第17話 残されたもの 後編
翌朝、田辺は着替えてから社員食堂の横にある売店で朝食用にサンドイッチと缶コーヒーを買って部屋に戻る途中、夜勤明けの響子に会った。
俯きながら歩く響子に昨夜のことを思い出す。松川の意図がはっきりしないが、これ以上悪化させないためにも気をつけておかないといけない。
「おつかれ」
声をかけられて始めて、目の前に田辺がいることに気がついたようだった。
「おつかれさま」
「あの後、大丈夫だったか」
「あの後? 大丈夫。すぐに二人は戻ってきたから」
「二人から何か聞いたか」
「特に何も」
響子は松川が泊まっていることを知らないようだった。多分、別館の二人も響子が別館担当を外されたいきさつを知っているので、話すのを躊躇ったのだろう。田辺も迷ったが言うのを止めた。
「今夜も夜勤か」
「そう。これから帰って、夜、出勤するわ」
少し元気がないように見えた。ただ、疲れているだけなのか、それとも何か訳があるのか。
「また、夜な」
響子は小さく頷き、更衣室へと歩いて行く。それと入れ違いに、菅田がやって来た。
「副支配人。おはようございます」
「おはよう」
菅田は田辺の様子が気になったようで、響子がいた方を見ている。
「何か、ありましたか」
「松川様が深夜、ここに戻られた。暫く夜もここの泊まるとのことだ」
「どうして、また急に」
菅田は少なからず驚いている。振り返り響子がいたほうを見た。菅田の考えていることが分かった。菅田も響子を心配しているのだ。
「響子は知らない。松川様が戻ってきたのは日付が変わった深夜だ。理由は分からないがホテルに泊まりたくなったと言っていたらしい」
菅田は何か考え込んでいた。多分、響子のことをどうするかと悩んでいるのだろう。田辺自身も、こんなことになるとは思っていなかったので、どうするか迷っていた。
「話がある。後で部屋に来てもらえないか」
「分かりました」
菅田はそのまま本館のフロントへ、田辺は自分の執務室へ戻った。
朝食として買ってきたサンドイッチを食べながら今日の予定を確認して、食べ終わるころに菅田がやって来た。
二人でソファーに向かい合わせに座り、響子のことをどうするか菅田に訊いてみた。
「松川様の意図がはっきりしないので何とも言えないのですが、夜勤だと人も少ないですから何かあったとき困るのは確かです」
「そうだな」
「今夜、宇佐美さん本人に訊いてみようと思います」
「響子の希望も聞いてみたい。昼間の勤務を希望した時は菅田、頼む。夜勤は自分が暫く泊まり込むことするから心配ない」
菅田は本当に響子のことを心配している。響子はどう思っているのだろうか。自分と同じ菅田も柏木の共犯と思っているのだとしたら菅田も気を付けないといけないはずだが、菅田はそのことを気にしていなかった。
ふと鍋島が響子の居場所を気にしていたのを思い出す。菅田のことは信じているようだが、響子はそこまで信じることが出来ない存在なのか。そういえばあまり、関りがなかったと思い出した。信用するだけの根拠がないだけか。
例の扉のことや柏木のことを調べるには自由に動き回れる時間が欲しかったのもありホテルに泊まり込むことを少し前から考えていた。
ただ、理由もなく泊まり込むのは不審がられないかと思っていたので、響子を理由に出来るのは好都合だった。
「そうします」
「それから、イベントの事だが」
田辺が話題を変えた直後、ドアがノックされた。こんな時間に誰だと思いながら田辺は返事をする。ドアを開けて入ってきたのは瀬田だった。一瞬緊張が走る。
今日、来る予定だったか?
