2

「なあ、俺らは今、どこにいる?」


退屈な授業の最中。

教壇の向こうの霧崎は、突然そう言った。

こちらを向き、黒板にもたれる。

暫くの沈黙の後、誰かが答えた。


「学校?」

「ん、もっと大きな視点で頼む」

「物理的な話ですか」

「そうだな」

「はーいせんせー」

「矢野さん、どうぞ」

「陸の上」

「まあ、確かに」



この教師は何故こんな問いを生徒に投げ掛け、そしてどんな答えを求めているのか。

そんな事は知らないが、少なくともさっきまでの授業程つまらなくはなかった。

「御鏡君、君はどう答える?」

「太陽系第3惑星、地球……で、どうでしょうか」

「ああ、そうだ。

此処は地球、蒼い惑星。

じゃ、その先。

あの広い青空の向こうには何がある?」

「先生、雨降ってます」

「んな細かい事気にすんな」

深花は軽く笑い、答える。

「そうですね……宇宙?」

「その通りだな」



霧崎は丸を書き、その中に地球、外に宇宙と添えた。

「さて、この中に宇宙に行った事の有るものや、地球を外から見たことの有るものはいるか?」

再び沈黙。

「まあ、だろうな。

だが不思議な話だと思わないか?

誰も見たことが無いものを、誰もが信じている」

宗教の話か?



「誰もが、という訳じゃないでしょう?

