初夏色ブルーノート
編網のに
初夏色ブルーノート
からん、ころん、と氷がグラスのなかで転がる。歪んだ水面に映る私の顔は、歪んでもなお美しい。生まれてからこの方17年間、私は自分の顔面の美しさに絶対の自信を持っていた。とんでもないナルシストだと勘違いされたら困るので補足しておくけれど、別にこれは私だけがそう思っているわけではなく、他人からもまず間違いなく美人だと言われるのだから、そこはひとまず受け入れてほしい。
美人だからといって、悩みがないわけではない。いや、それどころか私は目下、人生最大の問題に直面しているといっても良いだろう。問題はすべて、この古臭い音楽を流す地味なカフェのせいだ。もっと正確に言えば、クマのような巨体を揺らすこの店のオーナーが原因だ。一週間前、偶然この店の前を通りかかって発見した私の運命の人である。
氷水のグラスの表面を伝う水滴をただ目で追っていると、注文票をもった女性店員がやってきて、にこにこと私の顔を覗き込む。
「たいへんおまたせいたしました。ご注文お決まりですか?」
私の鋭い視線に気づいていないのか、わかっていても大人の余裕で受け流しているのかはわからない。
「アイスコーヒーで」
別にコーヒーが好きなわけではない。メニュー内で一番安いのがアイスコーヒーだから、飲みたくもない黒くて苦い液体を頼んでいるのだ。
「はい、アイスコーヒーおひとつですね。少々お待ちくださいね」
彼女は愛嬌たっぷりの笑顔を振りまきキッチンの方に戻っていく。私はその後ろ姿を親の仇であるかのように睨みつけた。そうせずにはいられないのだ。しかし、私の持てるありったけの敵意も、その背中には届かない。もう七日も連続でこの女子高生にまるで似つかわしくないカフェに通いつめ、店で一番安いアイスコーヒーで2時間も粘り続ける私の事を、彼女はいったいどう思っているのだろうか。
「絶対私の方が可愛い」
こんな私の呟きだって、もちろん届くはずもない。
キッチンの奥から、地鳴りのような店主の太くて低い声と彼女の笑い声が聞こえてくる。彼らの仲睦まじい様子は、私をさらにいらだたせた。私の恋敵はとてつもない強敵だ。なにしろ彼女はすでに、私の運命の人と結婚し、二人の念願の夢だったこじんまりとしたカフェまでオープンしてしまっているのだ。彼我の差は絶対的である。私が運命の人であるクマさん(店主の名前すら私は知らないので、見た目から勝手にそう名付けた)を知ったのはついこの間なのである。
しかし、たとえ結婚していようが、店を立ててしまっていようが、運命の人なのである。
別に見た目が好きなわけではない。どちらかといえば、顔も喋りもうるさいし、でかいし、毛むくじゃらだしで、線の細い感じが好みの私にとっては苦手なタイプである。カフェに流れている聞いたこともない古臭い音楽から想像するに、おそらく音楽の趣味もあまり合わない気がする。しかし、聞いたこともないはずのその音楽たちは妙に私をざわつかせるし、私の好みからまるで外れているクマさんを視線で追いかけるとき、私の身体の奥に、今まで存在していることも知らなかった衝動があることを確かめるのだ。
私は恋を知らない。私に恋をした人は何人も知っているけれど、誰一人それを私に分け与えてはくれなかった。誰にも私は執着できなかった。その人を知りたい、その人を私のものにしたい、手放したくないという衝動がまるで無かった。クマさんは、そういうものなのだろう、と半ば諦めていた私を、たった一目で飢えた獣に変貌させてしまった。別に劇的な出会いがあったわけでもない。本当に、ただ前髪を確認しようとふと覗き込んだお店のガラス扉の奥に、クマさんが座っていただけなのだ。それだけで私は確信した。この人は、他の人とは違う。
何度も考え直し、眠れぬ夜を過ごし、それでも自分の身に何が起きているのかまったく分からないから、こうして毎日通い続けているのだ。
女性店員もとい、クマさんの奥さんがアイスコーヒーを持って向かってくる。私はどうしてもこの人を威嚇せずにはいられない。どこからどう見ても優しそうな、善性の塊のようなこの人は、それでも私の運命の人を奪った悪女だ。
アイスコーヒーにミルクを流しこむ。一瞬だけの模様が次々浮かんでは消えていく。ちょうど店の音楽が切り替わった。といっても、系統はいつも通り変わらない。こういう旋律、なんというのだろう。ブルース、だっけ。どこか昔で聞いたことがある気がするけれど、思い出せない。胸騒ぎがする。