田辺は一瞬考えを巡らせた。菅田も同様だったようで、視線を少し動かし考えているようだった。
「朝早くに、すみません」
「大丈夫です。何かありましたか」
今度は誰を疑うために来たのか。瀬田の表情を凝視する。相変わらず、目的が分からない。
「お邪魔でしたか」
瀬田はチラリと菅田を見て言う。
「今、イベントのことを話していました」
「そうでしたか。それなら丁度いい。今週中に大まかでいいので企画を出してもらえないでしょうか。社長が早く見たいとおっしゃっていて」
「今週中ですか」
田辺は再度確認する、今日は水曜日だ、今週中と言われてもあと数日しかない。間に合うのか。
「お忙しいとは思いますが、よろしくお願いします」
瀬田は形ばかりの言葉を並べて田辺たちの忙しさを気に求めていないように言う。まただ、瀬田は社長の伝書鳩かといいたくなる。こちらの仕事もまともに手伝いもしないで、総支配人づらか。田辺は大きなため息がでた。
「なにがあったんです」
菅田が心配そうに訊いてくる。しまった。菅田がいることを忘れていた。
「社長から今年のイベントは昨年以上に盛大にするようにと言われた」
「昨年以上ですか」
菅田が顔をしかめながら言う。
「昨年以上。出来るか」
とりあえず、仕事をしないといけない。菅田に確認すると暫く考え込んでいた。
「予約状況を見てみないとはっきりとしたことは言えませんが何とかしてみます」
「頼む。本館のスケジュールに合わせて他も動くように手配する」
「この分だと準備が間に合いませんね。私も泊まり込みですかね」
「いつでもこの部屋を提供するぞ」
菅田が、苦笑いをしながら言う。
「それにしても、今日来る予定でしたか」
「そんな話は聞いていないが」
「そうですよね」
菅田は瀬田が現れたことに疑問に感じているようだった。田辺も昨夜同様、電話ですむことをわざわざホテルまで来て告げる内容だろうかと思う。やはり田辺も疑われているのだろう。瀬田に疑われるような行動はしていないと思うが、誰かが告げ口したら……。
内通者は誰かはっきりさせないと今後の事にも影響する。何とかしなければ、ため息が出た。菅田が心配そうに見ていた。
菅田が本館に戻った後、田辺は総料理長のところへ向かった。そろそろ出勤しているころだ。
イベントのことを話に行くつもりだが、総料理長の考えはどうなのだろうか。本館のスケジュールに合わせると菅田に言ってしまった後で総料理長から無理だと言われたら元も子もない。心配を抱えながら話をするため尋ねたらあっさり承諾してくれた。聞き間違いではないかと二度ほど念を押して確認したので、最後は笑われてしまった。
少し拍子抜けしながらそのまま別館のフロントへ向かうと瀬田がいた。
瀬田は別館の責任者の山本と書類を手に話し込んでいる。まだいたのかと驚くとともに、何かあったのかと気になった。
田辺が近づくと瀬田は書類を山本へ手渡し話を止めた。山本が瀬田から受け取った書類を青いファイルに綴るのを横目で見る。
「こちらでしたか」
田辺は瀬田の行動に疑問を覚えながらも敢えて、聞くことをしなかった。帰ったと思っていたのだが自分の思い違いなのか。
「社長が別館の宿泊状況を気にされていまして、その報告をする為に立ち寄りました」
「昨年とあまり変化はないと思いますが何か懸念事項でもありましたか」
社長が気にしていると言うのはどんなことなのだろうかと思った。
「ここ最近の出来事について、どのような影響が出ているかと言ったところです」
田辺はその言葉を信じることは出来なかった。それに社長は最近ホテルに顔を出さなくなっていた。以前は週一ペースでホテルに来ていたはずだ。いつから来ていないのか、田辺は記憶を探る。柏木のコートが見つかった頃に一度来ていたと思うが、その後見かけていない。
山本が手にしたファイルはここ最近のものではない。それを見て最近の状況を調べに来たといわれても信じることは出来ない。それに別館は殆どの部屋が宿泊客で埋まっている。宿泊状況を気にすると言う言葉は当てはまらない。田辺は記憶の限りを総動員して瀬田の嘘を暴く。だが、それを口にすることはない。瀬田には別の思惑があってここに来ているのは確かだ。それが一体何かを知らなければいけないからだ。
田辺は騙された振りを続ける。瀬田は田辺の様子に気づくことはなく、社長に報告に行くと言い残し帰って行った。
山本は手にしていたファイルをさりげなく隠していた。一瞬見えたタイトルに田辺の心臓は激しく高鳴る。山本が手にしていたファイルは田辺が見たいと思っているファイルだ。どうしてそれがここにあるのか。それよりもそれを悟られないように田辺は山本に確認することが先決だ。
「松川様が夜、急に帰ってこられたそうだが聞いているか」
「聞いています。朝食は木内副料理長が無理を聞いてくれまして、何とか準備出来ました」
