第10話 記憶

 別館の顧客がチェックアウトすると言うので挨拶の為、フロントへ行くと早苗は部屋まで出迎えに行っていると言われた。


 早苗は別館に来てから人が変わったように生き生きとしている。その反面、元からの性格がそうであったように傲慢さが行動や表情にも表れるようになり思っていた通り周囲からは更に距離を置かれるようになっていた。


 本人は気にする素振りもなかったので田辺も特に何かすることもなかった。証拠はないが響子を陥れて手に入れたその地位だ。田辺としては早苗の肩を持つつもりは一切ない。

 ホテルとしての体面に関わることであれば動くが、早苗自身に関しては関わる気にもなれない。


 田辺は顧客と早苗が来るまでフロントのところで待っていると、別館の宿泊名簿が置かれているのが見えた。

 別の別館担当は顧客の対応をしている。田辺は周囲を見渡し、こちらに気づいていないのを確認してから宿泊名簿に手を伸ばす。

 宿泊名簿には宿泊時の部屋や利用履歴などが記載されている。その中には領収書の控えも綴られていた。


 瀬田が言うにはこの情報を書き換えて過剰に請求していたことになる。本当にそんなことが出来るのか。ここに綴られている物は宿泊中の顧客の分はない。

 宿泊中はパソコンに入力のみで、チェックアウト時に印刷して明細として出す。チェックアウト以前だと、パソコンを見ないと分からない。その点、担当者以外内容を確認することもないので分からなくても仕方がない。


 いつ過剰請求になるようにデータを書き換えたのだろうか。過剰請求していたら、その時の明細や領収書の控えも綴られているはずだ。それは瀬田が持っているのだろう。あれだけのことを言って証拠や証言も取っていると言っていたのだから。ここにはないということか。田辺はため息をついた。

 柏木の不正がどのようにして行われたのかも分からない。それを調べる術もない。ふと、奥の事務所をみる。ここに証拠が隠されているわけはないよな。


 田辺は無意識にまたため息が出ていた。もう一度ファイルを見る。田辺の中でなにかが弾けた。調べる術はあるかもしれない。ファイルの書類をめくりながら記載されている内容を出来る限り記憶する。宿泊名簿を見ているのに気がついた山本弥生が声をかけてきた。


「どうかされましたか?」

「なんでもない」


 田辺はそう言って宿泊名簿を閉じた。山本は不振そうに見ていたがちょうどチェックアウトの顧客が早苗と共にやって来たのでそれ以上追及されることはなかった。

 すべての精算を終えるのを見ていた田辺は確信した。確かめる術を見つけた。田辺は見送りを終えて急いで副支配人室へ戻った。


 デスクの上にあるパソコンで柏木が不正をしたと言われる顧客の情報を出す。

 何人かの情報を見て行くうちに田辺が欲しかった情報がのっていた。そのいくつかの情報を傍にあったメモ紙に書き写す。うまくいけばこれで柏木の疑惑も証明できるのではないかと気が急いた。


 夜、十時過ぎに田辺は調べた情報をメモした紙を持って本館へ向かう。

 本館の三階にある木内副料理長の部屋の前まで来ると周囲を見渡す。誰もいないのを確認してからドアをノックする。これは賭けに近い、そう何度も使えるものではないことは十分理解している。うまくやらなければと思うほど緊張する。


「はい」


 副料理長の木内彰典が出てきた。


「すみません。こんな時間に」

「どうされましたか?」

「お聞きしたいことがありまして。少しいいですか」


 田辺は出来るだけ明るい表情で伝えると部屋に招き入れてくれた。


「もう帰られるところだったのですよね」

「大丈夫です。どうぞ」


 木内は手に鞄とコートを持っていた。危なかった。少し遅ければ間に合わないところだった。

 木内は田辺に座るようにいい、手にしていた鞄とコートをソファーに置き、自分も座る。


「申し訳ございません。今度、顧客情報を纏めようと思いまして、こちらですが」


 田辺は持ってきたメモのうち、顧客名のみのメモをテーブルの上に置いた。


「この方たちは?」

「別館の顧客です」


 木内はメモを手に取ってみている。田辺は木内の様子を観察した。木内が内通者でない保証はない。

 田辺が知りたい情報はこの木内しか持っていないはずだ。木内がどちら側の人間かを知るためにも必要なことだったがかなり危険な行為で何かいい理由はないかと考えていたところ、響子が本館の宿泊客データを纏めているのをみて思いついた言い訳だ。


