第9話 クレーム 後編
部屋に戻ると響子と倉田が心配そうに田辺をみる。田辺は先ほどまで座っていたソファーに腰を下ろす。
「響子が別館担当から外れるのは避けられない。新しい担当は今日、瀬田さんが社長に報告して決まる。早苗はそれまでの暫定と言うことらしい」
瀬田との会話を二人に告げると倉田からは憤りを隠すこともなくソファーの背もたれに体を倒し、握りこぶしをソファーに叩きつけている。
響子は諦めにも似たため息とともに天井を仰いでいる。
田辺は一呼吸おいて二人を見る。
「そう言えば、別館に早苗がいたよな」
田辺は先ほどから気になっていたことを訊く。
「そう言えば……」
「今日の応援は倉田君だけのはず」
倉田は体を起こし、顎に手を当てて思い出しているようだった。
響子も倉田を見て何か思い出そうとしている。
「それに瀬田さんは今日、来ることになっていたのか?」
田辺はもう一つの疑問を聞いた。
「今日は来る予定はなかったはず」
「私も聞いていません」
響子は動揺していて、倉田もどうしてなのか分からないといった様子だった。
「二人はもう少しここに居てくれ」
「どこに行くの」
響子は不安な表情を浮かべて田辺に訊く。
「菅田のところに行ってくる。暫く早苗が別館担当になることを伝えないといけない」
倉田を見ると田辺の考えを理解した様子で頷いた。田辺は安心して部屋を出た。本館に着くと菅田が気づいて急いで近づいてくる。
「大丈夫でしたか」
菅田が心配そうに訊いてくる。田辺は菅田を連れてフロントから離れた場所へと移動した。
「響子は別館を外されることになった。響子の処遇は社長の判断を待つことになったがそれまでは早苗が暫定で別館を担当することになる」
田辺は簡潔に説明する。
「早苗がどうして別館担当になるのですか」
菅田は早苗が別館担当になることに納得できないようで珍しく怒りを露わにしている。当然だと思う。
早苗は自分の気に入らない者を散々虐めてきた。そうすることで自分の立場を守ろうとしていたようだが、会社としてはそんな理由を認める訳にはいかない。
流石に今年に入って早苗の虐めが原因で三人が辞めた時点で柏木が最終通告をしたのだ。
(今度同じようなことがあった場合、早苗を解雇する)
早苗がどう受け止めたのかまでは分からないが、早苗の虐めはなくなった。なくなったように見えて、陰では虐めは続いていたようだ。柏木と田辺は予測出来ていたことだ。
今まで虐めや陰口を散々してきた者がある日突然それを止めることができる訳がないと。だからこそ、柏木は早苗の行動に目を光らせていた。当然そのことは分かっていて、後に揉めることのないように細心の注意を払って早苗の解雇へと準備を進めていた。
菅田も菅田もその経緯を知っているだけに、納得ができないのだろう。だが、今それを言ってもどうにかなるわけではないことは十分すぎるほどわかってきた。それなら自分にできる範囲でこのホテルと従業員を守り、柏木の潔白を証明するしかないのだ。
「瀬田さんが決めたことだ。どうしてかは教えてくれなかったが、さっき別館に早苗がいた。お前知っていたか?」
「そう言えば少し前から姿を見かけていないです。早苗がどうして別館に居たのでしょうか」
「それも分からないのだ、今日は別館の応援は倉田だけだと響子は言っていたが本当か」
「本当です。急に一人休んだと言われまして倉田を出しました」
「そうか」
「今日、瀬田さんが来ることは聞いていたか」
田辺はもう一つの疑問を口にした。
「いえ、今日は来る予定ではないはずです」