宇宙飛行士とか、そういう関係の人とか」

「だが、彼等の言うことは本当なのだろうか」

「多くの写真や動画が」

「嘘かもしれないなあ」

「どうして嘘を吐くんです」

「どうしてなんだろうなあ」

「陰謀論ですか」

「そうなのかなあ」

気概のあるモブだな。

哀れ。



「まあ無いって言ってる訳じゃなくてだな、

どうして有るって言い切れるのか、って話なんだ。

有る可能性が有るのなら、無い可能性も有る」

「……疑ってたらキリがないんじゃ」

「そうなんだよ。

信仰しておかないと、何も成り行かなくなるんだ。

だがしかし、科学は宗教ではない」

科学教乙、という囁きがどこかから聞こえる。



「宇宙の話に限らない。

事実真実は必ずしも、常識とイコールじゃない。

いや、或いは………真実なんて存在しないのかもしれない。

ただ主観があるだけなのかもしれないな。


どちらにせよ、信じきる事ほど愚かな事はない。

可能性という言葉は常に、0でもなく、1でもなく、その間の全てを示す。

世界に絶対が有るとしたらそれは、絶対など無いということだけなんだ」



霧崎は何を思っているのか。

「俺は宇宙なんてないと君達に主張したいんじゃない。

それと、宇宙はないかもしれないと主張したい訳じゃない」

だろうな。

「思考や思索を続けていて欲しいんだよ。

君達にね。

教育者ってよりは、この世界の住人として。

その眼で見たものすら事実とは限らん。

聞いた話なら尚更だ」

暫く黙し、そして顔を上げる。

「疑え。

常識は時に真実じゃない。

考えろ。

幸福な愚者で居たくないのなら。

止まるな。

そしてヒトは……」



チャイムが鳴った。

時計を見ると、長針は真下を示している。

狙い済ましたかの様なタイミングだった。

「……ん、時間だな。

俺は戻る」

おい、最後まで言えよ。

拍子抜けだ。



「こほん」

わざとらしい咳払い。

すると、何故かこちらに視線を向けてきた。



「………あ、大神、おま、じゃない君は宿題を出していなかったねいや全くよくないなけしからん」

突然何を言い出すんだ。

それも酷い棒読みで。

全く意味が分からない。



「先生、宿題なんてありましたっけ」

「え………?……あ、あったあったあったんだよこの前お前が休んでた時に」

「僕無遅刻無欠席なんですけど」



周囲から笑い声が聞こえている。

「あーよくないよくないよくないなーこういうの、宿題はきちんとしないといけないぞ大神ー

という訳で放課後俺の所に来たまえ以上」

逃げやがった。

……何なんだ、一体。

呼び出したいなら呼び出せばいい。

あの三文芝居に何の意義があるのか。

そのまま霧崎は教室を出ていってしまった。

深花の方を見ると、腹を抱えて笑っていた。

それも酷く楽しそうに。

「宿題はきちんとね、大神くん?」

「……ああ、そうするよ」



覚えとけよ。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



10月6日午後3時47分 58



「失礼します」



「おう、来たか」



放課後、職員室。

さっさと帰りたいのだが、あの態度が気にならない訳じゃない。

俺に返事をすると、霧崎は持っていた書類を机に置く。

良く見ると落書がなされていた。

扉を閉めようとすると、

「いや、いい。

出るからな」

そう言って職員室を出た。



「どこに行くんです?」

「そうだなあ、どこにするかね」

…………

「そうだ、屋上にしよう」

「鍵は?」

「へ?」

「施錠されてて基本入れない様になってたと思うんですよ」

「……ま、どうにかなるだろ」

ならないだろ。

そのまま暫く廊下を歩いた。



途中、管楽器らしき音色が耳を通る。

素晴らしい訳でも聞けない訳でも無い。

ただBGMとしては音量が大きすぎた。

「そういえばお前、何か部活は入ってるのか」

「無所属です」

「ん、だろうな。

ウチの天文部に来てみないか」

「天文部?」

「ああ、顧問なんだ」

そういえば、そんな部活も有っただろうか。

部長と顧問しかいないらしいが。

「空は良いぞ。

広くて、深い。

それに光は美しい」

「宇宙を否定していた方の発言とは思えませんが」

「否定した訳じゃないさ。

それに本物でも偽物でも綺麗なものは綺麗なんだよ」

そんな話をしながら床を鳴らしていると、少しづつBGMが遠ざかっていく。

何て曲なのかは最後まで分からなかった。

「人の想いは夜空を越えて、ってな」

「ポエムですか」

「そういう曲なのさ。

割と有名だぜ?」

天文部、気が向いたらよろしくな、と言いまた黙って歩き続けた。



鍵を取りに行く訳でもなく、行き先を変える訳でもなく屋上への扉の前に着く。

当然、閉まっていた。

「ピッキングの経験は?」

で、どうするんだよ。

鍵取りに戻るのか?

「ふーっ…………」

「?」

深く息を吸い、指先でドアに軽く触れる。

奴は何をしているのか。

「開け、ゴマ」

するとそれは、軋む音をたてながら開いた。

………そんな馬鹿な。



「…………先生」

「何だ」

目前に、夕陽になりかけの光が溢れる。

何故か、もう少し幼かった頃の感覚がふと甦った。

「今時開けゴマはどうかと」

「そこじゃないと俺は思う」

その中へ歩いていく。

強く、荒い風が止む事無く流れ行く。

「良い風だろ? 少年」

「ええ、ですが」

「?

