その4 いきなりのハプニング
「ちょっと! 伊桜くん、大変だ!!」
大変なのは、夏休みなのに執筆しなければならない俺のほうだ。
せっかく『虹色の涙』の第2巻の原稿を区切りのいいところまで書きあげて、布団の上で横になってのんびりとくつろいでいるところを、瑠璃川に浴室から大声で叫ばれた。
ただでさえ、担当編集の沢咲さんが毎日電話やらメールやらで進捗を確認してくるから、休む暇も惜しいというのに。
おまけに、最近瑠璃川と同棲するようになって、精神的に休まる時間も減っている。
まあ、瑠璃川が来てから、前みたいに寂しくなくなっているし、俺の代わりに彼女がご飯を作っているから、悪いことばかりじゃないけど。
にしても、俺は瑠璃川羽澄という女の子を舐めていた。完全無欠な人はいないと思ってるから、学校一の美少女と称される瑠璃川の料理スキルには期待していなかった。俺の抱いてる美少女像は料理下手な人が多いから。
せっかく作ってくれるのなら、食べられればそれでいいとハナからそういう心積もりだった。
だが、彼女はいとも簡単に俺の予想を超えてきた。
さっきの夕飯をとっても、まさに絶品だった。献立はシンプルなオムライスとサラダ。だが、オムライスはオーソドックスな割に奥が深い。ケッチャプライスの味はもちろんのこと、ちゃんとそれを薄い卵焼きで綺麗に包み込めるかで料理人の腕が見えてくる。
瑠璃川はそれらを完璧にこなした上に、隠し味まで仕掛けてきたのだ。スプーンでオムライスの
彼女が何をしたのかと言うと、
「卵を混ぜる時にバターとミルクを少し入れたんだ〜 どう? 美味しい?」
卵焼きにひと工夫を施したのだ。
「……美味しい」
歯切れが悪いのは、瑠璃川の料理が俺のそれより美味いからじゃない。確かに2年間自炊してきたから、自分の腕にそれなりに自負はあった。でも、別に彼女に負けたからどうということは無い。おれはそれほどそんなことに拘ってはいない。これから毎日こんなに美味しいものが食べれるのなら、文句はない。むしろ嬉しい。
理由は別にあるのだ。
「―――なあ、瑠璃川、このオムライスの上に書かれているのはなんだ?」
「ハートだよ? 愛情をいっぱい込めて書いたの―――た・べ・て?」
「……これも擬似恋愛の一環?」
「もちろん♡」
「食べづらいんだけど」
「えぇ―――なんでよ!?」
「なんでもなにも、恥ずかしいというか、このハートを潰すのは気が引けるというか」
「いいのよ! わたしのハートを射抜く感じで潰しちゃって?」
この子、自分が何言ってるのか分かってるのかな。お前はドMかなにかですか。
というわけで、心を鬼にして、俺は綺麗なハートを書かれているオムライスを食べ切ってから、布団の上で横になった。
ご飯作るのに汗かいたから、先に風呂入ってくるねって、瑠璃川は浴室に向かった。
つい最近までは執筆の後に、自分でご飯作らなきゃいけなかったから、瑠璃川のおかげで随分楽になった。
と思ったら、このザマである。
浴室からの瑠璃川の叫び声はこの狭い部屋ではある意味兵器だ。精神攻撃に特化している。
「―――どうした?」
間延びした声で、俺は浴室にいる瑠璃川に問いかける。
「水が急に出なくなったのよ!!」
「そうか。大変だね」
さて、少し仮眠するか。瑠璃川が上がったら、その時に起きて風呂に入ればいいし。
「ちょっと! なに勝手に解決したことになってんの? これじゃ、シャンプー洗い流せないよ!」
「―――っ!? どういうこと? 水出なくなったの?」
「さっきからそう言ってんじゃん!?」
執筆で脳をフル回転させたあとに、美味しいご飯を食べたから、俺は瑠璃川の話を話半分で聞いていた。頭がぼーっとほかほかしていたから、仕方ないことだと思う。
でも、瑠璃川は一向に大声出すのを辞めないから、よく聞いてみたら、ほんとに大変なことじゃん!!
