幕間 天使たちの休日・エマ編
今日は休日。
エマは朝のランニングをしていた。
近所の公園をぐるりと一周走った後、以前から密かに目を付けていたカフェでモーニングと洒落込む計画だ。
実に健康的な、新人天使の休日の過ごし方である。ダンジョン業務の疲れなど一片も見えない。
公園の広い遊歩道を駆けていく。
若々しい葉を茂らせる街路樹が清々しい。芝はキッチリと刈り込まれ、道端では色とりどりの花が咲き誇り、景色を彩り豊かに飾っている。更に言えば天気も快晴。言うことなしの日和だ。
爽やかな気分に浸りながら走っていると、背後から同じくランニング中の足音が近づいてきた。
「エマじゃないか。おはよう」
「マルス先輩!」
赤い髪に翠色の瞳。ジャージを着ているところを見ると、マルスもランニング中のようだ。
「どこまで走るの?」
「表通りのカフェまで。あそこのモーニングおいしいらしいですよ。一緒にどうですか?」
「エマがいいなら僕も食べてみようかな」
今は爽やかモードだなあ、とエマは笑顔の裏で思っていた。マルスは時々バーサクモードに切り替わることがある。「血の気の多さを秘めた優しい先輩」というのが、エマのマルスに対する印象だ。
二人はお目当てのカフェへとやって来た。
飲食店の立ち並ぶ通りに小さな円形広場があり、中央には噴水が上がっていた。カフェのテラス席は休日の朝を楽しむ天使や妖精たちで賑わっている。
……ふと、エマの金色の瞳が見知った人影を捉えた。
「先輩。あれって……ミカド係長じゃないですか?」
噴水を望めるテラスのパラソルの日陰で、サンドイッチにかぶりつく上司の姿がそこにはあった。せっかくの休日にも関わらず、相変わらずのスーツ姿。ジャケットは脱いでシャツ姿であるが、目新しさがまったくない。
ところが、小さながっかりは大きな疑念へと変わることになる。
「ねえエマ。ミカドさんの向かい側にいるのって……」
「先輩も見ました? ……ソフィアさんだ」
あの豊かな栗色の毛は見間違えようもない。ソフィアが、休日の朝をミカドと過ごしている?
エマとマルスの間に、微妙な空気が漂った。
「先輩。入りましょう」
「えっ」
「私たちは朝ごはんを食べに来たんです。たまたまそこにミカドさんたちがいただけのこと。何もやましいことはないでしょう?」
「やましいことはないけど、気まずいだろ……もしあの人たちが、その……」
「マルス先輩」
ふ、と笑むエマ。
「気になるでしょ?」
「う」
「私はモヤモヤしたままお仕事したくないです。ここはもうスッキリさせちゃいましょう?」
火星天使マルス、光天使エマの悪魔の如き囁きに、落ちた。
カフェを尻目に路端での極秘作戦会議が始まった。
「まずは会話からヒントを得よう。視界に入らず、かつ声の聞こえる席といったら……」
「二人とも噴水側を向いて座ってます。テラス席でも一番店内に近い場所はどうでしょうか」
「いいね。客入りがいいから気配も散らせる」
完全に盗み聞きの方向で話が進んでいる。
いいのか君たち、天使の矜持はないのか。
「あとはメニューですね。私はこのパンケーキセット、デザートはチョコレートアイスに決めてます。マルス先輩は何食べますか?」