何だよ?」

振り返る。

扉の近くに誰かいたりはしなかった。

「話をするのには向いてないかと」

「そう、だなあ」



その様子から察するに、本当に意味もなく屋上を選んだ様であった。

「今の手品、タネは教えていただけないんですか?」

「俺のは魔法なんでな。

んなものねーよ」

魔法、ねえ。

ロマンチストなのかリアリストなのか。

まあそんな事はどうでもいい。

「で、何の話なんです。

未提出の宿題なんて有りませんが」

風は強いものの、声はかき消されない。

「理由無く呼びつけるのも気が引けるし、かといってあの場で聞いても正直に言いそうにないからな……

さっきの授業で宇宙が有るとか無いとか話をしただろう」

「はい」

「お前はどう思う、大神」

それを聞きに、俺を呼んだのか。

少し、考える。



「………僕は、この世界の存在自体を疑っています」

答えてから、何故どう答えるか考えていて、答えるか否かは考えなかったのか、それを不思議に思った。

「ほう」

「何もかも、夢や妄想の類い………脳内で完結した幻に過ぎない。

確かに感じられるのは自意識だけ」

「面白い世界観だな。

じゃ俺は、お前の頭ん中のデータって事か」

笑いながらそう言った。

「僕は先生の自我を認識も出来ませんし、証明も出来ません」

「……お前性格悪いってよく言われない?」

「素晴らしい人格者とならよく」

「そうだな………良い性格してるよ、お前」

「褒め言葉と受け取っておきます、それで?」

「なんだ?」

「何故そんな事を?」

思った事をそのまま聞いた。

わざわざ呼び出してまで、何故俺にこんな事を聞いたのか。

霧崎と大した接点は無かったが、時折こうして俺に話し掛けてくる事があった。

気持ち悪い。



「気になったからさ。

お前はどう答えるのか」

「はあ」

「そして結局予想通りだった」

「僕がこう喋るのを予測していた、と?」

「だいたいだがな」

本当だろうか。

だがしかし、そんな嘘を吐く理由もない筈だ。

霧崎は溜息を吐く。

少し、冷えてきた。



「ああ、そう言えば」

「何だ」

「あの言葉の続き、お聞かせ願います?」

「あの言葉……ああ、授業の時の奴か」

「勿体付けて誤魔化されたので気になりまして。

ていうか、何で隠したんです?」

「生徒に自分で考えてもらうための一環………と言いたいんだがね。

何かカッコつけたい気分だったんだよ」

「………」

「黙らないでくれよ」

笑顔を作り、早く教えろと眼で促した。

霧崎は感慨深そうに言葉を発する。



「疑え。

常識は時に真実とは限らない。

考えろ。

幸福な愚者でいたくないのなら。

止まるな。

そしてヒトは醒め、ヒトとなる」

思考こそが人を人たらしめる、という事だろうか。

理解出来る発想だった。

「先生の言葉なんですか?」

「いや、違う。

かつて俺がヒトでなかった時に……世界を構成する一要素でしかなかった時、俺の先生がそう、教えてくれてな…

だから俺は今の俺でいられる」

憂う様な表情で、そういった。

「ある意味でお前に似ていたかもな、あのヒトは」

「?

何がです」



彼女は偽善者だったと、そう言った。

意外な言葉に驚いていると、霧崎もこちらを見て同様の反応をしていた。

「僕は人格者だとさっき………んっ」



いきなり視界を遮られる。

柔らかい感触。

「可愛い声ね?」

振りほどいて後ろを覗くと、深花がそこにいた。

「……いつから」

尾行られたのか?

