第五十二話

 まさに一瞬だった。むしろ、そうとしか表現出来なかった。

 ヘレナは目の前で起こった事件にただただ目を丸くする。「目を閉じていて」とそう言われてから数十秒、たったそれだけの時間しか経っていないというのにフロアの様子はさっきまでとは一変していた。ソフィアを人質にしていた犯人らは例外なく地面に伏せ、何よりヘレナと目の前の女性だけしかその場には立っていなかった。


「……私、目を閉じててって言ったよね?」


 ソフィアを抱えてきた女性はソフィアをベンチに横たえながらヘレナに話しかける。


「ご、ごめんなさい……ただ、心配で」


 気にするなと言われれば気になる見るなと言われればみたくなる人間とはそういうものでヘレナは事件の全てをその目で見ていた。

 俯いたヘレナの頭を撫でながら女性は軽く微笑んだ。


「まぁ、私も約束を破っちゃったからね。ごめんね、ソフィアちゃん、だっけ? 無事に助けるって言ったのに怪我させちゃったよ」


 そうは言った女性ではあったがヘレナがソフィアのどこをみても怪我らしい怪我は見受けられなかった。何よりヘレナが見ていた限り犯人にはそんなことをする暇は無かった。


「そういえば―――」


 女性が何かを言いかけたときだった。

 フロアの中央の空間が少し歪んだ。明らかに面倒くさそうな顔をしながら振り返る女性はそれを見てから大きくため息をこぼした。

 空間の歪みが無くなり再び静かになったフロアには一人の青年が立っていた。黒髪を掻きながら憂鬱そうにため息をついて、フロアを見渡しながらまた一つ大きなため息をこぼしてヘレナ達のもとに歩いてくる。


「はぁ〜、なんでレットがここにいるわけ? 私、今一人で旅をしてた最中なんだけど」


 ため息混じりに問いかける女性とそれにため息で返す青年。


「あのな、僕だって元々こんなところに来るつもりはなかったんだよ。それに最初に僕を連れ回したのは君じゃないかティア。責任を放棄して一人で楽しもうなんてちと傲慢すぎやしないかい」


「いやいや、だいたいレットが―――」


 揃って文句を言い出す二人に緊張が緩んだヘレナがふふ、と笑いをこぼす。


「あぁ、ごめんね。こいつは私の旦那のレット。まぁ、そこそこの魔法使い。あっ、そうそうまだ私の名前を教えてなかったよね」


 恥ずかしそうに頭を搔いて立ち居振る舞いを正した女性はローブをレットに渡してスカートの端をつまんで軽く会釈する。


「私の名前はティア・クロムウェル。しがない商家の娘……というのは流石に厳しいのかな。まぁ、そこら辺は特に気にしなくともいいよね。少なくとも今はまだ関係の無いことだし、それで君の名前は?」


「えっと、私はヘレナ……です」


『嘘をつく奴が大っ嫌い』

 ついさっきティアの言い放ったその言葉がヘレナの中でフラッシュバックする。一瞬の躊躇いの結果、グレイスロアともバルトホルンとも名乗ることができずヘレナは僅かにティアから目線を逸らした。


「そっか、ヘレナ。うん、覚えておくよ、ちなみにだけど私が助けた子の名前を詳しく教えてくれない?」


「ソフィア・フォン・カトラス……どうかしたんですか?」


 少し不審に思ったヘレナであったが助けてもらった恩もあるし何より向こうが名乗っているのだ、ヘレナとしてもソフィアにしても名乗らないというのは無礼だろう。

 そう思ってソフィアの名前を教えたヘレナだったが彼女の家名を聞いた一瞬ティアとレットの顔が険しくなった。少なくともヘレナにはそう見えた。


「い、いやなに、とんでもない人を助けていたんだなって。いやぁ、助けられてよかったよ、本当に…………まぁ、とりあえず私達はここにいたら面倒くさいことになりそうだからね。早いとこおいとまさせてもらおっか。レット」


 ティアが振り返るとレットは既に準備が出来ていたのだろうただ黙ってうなづいた。


「ヘレナ、君とはまたどこかで必ず会う、必ずね。私はそれを楽しみにしてるから」


「あ、ちょ―――」


 ヘレナの制止は意味無く、空間が再び歪み二人はその場から忽然と姿を消した。

 再びフロアは静寂に包まれて伸ばしかけた手を引くヘレナは静かにベンチに座り込んだ。


「…………ティア・クロムウェル。私と同じ瞳を持つ人、か」


 その後、しばらくして状況を聞き付けた憲兵と共にレバノスが慌てて塔を登って来たがソフィアを人質にとった犯人は捕まることは無かった。レバノスはヘレナから事件のことを一通り聞き激怒、「見つけたら八つ裂きにしてやる」と不穏なことを連呼していたがおそらく彼らが見つかることは無いのでは無いかと一人ヘレナはフロアの中央を眺めた。

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