第6話 深夜の行動 前編

 柏木がいたころは深夜の見回りを何人かで交代していたが、どこも人手が足りなくなり仕方なく田辺が毎夜、見回りを担当することになった。

 十一時過ぎになると通路を歩く人もほとんどいない。時折、ルームサービスを届けに行くスタッフとすれ違うくらいでそれ以外は誰かに会うこともなかった。

 昼間は柏木が担当していた仕事と、自分の仕事をしているといつもこの時間になってしまうが、気分転換にもなっていい。

 田辺は静まり返ったホテルの通路を歩いて行く。本館から別館へと移動して別館にあるレストランの一つ、フランス料理店を覗き込む。店内は証明が消えていて人影もない。

 田辺は次に向かうため体の向きを変えた時、何か物音が聞こえた気がして、もう一度レストランへと戻る。音がしたのはレストランの奥からだ。

 レストランの扉を開けて中へと入る。店内は真っ暗で誰もいない、厨房だろうかと更に奥へと進む。

 この時間まで残るものなどいないはずだが、田辺は気になって厨房へと近づく。厨房は明かりが点いていたが、誰もいなかった。

 ごくたまに見習の料理人が練習のために残っている時があるので、それかもしれないと思ったが厨房も誰もいなかった。

 見習いなら明日も早いだろう、そろそろ帰るように言うつもりで田辺は厨房の更に奥の保管庫へと向かった。厨房にいなければここだ。


「静かだな」


 田辺は思わず呟きながら、保管庫のドアを開けると総料理長の佐伯雅之がいた。


「総料理長?帰られたのではないのですか」


 いるとは思っていなかった人物に遭遇して田辺は驚いた。

 このホテルで一番の古株だ。もうすぐ六十になろうと言うのに大柄で恰幅のいい体型で髪は黒々としていて若々しい。

 ホテルにはレストランが五つあり、ホテルの本館に二店舗、別館には一店舗、外に二店舗あり、そのすべてを取りまとめているのが総料理長の佐伯だった。


「新作の料理を考えていたのですよ」


 総料理長の佐伯の手にはジャガイモが握られていた。


「副支配人はどうしてここに?」

「見回りをしていたら、厨房に明かりが点いていたので。それより、新作の料理はいつも、少し先のはずですがもう準備ですか?」


 田辺この時期だったかと疑問に思う。


「次回の新作が私の作る最後の料理にと思っていまして」

「最後?」

「そろそろ、私も引退して後任に任せようと思いまして」


 佐伯の言葉に田辺は少なからず動揺した。

 総料理長に定年はなかったはずだからこそ続けようと思えば続けられるのだ。引退と言うことはホテルを辞めるのか?

 柏木からはそんな話を聞いていない。柏木のいないこのタイミングは何か意味があるのか。


「総料理長、引退してどうするのですか」

「今後の事はこれから考えます」


 これからと言うことは前から決めていたことではないのかもしれない。それなら、引き留めれば残ってくれるのだろうか。柏木のいない間に総料理長が辞めたとなっては柏木に会わせる顔がない。せめて柏木が戻るまで留まってもらいたいと秘かに願う。


「私はそろそろ帰りますが、総料理長もあまり遅くならないように」

「そうします」


 総料理長は少し笑いながら言う。

 田辺はフランス料理店を後にしながら、柏木が辞めると言い出したのはもしかして、柏木のことが影響しているのかもしれないと考えた。柏木が戻ってきたら、考え直してくれるだろうか。


 レストランを後にして、別館の見回りをしていると人影が見えた。田辺は立ち止まり柱の陰からその様子をみる。

 人影は松川だ。松川の部屋があるのは五階で田辺が今いるのは三階だ。松川は手帳を片手に部屋の扉を一つ一つ確認するように見ている。


 何をやっているのか?


 松川は田辺に気がついていないようなので、田辺は隠れてその様子を眺めていた。しきりに扉を確認している。そして、ある部屋のドアノブに手をかける。しかし、開かないのが分かるとまた、別の部屋のドアノブに手をかける。


 松川が手をかけた部屋は全て客の入っていない部屋だった。もしかして客のいない部屋と分かっていてドアノブに手をかけているのか?

 田辺は松川の手元に注視した。手帳を何度も確認してドアノブに手をかけている。 あの手帳に宿泊客のいない部屋が書かれているのか?

 宿泊客のいない部屋のことは公表していない。それなら誰かが松川に伝えたことになる。そして、松川はどうして宿泊客のいない部屋のドアを開けようとしたのか?

