予防的抑止力

 つづいて、政府広報が日本人の海外旅行離れを揶揄している。

 日本人は911以降、すっかり委縮してしまった。

 予防的抑止力展開と積極的自衛行動によって、日本人の活動範囲拡大が求められている。

 つまり、日本人のいるところは「安全」なのだ。

 セブ島では、同時多発テロ以降、日本人以外の客足はもどったという。

「予防的抑止に積極的自衛…か」

敦彦は整ったベッドシーツを大の字で乱した。臆病者の詭弁だ。遠慮がちな言い回しが暑苦しい。殴りたいなら四の五の言わずに殴ればいいのに。思わず頼子の口癖が出た。睦月家は厳格で保守的な家系だ。鈴木敦彦という男を最初は病原菌のように拒んだ。事実婚。今でこそ聞こえがマシになったが入り婿を待ち侘びる名家にとってはあり得ない選択肢。それでも頼子を守りたかった。追い詰められた小動物を思わせる瞳が保護欲と情欲をそそるのだ。馴れ初めは那覇空港のフードコートだった。豚肉たっぷりの焼おにぎりを頬張っていると目の前で人が倒れた。キューピッドの運んできた熱中症に浮かされて映画的な恋が芽生えた。「スカイダンシングの現地取材ロケハンに出かけて嫁をお持ち帰りとは順風満帆だな」

開発部長がスピーチで揶揄するほど道のりは平たんでなかった。昭和の末期に生まれた彼女は戦中の精神論がこびりついた家庭で怯えながら育った。抑圧された女が病まない方がおかしい。あの日、何度目かの脱出に失敗した頼子は国内線を幾つも乗り継ぎ沖縄に迷い込んだ。所持品はクレカ一枚とサマードレスに包んだビキニ。猛暑耐性のない女に不自然な格好だ。しかし、本人は弄ばれてボートから捨てられる脚本を妄想していた。

「出来すぎた陥穽だ」

罠に気づいた頃、敦彦は二児のおむつ交換に睡眠時間と体力を消耗していた。それに妻の束縛と嫁実家の過干渉。コンピューター屋の仕事を「いい歳」で卒業した後は睦月の養子になる条件だった。「わかりました」

彼は娘達に東京を見せてやりたい、と偽って新居を移した。そして、そのまま関係断絶した。睦月家は不動産業で財を成したが地元の評判は芳しくない。敦彦は事実婚を押し通し、西葛西のマンションから都内に通った。

頼子の鬱屈は末の娘が小学校に上がって悪化した。

「どうして君はそんなに震えてる。何を怖がっているんだ」

観測史上最大の台風が関東に接近する夜、荒天の前哨が暴れまわるベランダで髪を逆立ている妻に迫った。

「怖いんじゃないわ。涼んでいるの…そう遠くない将来に何もかもが吹き飛ばされて、誰も彼もが離れ離れになっちゃいそうな気がして…スッキリするかもね…でも、こわいの」

女の棲む世界は夢と恋と不安が主成分だという。漠然とした恐怖感が横たわっている。そのストレスがヒステリーの源だと敦彦は聞きかじっていた。

それに効く魔法の言葉も。

「だから俺が守ってや…」

「盾になってくれるのね。嬉しいわ! でも、倒れたり壊れたりしない盾ってあるかしら?」

それが不安だというのだ。

「Something's gotta gives(ほうってはおけないよ)」

無条件かつ無償の愛を意味する男の殺し文句が意図せず出た。

凍えた妻をカーテンごと抱きしめ、部屋に連れ戻した。きゅっと甘噛みするような爪が二の腕に心地よかった。

それからも、周期的な将来不安が頼子を襲った。

スカイダンシングの事業は大成功をおさめ、所属していたゲームスタジオも独立して東証一部に上場した。開発部から営業部の統括マネジャーに昇進した敦彦は余剰時間を妻や娘達の治療に費やした。

「一体、君たちは何に怯えているんだ。そして何を考えてる」

男の鬱は深まっていった。




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