俺は急いで、洗面台に向かって、蛇口を捻った。
水はちゃんと出てくる―――ということは断水ではなさそうだね。
「早く来て―――!」
瑠璃川に呼ばれて、俺は急ぎ足で浴室に向かい、勢いのままドアを開けた。
そこには、シャンプーが泡立っている長い黒髪を両手で抱えている生まれたままの姿の瑠璃川が立っていた。
あまりの光景に、思考がストップしていた―――いいくびれだ。
「なにぼーっと見てんのよ!? 早くなんとかして?」
「……あっ、ああ」
いつの間にか、瑠璃川の綺麗な体に見蕩れていた。
てか、お前はそれでいいのか。隠さなくても。
まあ、ここ最近彼女と暮らしていて分かったことがある。瑠璃川に羞恥心や恥じらいなどを求めるだけ無駄だ。
瑠璃川の声で我に返って、急いで視線を彼女のほうに向けないように、浴室に入り蛇口を捻ってみた。
瑠璃川の言う通り、水がまったく出てくる気配がない。
これじゃ、明日大家さんに電話するしかないな。
「そんなの待てないよ? シャンプー付いてるし、体洗わないと嫌だし」
「じゃ、どうすればいいんだよ」
「そうだっ!」
そう言って、瑠璃川はすっぽんぽんのまま浴室を出ていった。
なぁ、シャンプーと水で濡れた床はあとでお前が拭くんだよね……
「じゃ―――ん!」
しばらくして戻ってきた瑠璃川はドヤ顔で空になった2リットルの水のペットボトルを俺の前にかざした。
「なにそれ?」
「伊桜くんが洗面台でお湯をこれで汲んできて、わたしの髪と体を流すの」
「えぇっ!?」
「早くしないとわたし風邪ひくよ!」
裸体を見られることより、風邪を引くことのほうが嫌ですか、そうですか。
はぁ……とため息を付いて、俺は瑠璃川からペットボトルを受け取り、黙々と洗面台に向かった。
刺激があまりにも強すぎた。瑠璃川にはもっと健全な思春期の男の子の気持ちを考えて欲しいもんだ。
我慢できず、俺が襲ったらどうするんだよ……ただでさえ同じ狭い布団で寝てるのに。もしかして俺って男として見られてないのかな。
やばい、目が潤んできた。
「お湯……汲んできた」
「じゃ、まずは髪から流して?」
言われるがまま、俺は手を高く掲げて、瑠璃川の髪めがけて、ペットボトルを傾げる。
じゅるじゅると流れるお湯によって、瑠璃川の髪についてるシャンプーはすらすらと流れていき、彼女の髪は本来の輝きを取り戻した。
「あっ、お湯なくなった」
「次は体洗うから、もっかい汲んできて?」
「1日くらいいいじゃん?」
「それ、レディーにいう言葉じゃありません」
「はいはい」
やれやれともっかいお湯を汲んできたら、思考がまた停止してしまった。
瑠璃川はボディーソープを念入りに全身に塗っていた。
泡立つ乳白色のボディーソープに包まれる瑠璃川の白い肌はより一層艶めかしく見えた。
「あっ、もうボディーソープ塗り終わったから、流していいよ?」
「……あっ、はい」
思考停止した俺はまるで瑠璃川のマリオネットのように、従順に彼女の言葉を実行した。
だが、急な彼女の呼びかけに俺は我に返ってしまった。
「ちょっと! ちょっと!」
瑠璃川さんよ、今日は「ちょっと!」の回数多くないですか?