「レジでメニュー見て決めるよ。さあ行こう、目当ての席取られたら困る」
二人は素早く注文を済ませ、狙い通りの席へと滑り込んだ。足音と気配まで消す徹底ぶりだ。
そして聴覚を研ぎ澄ます。雑多な声をより分け、最も聞きたい声に集中。
『もう少し頻度増やしたら? 体が持たないわよ』
『そうは言ってもなァ……随分迷惑かけてるし、これ以上ってのはちょっとね』
『変な遠慮やめてよね。気持ち悪い』
『気持ち悪いとか言うなよ、流石に傷つくぞ』
「マルス先輩。この会話、あなたはどう分析しますか?」
「“頻度”が一体何を指すのかがキーだな。判断するにはもう少し材料が欲しい」
神妙な顔を突き合わせる二人。
楽しそうだ。
「うーん、私はやっぱり、お二人がそういう関係だと考えますね」
「ほう。その根拠は」
「ミカド係長の服装をご覧ください。昨日と同じシャツ、ネクタイです。一緒に過ごした数日の中で、連続して同じシャツやネクタイを身につけてきたことは一度もありません」
「……よく見てるね……」
女性の観察眼とは恐ろしいものである。もしや自分の寝癖なども気付かれているのだろうかと、マルスはそわそわ髪を撫で付けた。
エマはニヤリと得意げに口を上げ、人差し指を立ててマルスに迫った。
「つまり、ミカドさんは朝帰りの可能性が非常に高いのです。ところがソフィアさんは、私服ではありますが整った服装。お二人のこの差から、やはりソフィアさん宅で一泊したと考えるのが妥当でしょう。どうです、マルス先輩」
「どうって……まだそうと決まったわけじゃ」
「もちろんです。あくまでこれは仮説、覆る何かがあるかも──」
「お待たせいたしました。モーニングパンケーキ・ベリーソーススペシャルと、セットのアップルシナモンティーです」
突然店員が高らかに告げ、エマとマルスはビクッと肩を震わせた。
「……ご注文、お間違えでしたか?」
「いいえ! 私です、ありがとうございます」
「ソースは三種類です。お好みに合わせてお召し上がりください。お連れ様はモーニングパンケーキのベーコンエッグ、セットのブラックコーヒーですね」
二人の目の前に、それぞれ注文した料理が置かれる。パンケーキの香ばしさをベリーソースの甘さが包む匂いが鼻をくすぐり、エマは思わず顔を緩ませた。
「おいしそう! いただきます」
「バレてないよね……」
切り分けたパンケーキを口に運びつつ、マルスはチラリとミカドたちを盗み見ていた。今の会話で自分たちの存在に気付かれていやしないかと気が気でなかったのだ。幸いこちらの声は届いていなかったようで、ミカドとソフィアは会話を続けている。
……と。
「おはようございます、お二人とも」
またもエマ&マルスの心臓が跳ね上がった。
迷宮管理課長のピーターの姿が……ミカドたちの席に現れた。
(ビックリした! 今すっごくビックリしたッ!)
(バレてないよね? 課長、僕らが来てるのに気づいてないよね?)
口いっぱいにパンケーキを詰める二人は目線で会話を交わす。その間も上司グループは和気藹々とした朝の挨拶をやり取りした。
『課長もこちらで朝食を?』
『ミカド君を探しがてらにね。ミカド君、調子はどうです? 昨晩帰って来なかったでしょう』
……『昨晩帰って来なかった』?
