第195話 感謝
結婚式前夜。
設営を終えたあおい荘は、早々に消灯していた。
正面玄関から伸びたバージンロード。当日には赤い絨毯が敷きつめられる。
新郎新婦の立つ場所はサークル上になっていて、周りを花が彩っている。
バージンロードを挟んで両サイドに設置された椅子には、花やリボンが装飾されていて、見慣れたはずの庭がまるで違って見える。
食堂は披露宴会場としても利用することになっていて、壁や天井にも装飾が施されていた。
菜乃花だけは遅くまでかかって、ウエディングケーキを作っていた。試作品を繰り返し作り、あおいたちに試食してもらい、ようやく決めたケーキ。菜乃花が汗を拭いながら、嬉しそうにその出来栄えに満足していた。
静まり返ったあおい荘。
栄太郎と文江の部屋には、直希が来ていた。
「バタバタしたけど、何とか間に合ったな」
こたつを囲み、三人が談笑している。
栄太郎たちにとっても、大切な孫の待ちに待った結婚式。感慨もひとしおだった。
文江は既に感極まっている様子で、昔話をしながら何度も涙ぐみ、栄太郎にからかわれていた。
「今回は俺、何の手伝いもさせてもらえなかったからね。本当、みんなには感謝しかないよ」
「明日の結婚式、西村さんが全部任せろと大見得切ってくれたんだ。その気持ちに感謝しないとな」
「うん」
「それにあおいちゃんたちも、色々と動いてたみたいだしな。まあ当日のお楽しみと思って、今日は眠れぬ夜を過ごすといいさ」
「ははっ、なんだよそれ」
「にしても……わしらにとっては本当に長かった。お前を引き取ってから今日まで、わしらはずっとこの日を夢見てた。そのはずなのに……なんだろうな、少し寂しくもあるんだよな、これが」
「じいちゃん……」
「明日のお前の晴れ姿、直人たちにも見せてやりたかったな」
「……うん」
その言葉に、文江がまた涙を拭った。そんな文江に微笑みながら、栄太郎が続ける。
「やっとお前が、自分の意思で幸せに挑む決意をした」
「幸せに挑むって……表現おかしくない?」
「何もおかしくはないさ。幸せってのはな、直希。黙って突っ立ってても来てはくれないんだ。自分が望み、動いてつかむ、それが幸せってもんなんだ。逆に不幸ってやつは、何もしなくても勝手にやってくる」
「……そうだね」
「その幸せからお前は逃げていた。言ってみればお前はこれまで、その努力を怠ってきた。だからな、直希。これから大変だぞ」
「あまり脅さないでくれよ」
「しかもお前にはこれから、守るべき大切な家族が出来るんだ。これまでのような生き方をしてたら、あっと言う間にどん底に落ちてしまうぞ」
「……式を控えた孫に言うことなのかな、それって」
「そうだとも。結婚を控えてるからこそだ。いいか直希、結婚式ってのはな、ある意味お前が主役なんだ」
「いやいや、つぐみだろ主役は」
「勿論つぐみちゃんも主役だ。何と言っても花嫁ってのは、その場に咲く一輪の花だからな。でもな、結婚式ってのは、ただのお祭りじゃないんだ。
時代が変わろうが価値観が変わろうがわしは言う。お前はこれから一家の大黒柱になるんだ。城の主になるんだ。つぐみちゃんは勿論、これから生まれて来る子供たちのことも、お前は死に物狂いで守らないといかんのだ。
その誓いをする、それが明日なんだ。お前がこれまで繋がってきた大切な人たちの前で、それを誓う。だからな、直希。明日の主役はお前なんだ」
「……ありがとう、じいちゃん」
そう言った直希は、真顔になるとこたつから出て、正座して二人に向かい手をついた。
「……」
その姿に栄太郎も真顔になる。文江も持っていた湯飲みを置き、愛する孫を見つめる。
「じいちゃんばあちゃん……」
声を出すと、既に震えていた。
「……今日まで……今日まで本当にっ……」
そこまで言って、嗚咽で言葉が続かなくなった。
畳の上に大粒の涙が落ちる。
肩が震え、感情が抑えられなくなった。
