伊良部島/量子サイフォン

「船が無くなってしまうってどういう意味だい?」

その日の夕刻、頼子と敦彦は牧山展望台にいた。伊良部の港からレンタカーで五分。駐車場から小道を進むとコバルトブルーの海に宇宙船に似たデザインの建物が映えている。

階段の手前で頼子は立ち止った。

「二重の意味があるわ。宮古フェリーの廃止、もう一つはあの船の出航」

どう見てもただの展望台だ。それを病んだ女は船に形容する。

「そうやって君はすぐ俺を置いてけぼりにする」

「ごめんなさい」

珍しく自分の方から謝った。

「航路が用済みになるって事。敦彦クンにとっては寝耳に水よね。でも、これは確定路線だから…」

そして彼女は不思議な諸事情を物語った。

自分が不安神経症を抱えている理由は幼い頃の性的虐待だけにとどまらない。平五郎は聞きしに勝る下衆で、昭和特有の優位性を濫用して実の娘をたびたびはけ口にした。彼女の心身が最初に割れたのは昭和64年の事だ。しかし、それは代々受け継がれている資質に点火する工程でもあった。

望月家の次代当主は不規則な言動をはじめる。近隣住民の秘め事、本音、そして死期さえも平然と口にする。誰もまともに取り合わない――ふりをして肝を冷やしていた。望月家が嫌われる理由はそういう次第だ。陰口をよそに頼子の実家は順調に富を肥やしていった。何しろ小娘の戯言で栄える。

認めたくない現実と認めざるを得ない結果のはざまで頼子は壊れていった。

やがて、彼女の逃避行が始まる。そして、ようやく白馬の王子に迎えられた。

「…宮古島と伊良部島が地続きになる未来が見えるというのか。それはどういう世界なんだ」

「自衛軍が南西要塞を築くの。石垣も。イリオモテヤマネコは絶滅するわ。ケダモノより予防的先制攻撃よね。あっちの島もそう」

風が黒髪を梳かし、下地島に翔けていった。


青々と剃り上げたうなじにセーラーカラーという組み合わせは受け入れがたい。しかし、それが我が子の晴れ姿で国家に貢献するのだと言われれば、返答に窮する。二人の娘達は下地航空隊から戦略空母ろっこうに転属される。

展望台――頼子はフネだと言い張る――から降りてきた少女は18と16に成長していた。

「お父様。貴方のプログラムで私たちは国の誉れとなるきっかけをつかめました」

そんな謝辞を述べられてもリアクションに困る。ろっこうを含む八隻の空母打撃群は陥落した台湾の奪還を諦め、南西要塞の死守に全力を尽くす。

「そんな未来、誰が望む」

「敦彦クンよ。正確には東京に戻ったあなた。次回作に国防予算がついたの」

「おお…」

夫はただただ狼狽えるしかなかった。

「ついでにいうと、貴方は科研に採用されたの。量子サイフォン試作の極秘プロジェクトにね。大抜擢よ」

あの展望台じみたフネがそうだろいうのか。敦彦は声を荒げた。

「やりすぎだろう。だいたい、そのスキンヘッドのコスプレフェチおんなはどこで雇った? 大げさな芝居で俺を統失に引きずり込もめると思ったか」

「量子サイフォンは統合失調症患者の福利厚生事業として始まったの。わたしたちは世界線を俯瞰できるものね」

「そっちの世界線ではお前たちはそういう扱いになっているのか?」

「だからこそ、こうやって敦彦クンにさよならを言いに来れたの。世界観統合失調能力者は俗っぽい言い方をすれば運命の選択肢を運ぶ――チャンスの女神様と言えば妥当かしら」

新米水兵二人の母親は正体を明かした。

「うせろ! その前に他の選択肢、世界線と言えばいいか。教えてもらおうか」

「覚悟はいいかしら?」

頼子―のような者は、敦彦に覚悟を迫った。


そして、男はもっと恐ろしい歴史を耳にした。

「うわああああ!」

のたうち回る敦彦に女は淡々と事実だけを伝える。

「望月平五郎が脳梗塞に至った遠因もそれよ。思い悩んだあげく莫大な富――紙屑同然になる資産を手放すんだものね。それもわたしから搾取した」

「戦争はないけど、戦争よりも怖ろしい…」

「その世界では下地島基地は民間空港のままだし、そもそも戦争どころじゃない。スカイダンシングも存在しない。あれ、あなたのライフワークだったわよね。どう? こっちに来る?」

敦彦の三白眼が完全に死んでいる。

「いいや、まっぴらごめんだ。さようならだ」







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