第8話 クレーム 前編
「副支配人!」
別館に手伝いに行っていた本館のフロント係、倉田卓也が走ってきた。
本館のフロントでツアー客の見送りを菅田と終えて、副支配人室に戻ろうとした時だった。
「どうした」
田辺は倉田の様子に何か問題が起こったのだと分かった。
「宇佐美さんが。宇佐美さんが大変です」
息を切らしながら話す倉田。
「なにが大変だ」
田辺は倉田に聞き返す。菅田も近づいてきた。
「クレームがあって、宇佐美さんが辞めさせられそうに……」
「どういうことだ」
響子がどうして、辞めさせられそうになるのか分からなかった。
「顧客の頼んだレストランの予約が出来ていなかったとお客様が怒りだして」
「響子は今どこに」
「別館のフロントにいます」
その言葉を聞いて、田辺は走り出していた。倉田も後ろからついてくる。
別館の扉を開けると、ヒステリックな叫び声が響いていた。
「昨日頼んだでしょう!」
一方的に話をしているのは、先日から宿泊している松川明美だった。
「その前は、机の上に置いておいた書類が無くなっていたのよ」
松川明美は腕を組み響子の目の前に立っている。かなり興奮している様子だ。
響子は何とかこの場を納めようとしている。
傍には別館担当の山本弥生がいたが、松川の迫力に困惑しているようだった。少し離れたところにはなぜか早苗も立っている。
田辺が二人の元へ歩いて行こうとした時、別館の入り口から瀬田が入ってきた。
瀬田は田辺を見つけると手で田辺に止まるように伝えて、そのまま歩いて松川明美の傍まで来ると、何か話しかけていた。
響子は何か言いたそうにしていたが、我慢しているように見える。何を話しているのだろうか田辺は急いで、二人の元へ駆けつける。
「宇佐美さん、少し外してください」
「えっ?」
一瞬怪訝そうにした響子だったが、瀬田の有無を言わさぬ様子にすぐにいつもの表情に変わって小さくお辞儀をしてその場を離れていく。響子の様子が気になったがそれ以上に松川のことが気になる。
田辺は響子の後ろ姿を見ながら、倉田に目配せをした。倉田はすぐに響子の後を追いかけていく。それを確認してから田辺は松川明美と瀬田の方を見た。
「彼女、辞めさせてよ。不愉快だわ」
松川明美は響子がいなくなっても不機嫌さを隠すことなく瀬田にそう言いながら横目で田辺を睨み付ける。瀬田の表情を見る限り松川の言葉に何も反応しているようには見えなかった。
不正の共犯と思われている響子に客とのトラブルは心象が悪い。下手をしたらこれで解雇といわれかねない。
田辺は状況が把握できていないので下手なことは言えない。瀬田の言葉を待った。
「彼女の処遇は、こちらで判断します。詳しいお話を伺いたいので場所を変えましょう」
そう言って、瀬田は松川を部屋へと連れて行こうとする。あくまでも理由を聞くというスタンスだが、瀬田の行動は響子には不利になるのではないかと危惧する。
「副支配人、私がお話を聞いてきます。後で連絡します」
田辺も一緒に行こうとしたところそれを遮られた。またしても重要なことは自分には知らされないのかと苛立ちを覚える。こんな時だけ総支配人ずらしないでほしいと。
結局何があったのかはっきりしない。それに、どうしてこのタイミングで瀬田が来たのかもよくわからない。腑に落ちないことだらけだが、とりあえず倉田に連絡を入れる。
「副支配人室にいます」
倉田からの言葉に田辺は急いで、部屋に戻った。
部屋には、響子と倉田がいた。部屋の中央にあるソファーに倉田と響子が並んで座るその前に田辺が腰を下ろした。
「なにがあったんだ」
とりあえず理由を聞かないことには始まらない。響子に話す素振りはない。見かねた倉田が一瞬、響子を見てから話し始めた。
「松川様が今日のレストランの予約を希望されていたそうです。しかし、その予約はされていなくて」
「その予約は伺っていないわ」
響子は俯いたまま呟く。
「聞いていない?」
「そう。一昨日と昨日は部屋に籠るのでルームサービスを利用されるとおっしゃって」
今度は顔を上げてしっかりと話す。
「気が変わったとか」
予定が変わったりして急に変更になることは多々ある。そうではないのか?
響子は首を横に振った。
「データを見ると予約受けの情報があったので引継ぎミスかと」
倉田が横目で響子を見て言う。倉田はどうやら響子のミスではないと思っている様子だ。
「受けたが予約し忘れただけとかはないのか」
田辺は響子に限ってそんなことはないと思いたいが聞いてみる。
「ない」
「書類が無くなっていたと言っていたがそれはどういうことだ」
「それは……」
響子が言いにくそうにしていた。
「なにがあったんだ」
「後で聞いたのだけど、三日前に松川様の部屋にあった書類が紛失したと話があって、お部屋を掃除したスタッフにも確認したけど書類はなかったと、その時は大げさにしたくないと言われたみたいで」
倉田は先ほどから考え込んでいる。何か思い当たることがあるのか?