二人の喉が同時に動き、パンケーキを飲み下した。エマは紅茶を、マルスはコーヒーを一口飲み、
「いやいやいやいや。ちょっと待って、情報多すぎ、待ってどういうことだ?」
「落ち着きましょう先輩……そう、落ち着くのよエマ……」
課長の爽やかな一言が思いもよらぬ爆弾発言となった。
今の発言で、ミカドが朝帰りであることは確定した。が、同時に新たな可能性が出現したのだ。
「ミカドさんと課長さんって、一緒に暮らしてるってこと?」
「まさかのルームシェア? ……いい歳した大人二人で?」
マルス、流石に失礼だよそれは。
「だって“課長”と“係長”だぞ? 管理職だろ、家賃折半するほどお金ないなんてあるか?」
「家事の負担を減らすって線も考えにくいですよねえ。お二人とも忙しいんだし……あ、もしかしてミカドさんが借金抱えてるとか」
「女性絡みで? じゃあまさか“頻度”ってやっぱり――」
「おはようございます、お二人とも」
今度こそ、間近で声がした。
ギシリと首をそちらへ捻れば――微笑んで二人の前に立つピーター課長と、その向こうの席で驚くソフィアと、苦笑いするミカドがこちらを見ていた。
「楽しそうですね。ランニング後の朝食ですか?」
「……ハイ」
「遠慮せず声を掛ければいいでしょうに。ほら、こちらの席は気持ちがいいですよ」
にこにこと課長に誘導されては、ヒラ職員であるエマたちは従うよりほかない。強制力などどこにもないのだが、逆らえない何かを感じたのだ。
「さてミカド君、ソフィアさん。彼らは何か誤解しているようですので、軽く説明してあげるのがよろしいかと」
「誤解……まあたしかに、俺どう見ても朝帰りッて感じだしな」
サンドイッチの包み紙をくしゃりと丸め、ミカドは言いにくそうに口を開いた。
「ソフィアの姉さんのところに治療に行ってたんだよ。ゆうべから朝まで掛かっちまってな、ソフィアにもちと迷惑かけちまったから、朝食奢ってんだよ」
「あたしは別にいいって言ったんだけどね。どうしてもって言うから、前から気になってたこのお店に連れて来てもらったのよ」
ソフィアはブルーのシャツを着た肩を竦めて見せた。二人の話が真実なら、エマたちは壮大な勘違いをしていたことになる。
だがそんなことよりも、気になる言葉が耳に残っていた。
「治療って……ミカドさんどこか悪いんですか」
「ありゃ、聞き逃してくれないか。ちょっと胸の辺りがね」
胸の中央部をさするミカドの顔は苦い。
「特殊な治療が必要で、それが出来るのがソフィアんちなんだ」
……朝までかかる特殊な治療とは、一体どんなものだろうか。
そしてミカドの容体は、はたから見るよりも遥かに悪いのではないか。
エマとマルスは昨日の記憶を辿っていた。ミカドはいつも通り、コンパクトサイズの体をちゃかちゃか動かして、事務室やダンジョンを走り回っていた。その動きのどこにも体調の悪さなど窺えなかったが……。
「ともかく!」
パンッと手を打つ音で、思考の糸が途切れてしまった。ニヤニヤ笑うミカド。
「想像力逞しい君らがどう勘違いしたかは大体見当つくが、俺とソフィアはそんな関係じゃありませーん。残念でしたー」
「え、じゃあミカドさんと付き合ってるのは課長さんってこと?」
「「「ブッッフォ」」」
エマちゃん?
そいつァ随分な爆弾投下じゃないですかい?
「ちょ、待て待て待て。何をどう想像したらそんな結論出るの」
「え、だって一緒に暮らしてるんですよね? 恋人同士でもなきゃ、お忙しいお二人が同居なんてしないと思ったんですけど」
新人はあくまで純粋な目だ。
マルスは頭を抱えた。何というか、何とも言えない脱力感に襲われていた。
「ミカド君は同じ官舎のお隣さんでしてね。大体の行動が把握できるのですよ」
「課長、ストーカーじみたこと言わんでください。しかしぶったまげた、エマちゃんは斜め上の行動とってくるなあ。こりゃ期待できるぞ」
一体彼女に何を期待するんですか、係長。
「誤解も解けたことだし、あたしは帰るわね。ご機嫌よう」
「私も失礼します。それではまた」
「じゃあ俺も。君らはゆっくり食べて、デートの続き楽しみなさいね。いやあ、青春青春!」
ニヤニヤと帰っていく上司組。エマとマルスは唖然と固まっていた。ミカドたちに気を取られていた二人はようやくある事実に気が及ぶ。
「──デートじゃないーッ!」
……自分たちの方がよっぽどカップルのように見えていたのだった。
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