャップで、一瞬ドキドキしてしまった。


「―――もうすぐ夏休み終わるし、学校に着ていく下着は新しく買いたいかも……」


 今日は8月20日だから、あと一週間と少しで夏休みも終わる。

 だからと言って、新しい下着を買う必要はあるのかな……もしかして彼氏!? 彼氏に見せるの? 

 でも、学校ではそういう噂は聞いてないし、ここん一週間もほとんど俺の家に引きこもってるし。


 だめだ。考えれば考えるほど、もやもやする。

 瑠璃川に必要以上の興味を持たないように細心の注意を払ってきたはずなのに、なんで一緒に住んでから、彼女のことを意識しだしたのだろう。


 自分に恋愛経験がないのが憎く思えてきた。

 もし俺はすごくモテていて、恋愛において百戦錬磨だったら、こんなことで悩む必要はなかったのに……

 もう嫌だ。はっきり瑠璃川に聞こう。こういう気持ちを抱えていたくない。彼氏がいるなら早めに知ったほうが変な気持ちにならなくて済む。


「なんで二学期が始まる直前に新しい下着を買う必要があるの? もしかして、その、か、彼氏に見せるためとか?」


 少し緊張してるせいか、彼氏のところで噛んでしまった。


「……」


 なんで? なんでそんな珍獣でも見ているような目で俺を見るの? 考えられる理由はそれしかなくないですか?


「そうだね……」


 瑠璃川はやっと口を開いた。なんか答え聞くのが怖い。

 自分で聞いといてなんだけど、やはり知りたくないな。


「彼氏がいたら、会う度に新しい下着を用意していたのかもしれないけど、今回は純粋に気分転換かな~ 夏休みデビューってやつ?」


 その言い方……つまり彼氏はいないってことでいいんだよね。

 ほっとした。

 悔しいが、彼女の答えを聞いて安心した自分がいる。

 だいたい同棲するまで瑠璃川にそんなに興味なかったのに、いったいどうしたんだよ、俺。


 にしても、気分転換で下着買うって女の子らしいな……けど、夏休みデビューってそんなもんだっけ?

 俺の中の夏休みデビューのイメージは髪型を変えたり、髪色を染めたり、日焼けしたりと見た目を変えるとかそういう感じ。そもそもデビューという言葉自身はだれかに見せるという意味合いが含まれてるから、瑠璃川はやはり新しい下着をだれかに見せるつもりなのかな。


「夏休みデビューって、新しい下着をだれかに見せるのか?」


 自分でもびっくりするほど、思ってることを無意識に口に出した。


「えっ?」


 俺の発言に戸惑ったのか、瑠璃川は俺をじっと見つめてくる。


「伊桜くんに見せるんだよ? 二学期はとびっきり可愛い下着付けるから覚悟しといてね♡」


「……」


 今回は俺が絶句した。

 瑠璃川の言葉は俺の予想の斜め上をはるかに超えていた。てか、話自体が噛み合っていない気もする。

 なんで夏休みデビューは俺に新調した可愛い下着を見せることになってるんだろう。理解に苦しむ。むしろ一生理解できない気がする。


「いや、わたしもなんとなく夏休みデビューって言葉を思いついて言ってみただけで、改めてそう聞かれると、伊桜くん以外に見せる人いないし―――ほら、彼女が可愛い下着を付けてる姿を見るのも疑似恋愛の一環でしょう?」


 俺の考えを読んだのか、瑠璃川は説明する。

 『彼女』ってあくまで疑似恋愛のパートナーのことだよな。


「でも、家ではノーブラだろう?」


「あっ……」


 やはりか。そんなこと言って、結局家にいる時はノーブラだから、見せるもなにも……


「……頑張って付ける」


 家でブラつけるのそんなに苦痛なことなの? 瑠璃川は眉を八の字にして悲痛な表情を浮かべた。

 いや、見せてくれるなら見たいよ。俺も男の子だし。でもさ―――


「付けても見えないよ? だって瑠璃川は家ではキャミソールかなんか着てるだろう?」


 後々考えたら、俺のこの発言は相当やばいものだった。

 なんとなく筋の通った会話をしようとした結果、俺は瑠璃川のブラが見えないことに不満をこぼしている変態みたいになっている。

 だって、今まで女の子とこんなこと話したことないんだもん。いや、こんな会話する機会なんて普通一生ないと思うよ? でも、いつも露出度の高い瑠璃川と一緒に暮らしてたら、感覚がおかしくなったのだろう……


