第9話 ゴースト系ダンジョン・その3
ゆっくりと押し開かれる扉の隙間から、ひと際濃い瘴気が流れ込んで来る。そのあまりの濃さにエマは腕で口元を覆った。
足を踏み入れる。
四人分の靴音が、天井の高い広間にこだまして鳴り響く。
寒い。凍てつく真冬のような冷気だ。
「──エマ、壁の方に退避、防壁張れ。パットは詠唱開始。ソフィア、囮は頼んだぞ」
鋭く短く、ミカドから指示が発せられた。
同時に広間の中央に黒い靄が立ち込め、冷気を取り込んで増大していった。慌ててエマが隅の方へ全力ダッシュ──運動靴で来たのは正解だった、言われた通りに二重の防御魔法を展開した。
そして光の壁の中で身を強張らせた。
「何……あれ……」
膨れ上がった靄が取った形は不安定だった。人の形をとってはいる、がしかしゆらゆらふわふわ、顔貌がまるで定まらない。若い女性かと思えば老人の姿に変え、次には少女、男性……と次々移り変わっていく。
そしてそのどれも、まるで
エマは恐怖に凍りついた。幾重にも重なった絶叫が、耳元で直接聞こえるようで、じわじわとエマの感覚を麻痺させていく……。
──パンッ。
「エマ、エマ、俺の声が聞こえるかい」
凛と鳴る鈴のような拍手。
低くもよく通る男性の声。
エマはハッと我に返った。二重に張った防壁の外に、ミカドがいた。
「幻に呑まれるな。あれは彼岸の者。君とは住む世界の違うモノだ。まして君は天使だろう、気をしっかり持ちなさい」
色の濃い目にしっかと捉えられ、霞んでいたエマの思考が晴れた。
一つ深呼吸をしてエマは頷いた。
「はい。すみませんでした」
「うん、気が付いたんなら良しだ。バリアのお陰だな。問題はあの二人か」
上司の言葉に、エマも外に目を遣る。
何体もの悪霊が一つになり、その存在感を高めているようだった。その前で膝をつき肩で息をするパットと──突っ立ったまま動かないソフィア。
「俺の読みが甘かった。悪霊化した一般ゴーストは、ノーマルエリアで襲ってきた奴らだけじゃなかったんだよ。ここに来るまでにやっつけたのは雑魚中の雑魚、より強力な奴らはボスがみんな吸収しちまった……」
「先輩たち、一体どうしたんですか?」
「ソフィアは魅入られた。自然物系の天使は環境に左右されやすい、憑かれやすいんだ。パットは呪い耐性が強いから何とか耐えてる。とりあえずパット連れてくるわ」
そう言うが早いか、ミカドが軽やかに駆けていって、自分より上背のあるパットを担いですぐに戻ってきた。今回のメンバーで最年長と思しきミカドだが、なぜ彼が一番ピンピンしているのだろうか。
壁の中に入ってきたパットの体は冷たく、脂汗をかいていた。エマは急いで聖水を飲ませ、軽く回復術を施した。
「ありがとう……ありがとう、助かった。あの悪霊に僕もやられるところだった」
「君の神語でも浄化は難しいかい?」
「出来なくはないです。詠唱時間が必要ってところが肝ですね……けど、ソフィア、彼女間違いなく操られてしまうでしょう。僕では彼女に太刀打ちできない」
「じゃあパトリ君はここから詠唱してくれ。エマちゃんのバリア内なら呪いの効果も薄いだろ。ソフィアの相手は俺がする」
軽く準備体操を始めたミカドに、パットの心配げな声がかかる。
ミカドはニッと笑った。この濃い瘴気の中で尚、明るい笑顔だ。
「そんな顔しねえの。天使だろ? 自信持てって」
「いやそうじゃなくて……ミカドさんの身を案じてるんです」
「大丈夫。実は俺、地元じゃ水害対策が専門の一つでね」
噛み合わない。ミカドとパットの会話が噛み合っていない。
パットが心配しているのは、ソフィアの水属性魔法も然りだろうが、どちらかと言うと悪霊の影響の方だ。しかしそれが当の本人へは伝わっていない。返ってきたのは見当違いの言葉だ。
パットがもどかしそうに口ごもると、ミカドがエマに自分をバリアへ招き入れるよう頼み、部下たちの目線に合わせるようしゃがみ込んだ。
「この作戦は君たち二人が
「まじない……? わっ」
ぽん、と。
それぞれの肩に、武骨な手が乗せられた。
……そして離れていった。パットは拍子抜けしてしまった。
「えっ、これだけ?」
「あんまりやりすぎると、たぶん君ら酔っぱらうから。もうあいつと目を合わせても何も起こらねえさ。それでも怖い時は、俺の名前を呼ぶといい」
「係長、すみません、ちょっと仰る意味が分かりかねます……」
「いーのいーの。やる気出たでしょ。んじゃ、俺はソフィア姐さんの相手してくるわ。悪霊は頼んだよパトリ君」
そのままジャケットを翻して行ってしまった。
パットは不可解な顔で自分の肩を撫でてみたが、すぐに気持ちを切り替えて本を開いた。
「詠唱を始める。防御、頼むよ」