やはり瀬田も突然来たということだ。それにしてもタイミングが良すぎる。松川が響子にクレームを言っている時に瀬田がやって来たのか。早苗がいたことも謎だ。
早苗のことだ、何か理由が……。
田辺はあることに気づいた。瀬田のタイミングの良さ、後任に早苗を指名してきたこと。すべては予め仕組まれたことではないかと。それなら松川が言っていたこと、倉田が話したこと、そして響子が知らなかったことすべて納得できる。
「宇佐美さんはどうなるのですか」
「まだ分からない」
田辺は首を振った。
菅田が少し考えてそれならと言ってきた。
「早苗が別館に行くのなら、宇佐美さんを本館に回せないでしょか。人手も足りませんし」
「表には出せないから」
「どういうことでしょうか」
「解雇されるかもしれない」
「どうして!」
菅田には隠せないと思い瀬田に言われたことを話す。
「そこまで言うとは。書類の紛失は間違いではないのですか? レストランの予約も勘違いとか」
「レストランの予約は受けたデータが残っていたが響子は聞いていないと言っている。書類の紛失は分からない」
「分からないって」
「何か行き違いがあったみたいだ」
「その松川様は何か宇佐美さんに恨みでもあるのでしょうか」
菅田のいうことはもっともだと思う。田辺も一瞬考えていたことだ。それにレストランの予約にしても担当以外でも受けたものが予約する手はずだったと記憶している。それなら受けた者が予約し忘れたか、響子に引継ぎをしていなかったのかのどちらかだ。
それなのに一方的に響子のせいにされ、今の状況を作り出している。
松川の恨み以外にもホテル従業員に響子を陥れようとしている者がいる。
「松川様はこのホテルに宿泊されてからまだ二週間ほどだ。その間に、ここまでの恨みを買うだろうか」
「そうですよね。宇佐美さんに限ってそんなことありえませんよ」
「ただ、上の人間はそう思わないだろうな」
「まだ、解雇とは決まったわけではないですよね。それなら、裏方でもいいので本館の仕事を手伝ってもらいましょう。宇佐美さんも気がまぎれるはずです」
菅田は眼鏡の真ん中のフレームを中指で上げながら不敵な笑みを浮かべた。菅田の闘争心に火が付いた証拠だ。この分なら響子のことは菅田に任せてもいいだろ。
「そうだな、後で響子に渡せそうな仕事を部屋に持ってきてくれ」
菅田の言うことはもっともだ。このまま何もしないままだと、響子も気が滅入る。それなら何か仕事をしてもらった方がいい。
「なあ、別館の顧客情報に誰が何を入力したか知る方法はあるか?」
「調べればわかると思いますが。何かありましたか?」
「松川様のレストランの予約はシステムに登録されていたようだ。だが、響子は知らなかった」
田辺がそこまで言うと菅田はフッと鼻で笑う。
「探し当てましょう。宇佐美さんを陥れた人物を」
菅田は響子への仕事をすぐに準備しますと言って、フロントの奥の部屋に入って行く。
田辺の心にも闘争心がわいてきた。今まで柏木が戻るまではと大人しくしていたが、これ以上、状況が悪化する前に手を打たなければと考えた。
田辺は従業員用の通路を歩きながら大きく息を吸った。菅田と話していて疑問が大きくなった。初め瀬田と松川が仕組んで響子を解雇しようとしていたと思ったが瀬田は今回のことは予定外と言っていた。
響子のことは今も不正の疑いがありその証拠を集めていてそれを元に処罰すると。瀬田はどうしてそこまで不正に拘るのだろうか。柏木と同様に解雇させたいのなら今回の件は都合がいいはずだ。それをしないとなると別の理由があるのだろう。
今回のことは松川が個人的にしたことか。でも、なぜか?