「……ぬ、脱ぐから」


 やばい、まじで俺、女の子に服を脱ぐように強要しているやばいやつみたいじゃん。

 ほら、いつも恥じらいとは縁遠い瑠璃川の顔が真っ赤になっているし。

 それが新鮮で可愛いけど……


「ち、違うから! 俺、そういう意味で言ってるわけじゃないから!」


「……いいよ、言い訳しなくても、分かってるから。男の子ってみんな見たいんでしょう」


 やめて。そんな悟り開いたような顔で決めつけないでくれ。

 だいたい同棲して最初の朝といい、いつも家にいる時の露出度の高い格好といい、さんざん俺に見られたことをなぜ恥ずかしいと思わなかったわけ? なんで、今になって俺のセリフに赤面するわけ? なんでそんなどうしようも人間を見てるような視線を向けてくるの!?


「ちょっと、涙ぐまないでよ! 別に嫌じゃないよ……?」


 なんか瑠璃川に変態として見られたことが悔しくてつい目が潤んだら、彼女は宥めてくれた。


 『嫌じゃない……よ?』


 この言葉はどういう意味なんだろう。

 今まですでにたくさん見られたから、これ以上見られても平気ってこと?

 それとも俺だから見せてもいいよってこと?


 まただ。また瑠璃川のことが気になってしょうがない。

 瑠璃川はあくまで俺の恋愛描写をリアルにするために俺と疑似恋愛しているだけで、そのために自分にできることを精一杯やっている。たったそれだけ……なのに、どうして、こんなに期待してしまうのだろうか。

 ほんと、おかしいよ……俺。


 気づいたら、頭の上に柔らかい感触があった。

 瑠璃川が俺の頭を優しく撫でてくれている。

 

「……俺ってさ、よく泣くじゃん。瑠璃川はうざいとか重いとか思わないのかな」


 なんとなく、この質問が口から零れた。

 瑠璃川にはなぜか嫌われたくない、愛想を尽かされたくないと思った。


「よく泣くのは心が優しい証拠だよ? 男の子だからって泣いちゃいけないってことはないと思うから」


 彼女の返事は答えになってはいないけど、なんとなく瑠璃川のことは信じてもいいと思った。すくなくとも、泣いたくらいで嫌われることはないだろう。


 瑠璃川、お前はなんでいつも、俺の心がじーんと暖かくなる言葉をかけてくれるんだろうか。

 お父さんとお母さんがいたら、同じようなことを言ってくれたのかな。


「ほら、行くよ!」


 考え込んでいるところを、瑠璃川は俺の手を引っ張った。


「どこに?」


「そんな決まってるじゃん! ランジェリーショップ!」


「行ってらっしゃい?」


「伊桜くんも行くんだよ!」


「えぇっ!?」


「デートにちょうどいいじゃん〜」


 そう言ってはにかむ瑠璃川の笑顔は眩しかった。


「擬似のカップルだけど、デートもちゃんとしなきゃね!」


 そう言う瑠璃川の目はキラキラと光っている。

 『擬似』か。

 もしできることなら……なんて思ってしまう。


「って! デートの場所がランジェリーショップだなんて聞いたことないよ! 俺は行か……」


 急に、自分もランジェリーショップに行くことになっているのに気づいて、慌てて断ろうとする。


「じゃ、わたしたちは初めてそういうところでデートする恋人だね」


 言いかけた言葉は最後まで出てこなかった。

 不意打ちのように言われたこの一言で、俺はぼーっと瑠璃川を見つめることしかできなかった。

 前髪に少し隠されているくりっとした瑠璃川の目がすごく綺麗だと思った。


 今度は、『恋人』の前に『擬似』はなかった。単に何度も言うのがめんどくさいのか、それとも……俺には分からない。

 ほんと、紛らわしい。

 でも、『初めて』か。疑似恋愛だとしても、学校一の美少女と『初めて』の思い出を作れるのは嬉しい。


 だから―――


「行くよ」


 ―――という言葉は自然と俺の口からこぼれ落ちた。

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