「お任せください」
より強い言葉。より濃い光。パットの声が文字の鎖を成して、ボス悪霊へと伸びていく。
エマも指を組んで防御術式の維持に集中した。自分が崩れてしまえばパット共々やられてしまう。一片の綻びも生んではならないという、生まれて初めて抱いた使命感に、押し潰されまいとしながら。
そしてミカドは、ソフィアに歩み寄って呼び掛けていた。
「ソフィア。聞こえる?」
「…………」
「ソフィア、ソフィア。ソーフィーアーちゃーん」
「…………」
「仕方ねえ、あんまりやりたくなかったが、試すしかなさそうだ」
何か覚悟を決めたようにミカドが口を引き結び……一つ咳払いをして、声を裏返した。
「ハァイ、愛しのソフィー、マイスウィートハニー! ……うぉっと」
何をやっているんですか係長。
目を逆剥いたソフィアが振り返った。彼女の周りに水が立ち昇り、渦を巻き、ミカドに襲い掛かった。寸でのところで飛び退き難を逃れ、楽しそうにミカドは笑んだ。
「さてさて、ソフィアの水攻撃は厄介だが、傷つけるわけにもいかねえ。となると」
持ってきた聖銀ナイフを構えた。一分の隙も窺えぬ構え。切っ先が向くのは──ソフィアの肩にまとわりつく、赤目の悪霊。
「困るんだよねえ、君。これでも一応“上”から行動制限されてるもんでさ、君みたいなオバケ相手にすると何もできねえのよ。自分から離れてくれんかねえ」
赤目がぽっかりと口を開いた。覗く虚から響く声なき声が、ソフィアの手足を操る。
水がいくつもの刃に形を変え、ミカドめがけて飛んできた。軽い動きで躱すミカド、しかしその脇腹で突然ジャケットが破けた。
「チッ、ブーメランか。やるじゃんソフィア」
後ろに退いてソフィアと距離を取り、エマの防壁へチラリと視線を動かした。パットはまだ詠唱が終わらないようだ。
(時間稼ぎしてえところだが、これ以上操られてるとソフィアの身がもたねえ)
ミカドは片手の二つ指で印を作った。
二つ指が真横に空を切る。その姿が溶けるように消えた。
消えたミカドを探す赤目。どこから攻撃が来るとも知れない。無限の可能性に、赤目は身動きが取れないでいる。
いっそ周囲すべてを水で覆えばいい――ぬらりと赤目が口を開き、ソフィアを操ろうとした、その時。
「はい確保ー」
形のない首をガッシリと掴まれた。
「離れてくださいよー、じゃねえと力ずくで引っ剥がすぞ」
声にならない絶叫。
脅しではなく、ミカドは赤目悪霊を手掴みでぐいぐい引っ張っていた。取り憑いたソフィアから離れまいと必死で抵抗するが、あまり意味を成していない。
ソフィアと悪霊の接着面を、今度はナイフが削り取り始めた。音のない金切り声、脳に直接響く声で赤目が身悶えする。
「往生際の悪いヤツめ」
悪霊だけにですか。
「ほらほら暴れないの。苦しいでしょ。よいしょッと」
ついに悪霊がソフィアの体からベリッと剝がされた。
ミカドはそのまま「それ、親玉ンとこ行けー」とボス悪霊に向かって投げつけ、地面に崩れ落ちるソフィアを抱き留めた。
「おおっと。大丈夫かい、ソフィア」
「うるさい……ちょっとどこ触ってんのよ、セクハラで訴えるわよ」
「どこも変なところ触ってねえだろ……思ったより元気そうだな。そろそろ大将も倒せそうだ」
ミカドの言う通り、パットはちょうど長い詠唱を終えたところだった。
巨大な靄は金色に光る鎖に絡め捕られ、浄化を免れようと悶絶している。が、もがけばもがくほど鎖に締め付けられ、澱みが薄くなっていく。
やがて力尽きた悪霊は最期に、長く幽かな悲鳴を残し、鎖と共に砕けて霧散した。
パットは高威力の神語を唱えた反動か、鼻血がぼたぼた溢れていた。エマが即座に防壁を解除し、回復術に専念しようと手を伸ばした。
そこへソフィアに肩を貸すミカドがやって来た。
「お疲れさん、二人とも。結構消耗したな。ソフィアも自力じゃ動けんし、一旦天界に戻って病院で診てもらいなさい」
「『もらいなさい』って、係長は戻らないので?」
鼻血を押さえてパットが問う。
「瘴気汚染が思った以上に進行してたんでな。課から人を呼んで、少し調査してから戻る。……少し気になることもできたし」
その一言の真意を問う間もなく、ミカドの手によって天界へのゲートが開かれた。
「さあさ、行った行った。帰ったらちゃんと病院行くんだぞ。診断書貰うの忘れずに。――ああもしもし、回収係のミカドです。今そっちに俺以外のメンバー戻るんで、ちょっと病院手配してください――」
電話で手配と応援を呼ぶミカドに、三人まとめてゲートに押し込まれ、視界からミカドの姿が遠ざかって行った。
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