ミルクが完全に混ざってカップを持ち上げた瞬間、音楽がサビに突入した。
初めて聞く曲だとは思っていたが、サビのメロディが鼓膜を打った瞬間、ガシャン、と何かが音を立てて、世界が切り替わった。
二人を乗せた小舟は、夕陽の色に浮かんでいる。私は目の前の青年の姿に驚いた。私に瓜二つの中性的な美しい青年だったからだ。違うのは髪が短いところだろうか。けれど、私は直感していた。この人が、クマさんだ。見た目は全然違うけれど、確かにそうなのだ。間違いない、この衝動を私に与えてくれるのは、世界に一人しかいなかったのだから。
あの船の上でも、この曲が流れていた。彼が大好きだった旋律。私の大好きだった彼の、大好きだった音。
「アキ、キスしたい」
甘い甘い声と、熱い瞳で、私の脳は溶けた。そうだ、私はあのころ、明子という名だった。彼の名前は智明。アキ、という音がかぶってしまうのに、彼が私の事をそう呼ぶから、私は彼をトモくんと呼んだ。
二人は互いを見つめあいながら唇を重ねた。永遠に続いてもいい、そう思っていたキスは不意に途切れた。
大きな波が小さな舟を包み込んで、海の底に沈めた。
私たちは手を離さなかった。暗い海の底に落ちて行きながらも、絶対に離さなかった。私たちは死ぬ。不幸にも。けれどあなたと一緒に死ぬのなら、悪くはない。
最後にトモくんはもう一度キスをした。一つ前のキスとは違った。船の上で、私の奥に潜む熱を追いかけ舌を這わせた彼は、今際の際に、今度は彼のすべてを私に差し出した。
彼は惜しみなく、私に最後の呼吸をくれた。そして力尽きた彼の手を、最後まで握り続けられなかったのは私だった。彼を裏切ったのは、私だ。
冷たい液体が太ももを垂れていく感覚が、私を現実に引き戻した。船も海も消えている。もとの小さくて地味なあのカフェだ。私は一口も飲んでいないアイスコーヒーのカップを、自分の身体に見事にぶちまけてしまっていた。
クマさんと奥さんが、両手にナプキンを持って慌ててこちらにかけてくる。大丈夫かい、大地を揺らすような野太い声、違う、違うよ、トモ君の声はもっとやさしかった。だけど間違いない。この人はトモ君の生まれ変わりだ。私の前世の運命の人だ。
涙があふれて、視界がぼやける。そんな歪んだ世界でも、クマさんはやはり、トモ君とは似ても似つかない。そうだよね、当たり前だよ。生まれ変わったんだもん。別人なんだもん。
あの海中でのキスで、トモ君がくれたのは酸素だけじゃなかった。彼はその命を燃やし尽くして、私に全部を注いだ。そうして自分を燃やし尽くした彼は今度は前とは正反対の別人に生まれ変わったのだ。
彼のすべてを与えられて、それなのにその手を繋いでいられなかった私は、完全に燃え尽きないまま生まれ変わったから、美しかった彼の面影を自分の身体に残しているんだ。
クマさんは泣きじゃくる私をみて、おろおろと慌てるばかりだ。逆におっとりしていそうだった奥さんはてきぱきと動いて、私が作ったこげ茶色の水たまりはあっという間に片付いていた。
私を慰めようとして、口をぱくぱくさせるクマさんを見上げる。
ごめんなさい、私、あなたに与えられてばかりだったね。
私も贈りたかった、捧げたかった、全部燃やし尽くして、ほんの数秒、あなたの温もりになれるだけでよかったのにな。
片づけを終えた奥さんが、ようやく泣き止んだ私に声をかける。
「スカート、色が濃いからとりあえず目立たなそうで良かったね」
「何から何までごめんなさい、カップも割っちゃったし」
「いいのいいの、あんなの山ほどあるんだから」
奥さんはぐっと顔を近づけて私の眼を見つめた。
「あなたみたいに若くて綺麗な子だもん、きっと苦しくてどうしようもなくて泣きだしちゃうとき、あるわよ」
そういって去っていく後ろ姿に、もう憎しみを抱くことはできなくなっていた。
トモ君は生まれ変わってトモ君でなくなり、私を忘れ幸せになった。素敵な人とめぐり逢い、愛し合えたのだ。
店の中から、ガラス扉に映る自分の姿を見る。やっぱりトモ君に似ている。けれど。
「絶対私の方が可愛い」
鏡の世界の私が笑った。
お会計を済ませて店を出る。私はいい女だから、未練がましく振り返ったりしない。もう二度と、この店を訪ねることもないだろう。
ばいばい、トモ君
私の運命の人は、もう死んだ。
初夏色ブルーノート 編網のに @sakuya39
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