響子の話を信じると松川の勘違いと思えなくないが、それにしてもどうしてスタッフも直ぐに響子に話さなかったのか。どうしたものかと考えているとドアがノックされて、瀬田が入ってきた。
響子は瀬田を見て立ち上がり、不安な表情をしている。倉田は瀬田の全身をじっくり眺めてから立ち上がっている。
田辺も立ち上がり、瀬田を見た。
「いいですよ」
瀬田は手で田辺たちを制しながら、田辺の隣に腰を下ろした。まるで響子がここにいることを初めから知っていたようだ。響子がいることに不審がる様子も、また倉田がいることに疑問を抱くこともないままだ。先ほどの状況から二人が一緒にいても不審には思われないだろうが、響子と倉田がここにいることを聞かれないのは田辺にとってはありがたい。それより何も言われない方がもっと怖い。
瀬田はいつもの笑みを見せずに響子を見る。
「今、話を聞いてきました」
「それで」
松川は一体どんな話をしたのか。それによっては響子はかなり不利になる。
「松川様は宇佐美さんの解雇を希望しています」
瀬田は抑揚のない声で話す。
「解雇」
倉田が驚いて声に出す。響子は無言で瀬田を見ていた。
「解雇ですか」
田辺は瀬田がなにか言ってくるかと分かっていたのであまり驚かないが、解雇とは穏やかでない。響子の話を聞く限り、何かの行き違いだと思えなくもないが。瀬田がそこまで言う理由は何だろうと考える。
「お客様があれほど言うのであれば、何か手を打たなければいけないでしょう。社長にも先程報告しましたが、解雇もやむなしとお考えです」
響子は瀬田を見たまま、手は膝の上で握りしめていた。納得できずにいるのが見て取れる。当然だ。響子の話を聞く限り、響子だけの責任ではないはずだ。それに、響子には事情を聴いていないのにどうして社長に報告するのかわからない。
「そこまで解雇にこだわるのはどうしてですか?」
田辺も納得できない。レストランの予約も響子は知らなかったようだし、書類の紛失は響子だけの責任にするには無理がある。その内容でいくら顧客だからと言って解雇を要求するのはおかしな話だ。そしてそれに同調する瀬田や社長にも納得出来ない。
「お客様がそうおっしゃるのですから。後任は酒井さんにお願いすることにしますので、本日中に引継ぎをしてください」
瀬田は一方的に言い部屋を出て行く。田辺は慌てて後を追いかけた。この一時間も満たない間でどうしてここまで話が進むのか。
「宇佐美の話を聞かないのですか」
従業員エレベーターの前で田辺は瀬田を呼び止めた。あまりにも一方的に響子が悪者に決めつけられていることに反吐が出る。総支配人の仕事もまともにしていないのにこんな時だけ上司面してほしくない。一体何様のつもりなのか。
今まで抑え込んでいた怒りは止められなかった。
「言い訳にしかなりません。姿を見るのも嫌だとおっしゃっています」
冷たく言い放つ瀬田に憤りを覚える。
「解雇までしなくても、松川様の担当を外れるだけでもいいのではないでしょうか」
「私もそのことを話してみましたが、納得していただけませんでした。それに宇佐美さんのことは松川様以外の顧客からもクレームが届いているようです」
「松川様以外?」
「そうです。今回と同じようにレストランの予約や、そのほかのサービスに関してもここ数日、何度も忘れていることがあったと聞きました」
そんな話は自分のところに届いていない。誰かがわざと隠しているのか。もしその話が本当なら瀬田はどこから聞いているのか。
怒りや疑いは消えないが田辺は今できることに切り替えた。
「解雇だけは何とかなりませんか」
響子がそんなことをする筈もないと思ったが、今の状況から瀬田のいうように言い訳にしかならない。それなら解雇だけは何とか免れないかと田辺は頭を下げる。
「私も、宇佐美さんを解雇するのはもったいないと思っています」
「それなら!」
「松川様の部屋に盗聴器が仕掛けられていたようです。それだけでも担当を外すだけでは収まらないと思っています」
「盗聴器?」
「そうです。これはまだ他の者は知らないようですが、松川様がご自分で見つけられたそうです」
そう言って、瀬田はポケットから取り出して見せた。瀬田の手には黒くて四角いものが三つあった。
「これから社長に会って、話をしてみます。但し、別館の担当は外れていただきます」
何とか解雇は免れたようだ。だが、それは瀬田にそれだけの権限があることを見せつけられたことになる。
「分かりました」
響子の解雇にならないだけいいと思いながらもこの状況に田辺は納得できるものではなかった。こんな時、柏木はどうしただろうかと考えがよぎった。自分の無力さに情けなくなる。
響子が客室に盗聴器を仕掛けるはずもない。それに、後任に早苗とはどういう判断なのだろうか。
いろんな思いがめぐる。田辺は一つ確認をしておきたかった。
「瀬田さん、宇佐美の疑いは晴れたのでしょうか」
以前言っていた不正の共犯だ。
瀬田はゆっくりと振り返り、険しい顔をする。
「まだ、晴れたわけではありません。今回のことは予定外の出来事です。宇佐美さんは柏木さんの共犯でないと確実に分かるまではここに居てもらいます」
「確実に分かるまでと言うと」
「前にもお話しましたが、今、証拠を集めています。まだ、確実ではありませんが。共犯と分かれば、それなりの処罰をするつもりです。社長からもそうきつく言われていますから」
何か言葉を返さなければと思うが何も言えなかった。握る手に力がこもる。
瀬田は目の前のエレベーターに乗り込むのを田辺は小さくお辞儀をして見送るしかなかった。
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