菅田が言うように響子が恨みを買ったとは思えない。早苗が仕組んだとしても瀬田が響子の解雇を止めた。それが意味することは何だろうか。
部屋に戻ると、響子と倉田がコーヒーを飲んでいた。
「届いていたか」
田辺が本館に向かう途中で会ったデリバリースタッフに頼んでおいたのだ。
「いただいています」
倉田が心持明るい声で答えた。きっと響子の塞ぎがちな気持ちを気にしているのだろう。
「今、菅田に話してきた。響子には暫くここで本館の仕事を手伝ってもらうことになったから」
「そうしましょう、宇佐美さん。本館は結構忙しいですから」
倉田が響子に言う。
響子が小さく何度も頷いた。しかし、やはり気持ちの整理がついていないからか視線は不安そうに彷徨っている。
「決まりだな」
田辺は少し強引だが、このままでは響子が駄目になる。それなら無理にでも何かをさせておいたほうがいい、それに響子のことは菅田と倉田がしっかりとみてくれると信じている。
「別館の部屋の掃除は担当が決まっていたか?」
「決まっている。別館担当は三人で回しているから」
「分かった」
「何かあったの」
心配そうに訊く響子に「注意するように」言っておかないと。と誤魔化した。
田辺は書類が無くなった経緯や盗聴器のことも調べようと思った。
そこに響子が松川にあそこまで嫌われる理由が分かるかも知れない。居合わせたスタッフもいくら大げさにしたくないと客に言われたからと言って、責任者の響子に報告をしなかったのはどういう理由なのか、その時しっかりと響子に報告をあげていたら今回のことは防げたのではないかと考えていた。
田辺の疑いの目は別館スタッフ全員に向けられることになった。誰が響子を陥れたのか。もう容赦はしない。そう心に誓った。
翌日のお昼過ぎ、瀬田から連絡が入った。
響子はやはり別館担当から外れて田辺が預かることになった。そして別館の新しい担当は早苗になることが決まった。
昨日の夕方、菅田と倉田が響子の仕事を持ってきていた。一通り説明を受けた後、今朝から響子は本館の仕事を手伝っている。
田辺は昨日、響子から聞いた別館の掃除担当に話を聞いてきた。そのうちの一人から、瀬田が言っていた盗聴器の話を聞いた。
「松川様の部屋を掃除していた時に突然、松川様がおかしいとおっしゃって調べていくうちに三つの盗聴器が出てきました」
瀬田が持っていた数と同じだ。しかし、部屋の掃除をしていた時に突然言い出すとは何やらわざと証人を作ったようにも思える。
どうしてすぐに報告しなかったのかと聞くと、松川が大げさにしたくないと言ってきて報告もしないでほしいと頼まれたと言う。
田辺はさすがにそれを許すことはできなかったので、すぐに菅田に言って、本館のスタッフと交代させた。これ以上信用できないものを別館に置いておくことはできない。時期を見てそのスタッフを辞めさせる手筈をとった。
それにしても大げさにしたくないと言っていた人が、解雇しろと言ってくるだろうか。それに盗聴器を仕掛けたのは誰で何のためだろうか。
あの部屋に入れるのはスペアキーを持つ者だけだ。その中にいるのだとしたら限られた人物だ。それとも初めからあの部屋についていたのだろうか。
そういえば、松川は以前、別のフロアーで宿泊客のいない部屋のドアを開けようとしていなかったか?
あの時は不思議に思っただけだが、あの行動に何か理由があったのなら……。
考えることが増えた。一体何なんだと言いたくなる。
数日後、別館で新規の客が来ると言うことで挨拶に行った帰り松川の部屋の前の通路に差し掛かった。
ドアを開けた状態で話しているのは松川と別館担当の渡辺智子だった。しかし、その奥の柱に隠れて、響子の姿が見えた。
田辺は響子が何をやっているのかと思ったが、今出て行くことは良くないと判断して田辺も暫くその場に留まった。
松川と渡辺の話の様子から、響子のことを話しているのが分かった。響子が解雇されていないことで何か言ってくるのではないかと心配していたがそうでもなくあまり気にしていない様子だ。
二人が話し終わり、渡辺が帰って行くのを柱の陰から見届けてから通路へ出る。
先程まで響子がいた場所を見るが、既に姿はなかった。響子は二人の話を聞いて何を思ったのだろう。
その後、副支配人室に戻ると響子は仕事をしていた。田辺はその表情を見てさっき、松川と渡辺が話しているところに居たことを聞きそびれてしまった。
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