第26話 噂 前編

「えっ?」


 田辺は瀬田の言葉に一瞬、耳を疑った。


「不正の証拠を柏木さんがあるところに隠してあるといった噂が出ているようです」


 ご存知ないですかと言ってきた。


「不正の証拠ですか」


 先週終わったイベントの途中から柏木の噂が出ているのは知っていた。それは菅田や鍋島が仕組んだことだからだ。ただ田辺は内心、噂がどのように伝わっているのか心配になっていた。あまりにもピンポイントでやり過ぎのような気がした。

 あいつら絶対楽しんでやっているだろうと心の中で叫んだ。


「そうです。不正の証拠は副支配人にも以前お見せしましたが、すべて私の手元にあります。それなのにどうしてこんな噂が出てくるのかと」

「確かにそうですね。しかし、総支配人がお持ちの物以外で何かあるのではないですか」


 田辺はカマをかけてみた。瀬田は田辺をみる。瀬田はどうするつもりだろうか。


「持っている物以外では別館の宿泊記録だけです。あれはホテルにないと色々都合が悪いのでそのままにしてあります。先日確認しましたが、そこにも不正の証拠はありました」


 田辺はまさかそこを言ってくるとは思っていなかったので少し驚いたが、瀬田には別の意味でとらえられたようだ。


「別館の宿泊記録にも不正が残っていたのですね」


 瀬田が先日、田辺たちに秘密で別館を訪れて何かを調べていたことを、田辺としてはどうしてあの後すぐにそのことを言ってこなかったのか気にはなっていた。


「残っていたのが不思議ですか」

「不正をしたのなら、隠すのではないかと思っただけです」

「領収書に顧客のサインがありませんでした。副支配人はその意味をお分かりでしょか」

「確か、領収書を確認してサインをもらっていると聞いたことがあります」

「そうです。それがありませんでした。柏木さんは不正を隠すためにその書類を偽装したのだと思います」

「偽装ですか」


 田辺は瀬田の言っていることがよくわからなかった。


「領収書にサインがあるものとないものがあればすぐに見つかってしまいますから、すべての顧客の領収書にサインのないものにすり替えたのです」


 なるほど、その考えで柏木が偽装したことにしたいのかと思った。


「いつ、すり替えたのでしょうか」


 さりげなく、瀬田の言い分の粗を探そうとする。


「それは今調べています」

「そうでしたか。それなら、噂はその事ではないのですか」

「そうかも知れませんが、別の何かがあるのかもしれません。そう思って、副支配人にお聞きしようと」

「何を、ですか」

「柏木さんが大切な何かを隠すとしたら、どこだと思いますか」


 今度は瀬田がカマをかけてきた。上手く乗せられている振りをしながら答える。


「柏木さんが隠すような所と言っても、思い当たる場所がありません」

「そうでしたか」


 瀬田はあまり気に留めていない様子で答える。


「従業員には柏木さんの噂をしないように伝えておいてください」

「分かりました」


 瀬田は目的を済ませたのか、そのまま帰って行った。田辺は部屋に戻り、窓から瀬田が帰って行くのを確認した。

 別館の宿泊記録のことは、いずれ分かることだ。

 瀬田は柏木が不正を隠すためだと言って先手を打ってきたのだろう。まさか、本物を田辺が持っているとも知らずに。しかし、偽の宿泊記録を作成したのは誰なのか、いまだに分かっていない。

 瀬田なら、宿泊記録を証拠として持っていても不思議ではないが、瀬田は持っていなかった。どうしてなのか。それに、わざわざ、宿泊記録を調べにくる必要もなかっただろう。

 もしかして、柏木が宿泊記録を持ち出していたのを知らなかったのか。田辺はゆっくり息をする。

 瀬田はもう一つの噂を言ってこなかったのが気になった。瀬田にとってもう一つの噂は気になる内容ではなかったと言うことだろうか。

 田辺は動きやすい服装に着替えて、噂の場所へと向かう。目的の場所に着いた田辺は周囲を見渡した。まだ、誰も来ていないようだ。

 別館の裏手にある物置として使用している倉庫だ。普段ここに来るものはほとんどいないのと、ここの鍵は柏木しか持っていなかったのだ。噂はここだと思わせるような内容で広めていた。