「先生が昔のひとに黄昏てるところから」

違うらしい。

「覗き見か、良い趣味だな御鏡」

「生徒を偽善者呼ばわりするよりはマシかと」

「そ、そういう意味じゃなくてだな。

全て疑う、ってことさ」

あたふたしながら答えている。

全てを疑う者…………疑全者。

世界の存在すら信じられないのだから、ある意味そうなのか。



「しかし、何でここがわかって、ここに来たんだ」

「先生はこの場所がお好きでしょうと思いまして」

「俺は馬鹿でも煙でもないんだが」

「そんな謙遜なさらないで下さい」

「してねーよ」

「それは良かったです。

私の大神くんが心配だったので、先生が彼を拐かしてるであろう、屋上へ保護しに来たんですよ」

「………おい大神、どうにかしろ、お前の所有者なんだろ」

「御冗談を、先生」

あの日から暫く経つが、未だ深花の言動は読めない。

それが冗談なのか、本気なのか。

「それで、話は終わったんですか?」

「ん……そうだな」

さっきの解答で満足したのか、そう答える。


「じゃ帰りましょう?大神くん」

「あ、ごめん、教室に用があって」

そう言って直ぐ、この場所では着いてくると言う可能性を思い付いた。

選択を間違えただろうか。

彼女はじっとこちらを見つめている……気がする。


「そう、じゃまたね」

スカートを翻し、闇の方へと降りていった。

「青春だねえ、良いじゃないか」

「そうですかね」

「一緒に帰るのが恥ずかしいからって嘘まで吐くなんて。

実に青春じゃないか、なあ大神?」

「……そうですかね」

そういえば、彼女の仮面。

それは霧崎も認識できていないのだろうか。

さっきさらっと行われた鍵開け。

あれが本当に何の仕掛けもない、……つまり超自然的な力なら。

そんな力を持つ人間なら、正しく認識が出来るのではないか。

そんな馬鹿らしい考えが浮かぶ。



「先生」

「何だ」

「先生には見えてるんですか、あれ」

「あれ?……ああ」

霧崎は左手で髪をがしがしとかき上げながら考えている。

「ま、心配するこたないと思うぜ」

「?」

「御鏡もお前もよく似てるよ。

何、あれに悪意は無いさ。

むしろお前が彼女を心配してやれ」

「彼女を……?」

反芻するが、意図までは分からない。

何故そんな事がこいつに解るのか。

心配とは、何に対してなのか。



「何せ「彼女」だ、心配してやんなきゃな?」

「余計なお世話です」

夕陽は少しずつ沈んでいく。

空の青は緑を混じらせながら、薄く黒ずんでいた。

近付く闇を後にする。

「じゃ、失礼します」

「おう。

正直に答えてくれてありが………」



霧崎の声が途切れる。

振り返ると、酷く驚いたような様子だった。



「お前………どうしたんだよ、それ」

こちらを指差してくるが、何か分からない。

「どうかしましたか?」

「その羽だよ」


言われて首を傾けると、後ろから光の帯のようなものが伸びていた。

俺の背中から、伸びていた。

水色の翼。

見惚れる程に美しかった。

光は拡大し続けている。

「な、」

「まさか………」

いつから?

何故?

何だ?


「修正される………覚えていられるのか、俺は。

いや修♀なのか?

世界@思以qの理由のー=?

だとすればそΩはなgだ」


何だ、これは。

怖い。

嫌だ。

助けて。

翼は大きく広がり、そして俺を包むように内側へ曲がっていく。

神々しい光の奔流。

羽の外も内も呑まれていく。

暖かい心地好さが気持ち悪い。

来るな、やめろ

少しづつ狭まる隙間から手を伸ばす。


「大神くんっ」


…………深花!


でももうだめだ、間に合わない。

伸ばした手が深花に掴まれる事は無く、全て呑まれる。

意識が途切れる。


最後に見えたのは、光に仮面を融かされた、深花の素顔だった。



「……………」


次はどこからにしよう。

取り敢えずここへ来るのは避けなければならないだろう。

………直ぐにそう思えてしまう自分へ、恐怖を覚えることすら無くなってしまった。

目の前の悲しいはずのことに、涙すら流れない。

最初の方は止まらなかったのに。

だけど諦める気にもならない。

機械の様に、同じ事を続ける。

素直になることすらやめて。

酷く空しい。


………ああ。

自己憐憫に浸るのはもうやめるって、決めたはずなんだけどな。


「…………大神?……大神っ!」

霧崎先生。

立ち上がって彼を探している。

この人も「名無し」のはずだったが、どうも少し事情が違う。


「先生も分かっているでしょう?」

「………御鏡か。

分かりたくもないさ、こんな事」

見ると、先生は泣いていた。

零れる雫を見て、羨ましく思った。



「では、失礼しますね。

彼が待ってますから」

懐から取り出す。

「な、お前それ………まさか。

………ああくっそ!

どうしてこう、何にもできねーんだよ俺は!」

不思議な人だが、今は構っている暇はない。



………忘れてしまわないうちに。

「………俺も翔ばせないのか、それ」

「申し訳有りませんが、1人乗りでして。

お気持ちだけ頂いておきます」

「そうか。

……………いや、やめよう。

今更教師面しても仕方ねえな。

負けんなよ」

負けるはずがない。

負けるわけにはいかない。

だから、もう一度。

「…………………っ!

行っけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

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