なぜ泣いているのか。
感謝なのか喜びなのか。
それとも謝罪なのか。
自分でも分からなかった。
だが涙は止まることなく、感情を震わせる。
直希は言葉を続けようとした。しかし言葉にならなかった。
そんな孫の姿に文江も目頭を押さえ、何度もうなずいた。
ようやくたどり着いた孫の幸せ。これまでの日々を思い返し涙が止まらなかった。
「きょ……今日まで……」
直希が言葉を絞り出す。止まらない感情、しかしこれだけは言わなくてはいけない。
自分を愛し、守り続けてくれた最愛の二人。その二人にこの言葉、今言わなくていつ言うんだ。
そう思い、額を畳に擦り付けて続けた。
「今日まで本当に……ありがとうございました!」
決して格好いい姿ではなかった。
言葉と同時に号泣した。
声にならない声をあげ、肩を震わせる。
大の男が祖父母の前で泣き崩れる。
栄太郎は涙を拭くと、「おうさっ!」と笑顔で応えた。
文江は直希の傍らに跪くと、肩を抱いて一緒に泣いた。
その仕草に直希の感情は更に震え、涙がまた流れて来た。
「ナオちゃん。本当によかったね……幸せになるんだよ、あの子たちの分まで」
「ばあちゃん……ばあちゃん……」
「あの子たちもきっと、天国で泣いているよ。喜んでいるよ」
「うん、うん……」
もっともっと、言いたいことがあった。
この部屋に入るまでに、たくさんの言葉を考えて来た。
これまでの謝罪、今まで育ててくれた感謝の気持ち。
これからも元気でいてください、これからも見守って下さい。
頑張ります、だから二人共、ずっと俺の傍にいてください。
しかし言葉にすることが出来なかった。
「今日まで本当にありがとうございました」
それしか言えなかった。それ以上、何も言えなかった。
日頃から何の気なしに使っている、ありふれた感謝の言葉。
そのはずなのに、それ以上の言葉が出てこなかった。
それ以上に伝えたいことなど、何も思い浮かばなかった。
直希は泣いた。
文江に抱き締められ、泣いた。
ばあちゃんにこうして抱き締められるのは、いつぶりだろう。
俺は子供の頃から、こんな風に二人の前で泣いたことはない。
自分は泣いちゃいけないんだ、その資格がないんだ、そう思って来た。
ああ、そうか……二人の前で泣いたこと、一度だけあったな。
街を二つに割った、二人の大喧嘩の時。
でもあの時の涙は、今の涙とは違う。
あの時は二人に対して、僕だけが生きててごめんなさい……そんな気持ちで泣いていた。
でも今、止めようとしても止まらないこの涙。
何だろう……心が温かくなっていく。
背中に落ちるばあちゃんの涙。
その一つ一つが、俺の中に染みわたっていく。温かくなっていく。
ありがとう、ばあちゃん。
ずっと見守ってくれて。
俺、がんばるよ。
だからばあちゃん……これからもずっと、一緒に笑っててくれよな。
じいちゃん。
ありがとう。
元気になってくれてありがとう。
俺を支えてくれてありがとう。
これからも体、大切にしてくれよな。
そして……
父さん母さん。
ありがとう。
俺は明日、結婚します。
天国から見守っていてください。
明日は最高の笑顔で、あなたたちに感謝の気持ちを捧げます。
俺を生んでくれてありがとう。
あなたたちの子供に生まれて、本当に幸せです。
俺はきっと幸せになります。
あなたたちの分まで。
奏。
駄目な兄ちゃんでごめんな。
やっと明日、兄ちゃんは結婚します。
奏にも兄ちゃんの晴れ姿、見て欲しかった。
でもきっと、見てるよな。
兄ちゃんはこれからも、お前のことを忘れないよ。
俺のたった一人の可愛い妹。
これからも俺と一緒に、生きていこうな。
栄太郎が、文江に抱きしめられる直希の姿に涙する。
そして直人、静香の遺影を見つめ、嬉しそうに笑い、涙を拭った。
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