「この方たちがどうかされましたか?」


 木内はどうしてそんなことを聞いてくるのかと思っているようだ。ここが重要で疑惑を持たれないように情報を引き出さなければいけない。田辺は言葉を選びながら慎重に話す。


「この方たちが宿泊中にレストランで食事をされていると思いますが、詳しい内容を纏めて今後の集客につなげたいと考えていまして」


 田辺は別の嘘の理由を告げる。何か問われた時に言い訳が出来る余地を残して。

 木内はもう一度手にしたメモを見ながら言う。


「少しお待ちください」


 木内はメモをテーブルに置き席を立ち、壁側に設置された本棚の中らかいくつかのファイルを取り出して田辺のところに戻る。


「いつからいつまでのことをおっしゃっているのか分かりませんが、別館の宿泊客のメニューはすべてこちらに記入してあります」


 田辺はそのファイルを受け取り見る。それは別館の顧客の食事のメニューが記載されたものが印刷されて綴られていた。


「これはどういったものですか」


 田辺は慎重に聞く。


「副支配人もご存じのように別館の食事は私が全て管理しています。ホテル内のレストランで出すものもそうですが、宿泊客の要望を聞いて食事を提供することもあります。持病を持っている宿泊客もいますその為、宿泊中の食事は全て把握する必要があります」


 田辺の予想は的中した。別館の宿泊客のことを少しでも分かればと思っていたがこれはかなりの収穫になるのではないかと心が躍る。 田辺は数ページ目を通し書かれている内容を確認する。


「このファイルをお借りできますか」


 田辺が聞くと木内は特に問題ないと言って貸してくれた。木内が内通者なのかはまだ分からないがこれで少しは状況を把握できるのではないかと密かな期待を膨らませた。


 部屋に戻るとすぐにファイルの書かれている内容を顧客と日付ごとに書き写した。その後、不正対象の顧客情報のメモを並べてみる。 田辺はもう一度、不正のあった顧客情報をパソコンで表示させる。

 出てきた情報を見ていくとやはり違和感がある。

 副料理長のファイルをもう一度見ると副料理長の書類は宿泊データの日付と少しずつ違っていた。先程の違和感はこのことだと思った。しかし食事メニューはすべて記載があった。どういうことなのか? 


 副料理長のファイルから分かったことは日付の違う顧客は数十人になり、ただ単に間違えたというには違う気がした。意図的に変えたのか、誰かが変えたのかどちらかだろう。これの意図する理由は何だろうかと考えてみるがさっぱりわからない。

その時、部屋に響子と倉田が書類を抱えてやって来た。響子が別館を外されてから、響子の職場はここになっている。菅田の希望で本館の内勤業務をしてもらっているのだ。


「あっ! まだ、お帰りではなかったのですね」


 倉田が書類をテーブルに置きながら田辺に言う。

 田辺は副料理長から借りたファイルを響子たちに気がつかれないようにデスクの引き出しに入れて鍵をかけ、机の上に並べられたメモは二人に気がつかれないように素早くポケットに入れた。このファイルは何か重要な手掛かりになるような気がしていた。


「ちょっと調べ物があって。それは?」


 倉田が置いた書類に目をやった。田辺は近づいて書類の山を見る。かなりの量があった。


「本館の宿泊客はツアー客も多く、その方たちの名簿の整理をお願いしようと」

「ツアー客の名簿?」

「ツアー客の名簿が今までなかったのでそれを宇佐美さんが作成してくださると言うので、今まで手が回らなかったので、この際、宇佐美さんのお力を借りようと」

「今、私が出来ることをしようと思って」


 田辺が響子を見ると以前より少しだけ笑みが戻っていた。


「響子の専門だから頼もしいな」


 田辺が言うと倉田も期待していますと笑っていた。

 響子が別館担当を外されたときはどうなるかと思っていたが、何とか響子自身も自分の出来ることを見つけて動けるまでになってきたことが田辺は嬉しかった。

 この間、響子が隠れて松川の会話を聞いていたことも気になっていたが、あれから何も起こっていないことは田辺の気にし過ぎなのだろうと思った。


 響子は倉田が本館のフロントへ戻ってから一時間ほど仕事をしてから帰って行った。

 田辺は先程引き出しに入れたファイルを取り出す。もう一度、データと見比べてみる。田辺はデータを操作する手を止めた。やはり宿泊していない日に食事をしていることになっていた、これを確認する術はあるのか考えた。

 田辺はもう一度、木内副料理長のファイルを見る。きっと何かあるはずだ。絶対、柏木を助け出す。


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