第190話 二人だけの思い出
「あなたのことが好きだった」
涙を拭き、つぐみが言葉を続ける。
「あの日、あなたと駆け落ちしてここに来て、あなたと二人だけで結婚式を挙げて……確かにあの時は、そういうことに憧れている気持ちの方が強かった。映画の影響もあったと思う。
でも、でもあの時……助けに来てくれた生田さんに叱られて、私は本当に怖かった。もし足が動くのなら、私はあなたを見捨てでもここから逃げ出したい、そんなことまで思ってた。でも怖くて、足も動かなくて……なのにあなた……ナオちゃんは違った。ひょっとしたら私よりも震えていたかもしれない。怖かったと思う。だってあの時、生田さんが誰かなんて私たちは知らなかったんだから。本当に怖かった。なのにナオちゃんは……私を守ろうとしてくれた」
「……」
「震える足で私の前に立っていた。生田さんに、私をいじめないでって言ってくれた。その後姿を見て、私は……怖くて仕方がないのに、胸に温かいものが込み上がっていった。
今すぐあなたを抱き締めたい、あなたに抱き締められたい……この人の傍にずっといたい、そう思った」
「俺は……父さんから言われてたんだ。女の子は守らなくちゃいけないって。今考えたら、何だよそれって感じなんだけどな。でも俺はあの時、思ったんだ。
頭がよくて性格もちょっときつい、誰に対しても
「……」
「人を好きってこと、俺もよく分からなかった。でも俺はあの時、お前のことが好きなんだって思った。
俺にとって大切な人。じいちゃんばあちゃん、そして父さん母さん。そこにもう一人名前を載せるなら、お前しかいないって思ってた。俺の生きる世界で、絶対にいなくなってほしくない大切な人……そう思ったら、それは好きってことなんじゃないかって思った。
お前とずっと一緒にいたい。お前の笑顔が見たい。だからその、お前が喜んでくれると思って、べっぴんさんって言った」
「……ごめんなさい、あのことは本当に、悪かったと思ってるわ」
「ああ、そうしてくれ。言ってなかったけど、正直言って俺、今でもあの時のことを思い出すと胸が痛むんだからな」
「そうだったの?」
「ああ。こういうのを、幼少期のトラウマって言うんだろうな」
そう言って笑うと、つぐみは「何よそれ」と、口をとがらせてうつむいた。
「でも俺……駆け落ちの後お前から距離を取られるようになって、本当に落ち込んだんだぞ」
「だってそれは……ごめんなさい、私のせいよね。私はナオちゃんに迷惑をかけてしまった。もう二度と、ナオちゃんに辛い思いをさせたくない、そう思った。早く大人になって、ナオちゃんに心配をかけないようになって……そうなってからナオちゃんの所に戻るんだ、そう思ったの」
「でもそうしている内に、父さん母さんが死んでしまった」
「……」
直希とつぐみ、二人が真っ暗な海に視線を移した。
「色んなことがあったよな、俺たち」
「でも……あなたは変わっていった。自分でも気付いてないかもしれない。でも間違いなく、時間があなたを癒してくれた」
「人も……だな」
「人?」
「ああ。これまでたくさんの人と出会った。人と触れ合うってのは、言ってみれば自分の知らない人生に触れるってことだろ?自分が持っていない、自分の知らない価値観と触れ合うってことだろ?それが俺の中に、少しずつ少しずつ染み渡っていった」
「……面白い考えね。でも……うん、あなたらしいわ」
「あおい荘でたくさんの人たちの人生に触れて、自分の生きている世界がどれだけ狭いのかを思い知らされた。自分が楽しいと思っていることも、辛いと思っていることも……不幸だと思っていることも、実は大したことじゃない。世の中には俺の知らないものが満ち溢れている、そう思うようになっていった」
「……」
「そして俺は、その人たちの大切な想いも感じていった。菜乃花ちゃん、明日香さん、そして……あおいちゃん……」
つぐみが小さく笑いうなずいた。
「みんな必死に生きている。頑張って毎日を戦っている。そんな彼女たちに好意を向けられて……嬉しかったよ」
「そうね。不幸自慢しか出来ないあなたには、勿体ない面々よね」
「……酷くないか、それ」
「でも……気持ちは分かるわ」
「つぐみ?」
「私があなたのことをいつ好きになったのか、よく覚えていない。さっき言った、駆け落ちの時の記憶が一番古いとは思うけど、それでもあの時がそうだったのかは分からない。きっかけにはなったと思うけど……
だから私、考えるのをやめたの。こういうのは頭で理解するものじゃない、心で感じるものなんだって思うようになった」
そう言って笑ったつぐみの目に、涙が光った。
「だからね、そんな直希が決めたことなら……私は受け入れなくちゃいけないって思ってる。あなたが選んだ人。それは……あなたの心が求めた人なんだから」
何度も何度も涙を拭う。感情が溢れそうになり、肩が震える。
それでもしっかり伝えよう、そんな気持ちを胸に、つぐみが声を震わせながら言った。
「あおいのこと、大切にしないと駄目よ」
「……」
言い終わると、がっくりと肩を落としてうなだれた。
石段に涙が落ちる。
「やっぱりな……お前のことだから多分、そうなんだろうと思ってたよ」
直希がつぐみの頭を乱暴に撫で、大きく息を吐いた。
「つぐみ。こっちを向いてほしい」
「嫌……嫌だよ、今は……こんな顔、見せたくない……あなたの今の顔、見たくない……」
震える声は、更に感情を大きくした。これ以上、私を苦しめないで……祈る思いでつぐみが膝に顔を埋める。
そのつぐみの前に座ると、直希はつぐみの頬に手をやった。
「嫌!嫌だって言ってるでしょ!」
つぐみが声を上げて拒絶する。酷い仕打ちだと直希を責める。
「離して、離して!なんでこんなことするの?私がどれだけ我慢してるか知らない癖に!どんな思いであなたと話しているか、知らない癖に!」
手を振りまわして叫ぶ。直希にその手をつかまれると、更に激しく動かした。
「もういいから!お願いだからこれ以上何も言わないで!」
「つぐみ!」
直希の一喝に、つぐみが動きを止めた。そして力なく腕を下ろすと再びうつむき、「もう……やめて……」そう囁いた。
そのつぐみの頬に手をやると、ゆっくりと自分に向ける。
力尽きたつぐみが顔を上げる。涙は止まることなく流れている。
つぐみは目を閉じたまま、「もう……いいから……」と何度も繰り返した。
「つぐみ……この言葉だけは、お前の目を見てないと言えないんだ。お願いだ、目を開けてくれ」
「酷い、酷いよ直希……どれだけあなた、私を苦しめるのよ……せっかく綺麗にお祝いしようと思ってたのに……笑顔で祝福しようと思ってたのに……」
「すまん。でもお願いだ、目を……開けてくれ」
もういいや、どうでもいい……答えの分かっていることを聞く、それでこの地獄から解放されるのなら……そう思い、つぐみがゆっくりと目を開けた。
涙で歪んだ景色。
そこにはずっと想い続けてきた幼馴染、直希がいる。
「つぐみ……」
優しく涙を拭い、直希が口を開いた。
「俺と……俺と結婚してくれ」
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