 本当はこんなことをしなくても、今西がいくつかのカメラを仕掛けてくれているので、後で確認することが出来るのだが、田辺は落ち着かなくて、見に来てしまった。

 その時後ろから足音がした。振り返ると菅田がやって来た。菅田も私服に着替えてきていた。


「来なくていいと言ったはずだ」


 田辺は菅田にはこれ以上関わってほしくなかった。何があるか分からないからだ。下手をしたら命にかかわる。


「どうしてですか」

「危険だからだ」

「それなら副支配人も同じではないですか」

「菅田は帰れ」


 菅田と言い争いをしているうちに、遠くから声がしたと思ったら数人がやって来た。田辺と菅田は傍の茂みに身を潜めた。


「ここに不正の証拠が隠されているのか」一人が言うと、別の人物が「噂だとここのはずだが」と言って目の前の倉庫を指さす。

 最初に話していた人物は、傍にある倉庫の扉に手をかけた。が、鍵がかかっていて開かなかった。


「開かないぞ」


 扉を開けようとした人物が言うと傍にいた者が「やっぱり、ただの噂だろう」と言った。一緒に来ていた何人かは「帰ろう」と声を掛け合って、立ち去ろうとする。それを追いかけるように扉を開けようとした人物も帰って行った。


「アイツら。何しているのだ」

「冷やかしでしょうか」


 田辺はやって来た者たちの後姿を見ながら呟く。誰がいたかしっかりと名前と顔を頭に刻む。菅田も少し呆れ顔で言う。


「今のうちに帰れ。早く」


 田辺が菅田の背中を押し帰るように促すが、また、誰かがくる気配がして二人は再度、茂みに隠れた。暫くして足音と共に暗がりの中に人影が見えた。田辺と菅田は息を潜めてその人物が誰なのか見ていた。


 倉庫の前まで来ると、その人物の姿がはっきりと見えた。響子だった。

田辺と菅田はそれをみて驚いたが、それよりももっと驚いたのは響子がその後に取った行動だった。

 響子はポケットから何やら取り出して、倉庫の扉に差し込んで、扉を開ける。響子は中に入って行く。暫くして中から出てきて鍵をかける響子を田辺と菅田は待ち伏せた。


「どういうことだ」


 田辺が聞くと、響子は無言で立ち去ろうとする。田辺はその腕をつかんで引き留めた。


「鍵を持っている理由を聞かせてもらいたい」


 田辺が再度、響子に問いかける。


「誰か来ます」


 菅田が少し離れたところから走ってくる。


「こっちへ」


 田辺は響子の腕をつかんで先程まで隠れていた場所へ連れて行く。菅田も田辺の隣に隠れた。

 現れたのは、渡辺智子だった。渡辺は倉庫の前まで来ると扉を開けようとしたが、鍵がかかっているのに気づく。渡辺は傍にあった石を拾い上げた時、遠くで声が聞こえてきた。渡辺は慌ててその場を離れていく。田辺はすぐにでも出て行きたい衝動に駆られたが、それを押しとどめた。

 田辺たちは渡辺がいなくなった後も暫くそのまま様子をみていたが、それ以上誰か来ることもなかったので執務室へ戻ることにした。


「聞きたいことがある」


 田辺は響子にそう言うと、響子はあきらめた様子で頷く。三人はそのまま副支配人室へと向かった。

 副支配人室の入ると、響子と菅田が並んでソファーに座り、その向かい側に田辺が座った。


「あそこの鍵は柏木さんが持っていたはずだが」


 田辺の問いに響子は静かに答える。


「以前、借りていたのを返しそびれたの」

「どうしてあの場所に行った?」

「柏木さんが別館の宿泊記録を見ていたのは知っていたから、不正の証拠が隠されていると思ったの」


 田辺は菅田を見る。菅田は眉をひそめた。


「帰っていい。このことは誰にも言わないように」


 田辺は響子にこれ以上話すことを止めた。響子が帰って行った後、菅田に再度いう。


「これ以上、関わるな」

「ですが」

「だめだ」


 田辺は菅田の希望を聞きいれることはない。


「副支配人だけでは何かあったときどうするのですか」

「一人ではない。鍋島さんに協力してもらう」

「どうして、私がダメで鍋島さんがいいのですか」


 菅田は納得いかない様子だ。それでもこれ以上、菅田を巻き込むのは良くないと鍋島と話していた。

 菅田は何を言っても田辺が聞きいれることはないと分かったようで、諦めて帰って行った。

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