「鼻血出てるわよ!」
「え?」
瑠璃川に言われて、鼻を触ってみたら、手が血まみれになっていた。
まさか、俺は瑠璃川に興奮して鼻血を出したというのか……
ほかに原因は考えられない。
情けなさすぎる。
「ちょっとそこで待ってて!」
そう言って、彼女はまたすっぽんぽんのまま浴室を出た。
ボディーソープと水で濡れた床はあとでほんとにお前が拭くんだよな!
「これでオーケー!」
帰ってきた瑠璃川は1枚のティッシュを綺麗に半分にちぎり円状に丸めた後、俺の鼻に突っ込んだ。
「応急処置完了!」
そう言ってぱちぱちと拍手する瑠璃川は、可愛かった。
「……あ、ありがとう」
「お礼はいいから、体流して?」
今度こそ、俺は無心に瑠璃川の体にお湯を注いでいた。まるで花に水をやるように。
「ダメですっ!」
「いいじゃん、俺は別に1日シャワー浴びなくても大丈夫だって」
「嫌よ、寝る時に伊桜くんのいい香り嗅ぎたいもん」
それはお前のわがままなんだよな。てか、夜いつも俺の匂い嗅いでたの? ちょっと怖い。
「それに体に鼻血も付いてるし、洗わないと不衛生よ?」
「……確かに」
「大丈夫! 今度はわたしがペットボトルでお湯汲んで流してあげるから」
「それが一番嫌だよ! 裸見られたくないよ!」
「まあまあ、逆境をなんとかに変えろ、っていうじゃん? 浴室の蛇口が壊れたからこそ出来ることだから、擬似恋愛としても千載一遇の一大イベントだよ!!」
気のせいか、瑠璃川は少しずつ「擬似恋愛」を都合のいい免罪符として使うようになったような……
あと、そんなに目をキラキラさせないで? 知らない人が見たら痴女だと勘違いするから。
「分かったよ。俺の作品のためだよね! 俺の恋愛描写のためだよね!」
半分やけくそになった俺。瑠璃川は俺の作品のために同棲までしてくれたから―――それで、俺に色んなところを見られたけど―――俺も彼女の熱意に応えなきゃ、だよね。
「なぁ、服を脱いでる時はじろじろ見ないでほしい」
「ねえねえ、学校一の美少女に服脱いでるところを見られてるのはどんな気持ち!? ねえ、どんな気持ち!?」
「なんでそんなにテンションが高いのかな!? 恥ずかしいだけだよ!」
「あはは、照れてやんの! 顔が夕暮れみたいになってるよ!」
お前、ナチュラルに可愛いから、そんな小悪魔なセリフ言うのはルール違反だよ……
「じゃ、流すね」
「―――お願いします」
風呂椅子に座り、一応タオルを股間に掛けている。
1度瑠璃川に髪にお湯を掛けてもらってから、シャンプーで髪を洗った。
瑠璃川に合図を送ったら、彼女はゆっくりとペットボトルを傾け、お湯が髪についてるシャンプーを優しく流してくれる。
なんだろう。同じお湯なのに、いつものシャワーと全然違う。
瑠璃川がペットボトルでお湯を流してくれてる―――それだけで今までとは比べ物にならないくらい気持ちが良かった。
「「あっ」」
お湯の勢いで、股間に掛けていたタオルが流れて、俺の大事なところがあらわになった。
「うふふ、可愛いね〜」
「ち、違うから、普段はもっと立派だから!」
「もー、見栄はらなくてもいいよ? わたし可愛いのが好きだから♡」
「み、見栄じゃないもん……」
「じょ、冗談だから、ねえ、泣かないで―――わたし、男の今まで見たことないから、正直分かんないよ」
あれ? 俺泣いてたのか。
ほんと、泣き虫だな。
でも、よかった。可愛いというのは冗談だったんだ……って、良くない! 結局見られちゃったじゃないか。
この日は眠るまで、顔が暑かったのを覚えている。
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