「そうか。これから毎日夜はここに泊まることになるのか」
「そうです。昼間はお仕事に出られることもあるようですが、夜はホテルに宿泊されるとのことです」
「何か問題があればすぐ連絡するように」
田辺は山本にそう言って別館を後にする。山本には気づかれていないはずだ。田辺が探していたファイルの場所が分かった。それだけでも収穫だが、それと同時に問題も起きている。
松川だ。自宅に戻ると言ってみたり、急にホテルに泊まると言い出したり、大げさにするなと言っていたと思ったら、解雇しろと言う。一体、松川は何がしたいのか理解に苦しむ。
別館の通路を歩きながらさりげなく壁を見る。
ゆっくり調べることが出来たのは結局、二階と三階だけだ。四階は途中で響子に会って調べることが出来なかったし、五階に至っては松川が帰ってきたことにより調べることすら出来ていない。
夜はこれで調べることが難しくなってくる。しかし、昼間はもっと人の出入りがあるので油断は出来ない。
部屋の戻る途中で四階に寄ってみた。人の出入りがあることは分かるが、少しでも調べることが出来たらと密かな望みで向かった先で田辺はストレスを抱えることになる。
松川がいた。そしてその行動はやはり宿泊客のいない客室のドアを開けようとしていた。既に何度目かの目撃に田辺は隠れることすらしないでそのまま見ていた。
かなり離れていたからか、松川は田辺に気づくことなくドアノブに手をかけていた。その部屋は昨日の午後に宿泊客がチェックアウトして出て行った部屋だ。情報が早いと感じていた。
松川が深夜に戻ってきたのはこれが理由だろうか。松川はドアを開けて部屋に入っていく。
田辺は驚いて後を追いかけた。空いているはずはない。松川が入っていった部屋のドアを開ける。
部屋にいたのは松川とその奥に別館の清掃係の水橋志保が立っていた。
「松川様、この部屋は別の方のご契約されているお部屋になります。勝手に入られては困ります」
田辺はここまでの状況では松川が何を言っても言い逃れが出来ないだろうと踏んで告げる。
「どんな部屋があるか見たかったのよ」
悪びれもしないで松川はいう。本当に不愉快だ。
「先ほども申し上げているように、この部屋を契約されている方がいらっしゃいます。その方の知らないところで関係のないあなたが入ることを快く思わないでしょう。松川様もそうではありませんか」
暗に、松川の部屋に誰か入っていたと言い出していたことを分からせる。
「ああ、そうね。私の部屋にも誰か入った痕跡があったわね」
嫌味で返してくるあたり、流石としか言いようがない。だが、それだけだ。田辺はこの際だからはっきり聞いておこうと思った。
「盗聴器が仕掛けられていたことをどうしてわかったのですか」
「えっ?」
「盗聴器ですよ。あの後、清掃スタッフに確認をしました。部屋の掃除中に突然おかしいと言い出してコンセントを調べだしたと」
その調べたコンセントから盗聴器が出てきたと言っていた。どこに盗聴器があったのか初めから分かっていてやったとしか思えない。先日は瀬田がいたため直接聞くことは叶わなかったが、ここではっきりさせておきたかった。
「あれね、カンよ。カン。よくテレビとかでやっているでしょう。コンセントとかに隠されているって。それだと思ったのよ」
胸の前で両腕を組んで顔を斜め上に傾けながら田辺に視線を合わせようとしない松川を見て、虚偽だと直感した。この分だと書類紛失も松川が仕組んだことだ。
「そうでしたか。私も瀬田さんから松川さんの部屋に隠されていた盗聴器を見せていただいたことがあります。その形をよく覚えていまして。知り合いにそういうことに詳しい者がいましたので聞いたのですが、あの型のものはコンセントに仕組むものではないと言っていました」
「そんなこと知らないわよ。本当にコンセントの中から出てきたんですから!」
もはや逆ギレのように怒鳴りだし、さらには田辺を突き飛ばし部屋を出て行った。
チッ。
思わず舌打ちしてしまった。やはりすべては松川が響子を陥れるつもりで仕組んだことだ。二つの疑問を除いては。その一つはまだこの部屋にある。
「さっき隠したものを出してもらおうか」
いつもより幾分低い声で告げる先は清掃スタッフの水川志保。
水川は以前から別館の清掃スタッフだ。松川の書類紛失や盗聴器の時にいた人物ではなかったので本館への異動を免れていた。
作業服のポケットから出したものはメモ紙と一万円札が数枚。
田辺はそのメモ紙を見て顔が引きつる。メモ紙に書かれていたのは別館の宿泊者の氏名、家族構成、ホテルで見聞きした内容と田辺や菅田、響子などのホテルのスタッフの行動が事細かに書かれていた。
メモ紙を握りつぶす手が白くなる。
「これで何をしようとした!!」
思わず怒鳴り声をあげていた。
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