第189話 私の大切な場所
「……」
後部座席に並んで座ったしおりとあおい。
あおいはうつむいたまま動かず、そんなあおいを見て、しおりもため息をついていた。
「だからあの時、動くべきだったんです」
車を走らせてしばらくして、しおりが口を開いた。
「そんなに泣いて……目も腫らしちゃって」
頭を優しく撫でると、あおいは肩をビクリとさせた。
「こんなあなた、見たくなかった。だから言ったのよ」
「でも……」
「でも、何かしら」
「これでよかったんだと思いますです」
「そうなの?」
「はいです……私は直希さんのことが大好きです。振られてしまった今でも、その気持ちは変わってませんです。私は直希さんと出会って、直希さんに恋をして……本当に幸せだったです」
「……」
「直希さん、ずっとつぐみさんのことが好きだったんです。つぐみさんも勿論、直希さんのことを想い続けていて……でも直希さん、そのことから目を背けてきました。自分にはその資格がないって」
「つぐみさん、ね……少しだけ会ったけど、あの子が新藤直希の想い人なのね」
「はいです。二人はずっと……私には想像出来ないぐらい長い時間、同じ時間を過ごしてきました。それはきっと、二人にとってはかけがえのない時間だったと思いますです。楽しいこと、嬉しいこと。苦しいこと、辛いこと」
「……」
「私に勝ち目なんて、初めからなかったんです。私が入り込める場所なんてなかったんです……例えあの時、私が直希さんに迫っていたとしても、きっと直希さんは受け入れてくれなかったと思います。直希さんは、その……勢いだけでそういうことが出来る人じゃないですから」
「でも後悔……してるわよね」
「……勿論です。私は直希さんのことが好きで、想いが届くことを願ってましたから。今、それが届かないんだと分かって、心も……体も痛いです」
「……分かったわ。もういい」
「姉様……」
「それだけ辛くなれるほどの恋をした。姉としては、その……成就してほしかった。でもこればかりは、どうすることも出来ない」
「……」
「今日はしっかり泣きなさい。明日からまた、笑えるようになる為に」
「はいです……はいです……」
「ほんと、この子は……来なさい、あおい」
そう言ってあおいを抱き寄せると、またあおいの感情は揺れた。
「私、私……直希さんのことが好きでしたです……」
「……そうね」
「直希さんは私にとって、王子様でしたです……子供の頃からずっと憧れていた、私だけの王子様……でもそれは、私が思っていただけでした」
「そうなのかも……ね……」
「直希さん……直希さん……」
「いいのよあおい、ここには新藤直希はいない。いるのは私だけ。強がらなくてもいい、気にしなくてもいい」
「姉様……はいです、もう少しだけこのままで……このままでいさせてくださいです……」
「遠慮しないで。こうなること、薄々分かってました。だから今日、ここまで来たんです。
私はあなたの姉。姉が妹を慰める、当然のことなんだから」
「はいです……ありがとうございますです、姉様……」
東海林医院に着いた直希は、大きく深呼吸するとインターホンを押した。
「はい、どちら様ですか」
そう言って扉を開けたつぐみは、直希の姿に顔を強張らせた。
「直希……なんでここに」
「ちょっといいか。話があるんだ」
「話……今じゃないと駄目かしら」
「ああ、今だ」
「でも私……今日はちょっと用事があって」
「頼む。どうしても今日、お前に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
「……勝手なことばかり言って」
「すまん、自分でもそう思ってる」
「でも……あなたがそうなっちゃったら、誰にも止められないものね」
「……」
「ちょっと待ってて。準備するから」
そう言って扉を閉めると、つぐみはため息をついて部屋に戻っていった。
「どうしてここなのかしら」
着替えを終えたつぐみが連れてこられた場所。それは幼い頃に駆け落ちをし、そして卒業式のあの日、直希に告白した海岸だった。
「ここがいいんだ。と言うか、ここじゃなきゃ駄目なんだ」
そう言って車を降りると、つぐみに石段の辺りに座ってる様に言った。
「……」
直希が何を言おうとしているのか、つぐみには分かっていた。
今日あおいと出かけ、二人は付き合うことになった。そのことを自分に報告するんだろう。
でもそれなら、何もこんな場所に来ることないじゃない。
私にとって、大切な思い出の場所に。
そう思うと、直希のデリカシーのなさに少し腹がたってきた。
今日だけは二人の顔を見たくない、見る勇気がない。
笑顔で「おめでとう」と言える自信がない。
そう思って実家に戻ったのに、わざわざこんな場所に連れ出して、私の傷をこれ以上深くしないでほしい、そう思った。
「おまたせ」
缶コーヒーを持った直希が戻って来て、隣に座った。
「ほら、これ」
そう言ってつぐみに差し出す。受け取るとそれは、砂糖入りのコーヒーだった。
「ちょっと直希、私はブラックだっていつも」
「もうその必要がないから」
「え……」
そう言った直希の言葉の意味が、つぐみには分からなかった。
「お前はあの日から……駆け落ちした時から、早く大人になるんだって決めた。そうすることが、大人ぶって迷惑をかけた俺に対する償いだと信じてな」
「……」
「ブラックを飲むのもその一つ。卒業式の日、そう言ったよな」
「……言った」
「でもそんなこと、もうしなくていいんだよ。だってお前は立派な大人なんだから」
「……そんなこと……ないわよ。私は今だってずっと、あの頃から何も変わってないんだから」
「偏屈なところは確かにそうだな」
「……悪口を言いたいだけなんだったら帰るわよ」
「ははっ、悪い悪い、そういう意味で言ったんじゃないんだ……なあつぐみ、俺な、お前に伝えたいことがあるんだ」
「でしょうね。家にまで押しかけてきたんだし」
「お前とは本当、長い時間を一緒に過ごしてきた」
「……」
「俺の思い出の中に、お前がいないことなんてほとんどなかった。子供の頃だってお前、いつも俺の傍にくっついてたし。確かに別々の大学に入ってからは、会う回数は減った。でもお前、自分の勉強で忙しい癖に、時間を見つけては俺に会いに来てくれた」
「……目を離すとあなた、何をするか分からなかったからね。監視してないとって思ってたのよ」
「酷いな、それ。俺ってどれだけ信用ないんだよ」
「……だってあなた!直人おじさんたちが亡くなってからずっと、生きることを苦痛に思ってたじゃない!私は、私は……そんなあなたが怖かった。あなたがいつこの世界から消えてしまうか分からない……そう思ったら怖くて仕方なかったのよ!」
涙を浮かべ、つぐみが直希を睨む。
「どんな思いであなたの傍にいたか分かる?毎朝迎えに行って、あなたの顔を見てどれだけほっとしたか分かる?それぐらいあなたは儚い存在だった。もしかしたら今いるあなたは、夢なんじゃないかって……ひょっとしたらあなたはもう、この世にいないんじゃないかって……そう思ったら怖くて怖くて……どうしようもなかったのよ!」
涙がこぼれる。
違う。こんな話、するつもりじゃない……そう思いながら言葉を続け、つぐみは肩を震わせた。
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