幻影四肢は暗黙知によって
芽衣がナユタを生かす機械を操作する端末から手を離し、モニターから目を離して私の方を向く。
「とりあえず峠は越えたわ。もうすぐ脳波の反応も戻るはずよ」
「ナユタに何があった? まだお前の言っていた余命には程遠いと思うが」
芽衣はため息交じりに語り始める。
「脳に負荷がかかりすぎたのね。私たちが考えていた以上に、人間の体以外の物を脳で直接操作するのは難しいみたい」
「ナユタが接続されているデバイスの、ユーザーインターフェースに問題があるのか?」
ナユタの配信を止めてしまったのが私の責任という可能性に思い至り、罪悪感が胸を刺す。ナユタが残された時間でやりたい『誰かに覚えていてもらう』為の活動が、私の作ったシステムのせいで阻害されたのならば、早急に対策を練らなければならない。
しかし、私の言葉を聞いた芽衣は噴き出して笑う。
「そう貴方が考えてしまうのは、貴方が工学畑の人間だからかしら。それとも、ナユタちゃんの事に責任を感じているから?」
「茶化すな」
私は芽衣のお道化た様子が癇に障り、思わず強い口調と共に睨みつけてしまう。
「怖いわね。でも安心して頂戴。貴方にはどうしようもない話よ。これは現象学的身体論の話になって来るわ。人間は体を動かすことに何の抵抗も無いように思われがちだけど、そうじゃない。脳では様々な処理をして、体を制御しているわ。それが手足や体を使って、外部の物を動かそうと考えると、人間の体を動かす以上の処理が必要になる。ましてや初めて使う物ならなおさらね。たとえば、蓮は自転車に乗れる?」
「……馬鹿にしているのか? いくら運動音痴な私でも、それぐらいはできる。」
「練習した時って、大変じゃなかった?」
「ん? ああ、まぁ」
記憶の片隅から湧き出たのは、幼稚園だか小学生低学年だかの私の姿だった。父親が工具で補助輪を取り外し、体を支えてもらいながら練習した記憶だ。父親が手を離すと、私はすぐに転んでしまい、中々上達しなかった。
それでも何とか自転車に乗れるようになった私は、ナユタが成長した時に同じことをしていた。
年上の私はナユタの兄のように振る舞っていた。幼いナユタの為に、父親の工具入れを持ち出し見様見真似で補助輪を外し、彼女の体を支えながらバランスを取るコツを伝授した。ナユタも決して飲み込みの早い方ではなく、私が手を離すと何度も転んだ。
『お願い。手を離さないで!』
そう何度も懇願されたが、それではいつまでも自転車に乗れないと宥めながら、練習に明け暮れた。
そうしてナユタが傷だらけになって帰った日には、子供だけで自転車の練習をしていた事を親に叱られたものだ。
「何で自転車の話で神妙な顔になるのよ。何か思い出でもあるの?」
「い、いや。何でもない」
「ふーん。話を戻すわね。人間の手足を使って新しい物を動かそうと考えると、脳に負荷がかかる。じゃあ例えば、貴方の脳を取り出して私の体に移し替えたとして、その状態で自転車に乗れる自信はある?」
「……難しいかもしれないな。体重や体型が違えば、バランスのとり方が変わる。もしかすると、いい歳の大人が補助輪を付けるところからやりなす事に成るかもしれない」
「あら、私は自転車に乗った事が無いから、どちらにせよ補助輪開始よ」
私は背の粟立つ例えに皮肉で返すも見事に避けられる。
「つまりお前が言いたいのは、慣れない機械を脳だけで扱うのは初めて自転車に乗るようなものだって事か?」
「あくまで例えよ。実際にはその何百倍もの負荷がかかってたの」
「解決方法は?」
「慣れてもらうしかないわね。人間は体を動かす方法を説明は出来ないでしょ? 経験に基づき習得する知識を暗黙知というのだけれど、これに頼るほか無いわ」
よく体育会系の人間が指導の際に「百回やればできるようになる」と言う。私は指導を放棄した唾棄すべき言葉だと思っていたが、その暗黙知とやらに叩きこむには合理的な言葉なのかもしれないと、妙なところで納得する。
「……俺にできる事は?」
「そうね。体の動かす動作が少しでも楽な出力方法になれば、脳の負荷が楽になるんじゃないかしら。要は補助輪ね。実験の目的は補助輪なしで自転車に乗る事じゃない。補助輪を付けようが体を支えられながらだろうが、前に進めればそれでいい。けれども、何が補助輪の代わりになるのかを私たちは知らない。だから、それを探る為にもナユタちゃんとよく話す事じゃないかしら? 以前の貴方がどうだったのかは知らないけれど、傍目には貴方がナユタちゃんに引き目を感じているように見えるわ」
芽衣の言葉に私はドキリとする。確かにナユタとの会話で悩んでいたのは事実だが、それを見抜かれていたというのは意外だった。
「お前って意外と人の事を見ているんだな」
「昔取った杵柄ってやつよ。脳の仕組みを理解する過程で、心理学も少しだけかじったから」
そんな会話をしていると、ナユタのバイタルが安定した値へと回復する。
「回復したみたいね。前に戻れとは言わないけれど、きちんと彼女と話せるように、雑談あたりから慣れるようにして頂戴」
「ああ……」
モニターにナユタのモデリング姿が映し出される。
私はこの姿のナユタとストレスを感じずに対話する為に、後どれだけの暗黙知を得れば良いのだろうか。
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