 松川はもう一度手帳を確認して、エレベーターに乗り込んだ。


 このフロアで今日、宿泊客がいないのは二部屋だけだ。その二部屋を間違えることなくドアノブに手をかけていた。誰かが情報を流したとしか考えられない。

 田辺は宿泊客のいない部屋のドアを眺めた。松川は一体何をしようとしていたのか。

 これも社長が前から言っていた新事業に関わることなのかと疑問が浮かんだ。


 翌日、田辺の元に地元の刑事がやって来た。瀬田と連絡がつかなかったため、田辺が対応することになった。

 副支配人室で対面した田辺は刑事から見せられたものに驚きを隠せなかった。

 吉村と言う五十過ぎの白髪交じりの刑事と三十前半位の佐竹は持っていた紙袋から取り出したのはビニール袋に入った紺色のコートだった。


「このコートに見覚えはありますか?」


 吉村が田辺に訊く。

 田辺は柏木がよく着ていたコートに似ていると思ったが答えを控えた。

 吉村は無言でビニール袋からコートを取り出して内側を見せる。コートの内ポケットに柏木と刺繍が施されていた。


「前総支配人、柏木さんのコートだと思います」

「やはりそうですか」


 吉村は納得した様子でコートをビニール袋に戻す。


「このコートがどうしたのですか」

「漁港近くの海で発見されました」

「海で。柏木さんは?」

「今、捜査をしていますがまだ発見されていません」

「見つかっていない……」


 吉村に告げられた言葉を田辺は反芻する。


「柏木さんの車が漁港付近の駐車場で発見されましたが柏木さんの行方は周辺の海も含めて見つかっていません。車は二日前の夜には駐車場にあったことが確認されています」


 その日の昼間に自宅に戻っているのが確認されているらしい。それまでどこにいたのか気になる。それまでも田辺は何度も柏木に連絡をしていたのに。どうして連絡をくれなかったのかと恨む。


「柏木さんのことでお伺いしたいことが」


 吉村が田辺の様子を探りながら言う。


「何でしょうか」

「柏木さんはどうしてこのホテルをお辞めに?」


 やはりその事かと田辺は思った。目を瞑り、深呼吸をしたのち不正の詳細を除いて柏木のことを説明した。


「と言うことは不正をしたため解雇されたと?」

「そう訊いています」


 疑われているだろうか。吉村の目が鋭く田辺を見る。


「その後、柏木さんとお会いしていますか」

「一度も会っていません。連絡も取れていませんでしたから」

「そうでしたか」


 今度は吉村が何かを考えている様子に見えた。


「柏木さんがホテルを辞めた後、何をしていたか心当たりはありますか」

「分かりません」


 これは本当のことだ。田辺自身も柏木の行方を探していたのだから。


「何か思い出しましたらご連絡ください」


 吉村と佐竹はそれ以上聞いてくることはなかった。もしかして柏木のことも詳しく調べているのかもしれない。気まずさを隠しながら田辺は外まで見送る。


「柏木さんの後任に方はいらっしゃらないのですか」


 途中で吉村から聞かれた。


「社長と別の業務にあたっているので、ここには毎日来ることはないのです」


 田辺の言葉を聞いた吉村は一瞬怪訝そうにしたがそれはすぐに消えた。その反応は当然だと感じる。


「では社長のところにお伺いした方が早いですね」


 そうしてもらった方がいいと思いつつも吉村たちは瀬田に会って何を話すのだろうかと不安が募る。あの社長のことだ、柏木のことを何と説明するのかと気になった。吉村たちに誤解のないようにしてもらいたいと思うが、多分、無理だろうなと諦めにも似た気持ちを抱えた。


「副支配人にお聞きしたことと同じことを確認させていただきますよ」


 田辺が気になっていたことを察したのだろうか吉村が笑顔で言ってくる。吉村たちを見送った後、本館に行くと菅田がやって来た。


「柏木さんが行方不明と聞きましたが」

「車が漁港近くの駐車場で見つかったそうだ」


 周囲を気遣いながら菅田が聞いてきたので、菅田と二人でフロントから離れたところに異動する。


「車が?」

「柏木さんのコートが海で見つかったことで、海に落ちたのではないかと」

「海に?しかし、あの場所であれば……」


 菅田が言葉を止めた。瀬田が現れたからだ。


「また、後で」


 田辺がそう言うと菅田は心得たようでフロントへ戻っていく。瀬田が田辺を見ていたので田辺はその場に留まる。


「副支配人」

「柏木さんの車が見つかったそうですね」


 瀬田が田辺の元へやって来た。


「はい。先程、警察の方が来られました」

「私も今、駐車場で会って事情を聞かれました」

「そうですか。社長のところにも行くと言っていたのですが」


 瀬田がここにいると言うことは、社長は今一人と言うことか。尚更、心配になってくる。


「念のため話を聞きに行くと言っていました」

「念のためですか」


 瀬田は田辺の気持ちを読み取ったような笑みを浮かべている。


「社長も私も、柏木さんが辞めた後は一度も会っていませんし連絡も取っていません」


 柏木が身の潔白を証明するために、社長に会っていると思っていたがそうではなかったのか。


「柏木さんは行方不明だそうですね」

「先程の刑事さんも行方が分からないと言っていました」

「何か心当たりは?」


 どうやら探りを入れられているようだ。


「ありません。私も柏木さんがここを辞めた後は一度も会っていませんので」

「そうでしたか」


 瀬田の反応は田辺が柏木と会っていると思っていたのだろうか。

 柏木の車が見つかってから瀬田がまた、毎日顔を出すようになった。だが相変わらず総支配人室に籠っていて瀬田が何をしているのか分からない。それが田辺を神経質にさせていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る