第五十話

 ついさっきまで賑わいで溢れていたフロアは一つの悲鳴で冷静さを失った。誰もが何も分からないまま叫び逃げ戸惑っている。最悪だったのはパニックの伝播する速さが異様だったということ。構造上の欠陥と言うべきだろうこの展望台にはエレベーター以外に昇り降りする手段、つまり階段などが設置されていないのだ。

 そうなるとどうなるのかといえば人々は一斉に昇降機に向かってなだれ込むということになる。ただここにあるエレベーターではここにいる人全てを一度に運ぶということはできない、ぎゅうぎゅうに詰め込んでも十人程度が限界であろう。そして何より一気に人が駆け込んだせいで安全装置が作動したようだった。いくら待てどもボタンを押せども扉は閉まることはなく当然昇降機も降りる気配がない。

 悲鳴が幾重にもこだまするフロアの中で全くもって状況の掴めないヘレナはその場から動くこともできずにいた。誰の目から見ても逃げるのは手遅れだということは明確だ。結局のところヘレナは心の中で不満をこぼしつつ再びベンチに座り込むという選択肢しかなかった。


「君は随分と落ち着いてるね」


 慌てて走り出した係員と入れ替わるようにヘレナの隣にフードを深く被った人物が腰掛ける。ヘレナからはフードとマントのせいで顔や体格は分からなかったが声から何とか自分に話しかけてきた人物を女性と認識することが出来た。


「あなたは?」


「私? 私は通りすがりの冒険者、みたいなものかな。それにしてもついてないったらないね。せっかくの休みだから観光名所をぶらぶら一人旅していたのにこんな現場に巻き込まれるとは」


 女性は静かに一つため息をつく。ただ彼女の発した言葉は呆れや怒りのようなものではなく興奮、あるいは何かを期待するような雰囲気で思わずヘレナは隣の女性を見つめていた。


「……あなたは逃げないの?」


「う〜ん、なら逆に聞くけど、君はこの場所から逃げられると思う?」


「……無理、だと思う。さっきの騒ぎでエレベーターは止まっちゃったみたいだし。ここは十階、飛び降りる訳にもいかない、そもそもここのガラスは簡単には壊せないみたいだし。というか私には何が起こってるのか全く分からないから逃げるべきなのかどうするべきなのかが分からないよ」


「ふふ、やっぱり人は見かけによらないものだね、もう少し周りの人達が君みたいに賢ければここまで大事にならなかっただろうに。まぁ、直にわかるよ今がどういう状況なのかは」


 女性がそう言った直後だった。展望台に男の大声が響き渡る。


「静かにしやがれ! ここは俺達、ノストラルが占拠した。死なたくなければ大人しく俺達の指示に従え」


 フロアの注目が声の元に集まり、その男を避けるように人が広がる。


「ノストラルか、これまた随分と厄介なところがでてきたもんだ……おや、どうしたの? 顔色が悪いけど」


 歩み出てきた男の傍らには首に剣をあてられた少女がいた。

 女性が顎に手を当てるのと同時にヘレナの目が見開かれる。チラッと見えたその容姿は間違えるはずもなくソフィアのものだった。おそらく気絶させられているのだろう、ソフィアは力なく項垂れている。


「ソフィア! 何するの、離して!」


 すぐさま男に向かって走り出そうとしたヘレナの左腕を女性が慌てて掴む。


「待って待って、今この状況で君が行って何になるっていうんだい。下手に刺激したら助けられる彼女も助からないんだから冷静に。ね?」


「で、でも……」


「はぁ、レットには止められてたけどこの際許してくれるよね……お嬢ちゃん、少しの間目をつむっててくれないかな、そうすれば私があの子を無事で助けるからさ」


 フードをまくって素顔を晒した女性、その瞳の力強さに何よりその美しさに一瞬ヘレナは見とれていた。ぽかぁーん、と開きっぱなしになった口を慌てて閉じてほとんど無意識にヘレナは小さく頷いてしまっていた。

 ヘレナの返答に満足した女性は綺麗な金髪をなびかせながら「ちゃんと目を閉じとくんだよ」と言い残して人混みを掻き分けていく。


「私と同じ……赤い、瞳」

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