第187話 抱擁


「俺は今まで、ずっと幸せから目を背けて来た」


 直希の言葉を何一つ聞き漏らすまいと、あおいが直希を見つめる。


「そのせいでこれまで、たくさんの人を傷つけて来た。じいちゃんばあちゃんは勿論、入居者さんたちも、そしてあおいちゃんやつぐみたちにも、迷惑をかけてきた。でもそれでも、こういう生き方しか出来ないんだって思ってた。

 それがあの日、あおいちゃんに懺悔して、背負っていた十字架が消えていくのを感じた。心が、体が軽くなっていくのを感じた」


 あおいが微笑み、小さくうなずく。


「そしてあおいちゃんから罰をもらった。幸せになるという罰を。正直言って、あの時は意味がよく分からなかった。言葉通りにしか受け止めることが出来なかった。

 あおい荘に戻ってからこの一か月、その言葉の意味をずっと考えていた。そして気付いたんだ。

 俺には幸せになる資格がない、ずっとそう思って来た。でもそうじゃないんだって。実は俺は、不幸に依存していたんだって。

 菜乃花ちゃんに告白された時に思った。いつもの俺なら、俺にはその資格がない、そう言って断ることが出来た。でも今、あおいちゃんに罰を与えられた俺は、幸せにならないといけなくなった。そう思ったら……急に菜乃花ちゃんの告白が怖くなった。人から好意を向けられることの怖さ、他人でなく自分の為に行動しなくてはいけないことの大変さが、肩にのしかかってきたんだ。だからうろたえた。怯えた。俺は不幸に依存していたんだ、そう思ったんだ」


「昔の方がよかったですか?」


「うん、正直……前の方が楽だったと思った。自分のことは置いておいて、ただただ人の為に考え、動きたい。その方が自分にとって、ずっと楽な生き方だったんだって思った」


「ふふっ、直希さんは本当、面白い人です」


「俺もそう思うよ。改めて自分が、いかに面倒くさい人間か思い知った気がした」


「でも私は、そんな直希さんだから好きになったんだと思います」


「俺は……あおいちゃんやつぐみ、明日香さんや菜乃花ちゃん、みんなの想いに守られてきた。みんなが俺の幸せを望み、願ってくれた。だから今、俺はその恩に報いる為にも考えなくちゃいけないんだって思った。勇気を持って自分と向き合おう、そう思った。そして……答えにたどりついた」


 そう言うと、あおいに向かい静かに頭を下げた。


「あおいちゃん……ごめん、俺はあおいちゃんの想いに応えることが出来ない」





 波の音が聞こえる。

 優しく、そして心地よく。

 耳に届くその音に、あおいは目をつむり身を委ねた。

 迷い、悩んでたどり着いた自分の想いに今、答えが出された。

 その答えを、私は受け止めよう。

 直希さんは私よりもずっと、悩んでくれたはずだ。

 だから私は受け入れるのだ。この残酷な答えを。

 あおいがゆっくりと目を開けた。


「……頭を……上げてくださいです、直希さん」


 あおいの震える声が聞こえる。

 直希がゆっくりと顔を上げた。

 その視線の先には、頬を涙で濡らすあおいの、精一杯の笑顔があった。


「私、言いましたです。ずっと直希さんを見てきたって……直希さんが何を思い、何に迷ってるか、そのことばかり考えてましたです……私は誰よりも直希さんを見て来ましたです」


「……」


「だから……直希さんがどんな答えを出したか……分からない訳がないじゃないですか」


「あおいちゃん……」


「……私の告白を断るのは、私と付き合うことが嫌だから……なんでしょうか」


「……いや、そうじゃない……俺もあおいちゃんのこと、大好きだ」


「ありがとうございますです……でも……今はその言葉、本当に辛いです」


「……ごめん」


「直希さんは決めたんですね。その人のことを愛するんだって」


 あえて名前は出さなかった。今出してしまえば、心が壊れてしまう。そう思った。


「うん……」


「その人は直希さんにとって、本当に大切な人なんですね」


「うん……俺は……ずっとその人のこと、苦しませてきた。哀しませてきた。不幸に酔ってる俺のことを、ずっと見守ってくれていた。支えてくれた。

 その人が俺の気持ちに応えてくれるか、正直分からない。自信もない。それぐらい俺は、その人の気持ちを踏みにじってきたから。

 でも、俺はもう恐れない。想いが届かなくても、俺はその人だけを愛していきたい。今まで俺を支えてくれた彼女を、今度は俺が支えていきたい、そう思った。

 あおいちゃん……本当にごめん。あおいちゃんは勇気を出して、俺に告白してくれた。今までだってずっと、俺の力になってくれた。あおいちゃんがいなかったら、きっと俺は今、こうして笑っていなかったと思う。あの夏の日、君に出会えたから今の俺がある。だけど俺は……あおいちゃんの気持ちに応えられない」


 そう言ってもう一度頭を下げた。


 その直希の頬に手を差し伸べ、触れる。


「直希さん……私、嬉しいです。やっと直希さんが、直希さんの為に考えてくれたんです。自分の幸せを思い、答えを出してくれましたです。

 でも、でも……どうしてでしょう……嬉しいはずなのに、私……涙が、涙が止まりませんです……直希さんに告白したことを後悔してますです……」


「あおいちゃん……」


 あおいの頬に、幾重にも涙が流れる。

 それでもあおいは笑おうとした。震える唇に力を込め、笑顔を作ろうとした。

 しかしやがて、心の糸がぷつりと切れたように、肩を大きく震わせた。

 ひっくひっくと肩が揺れる。


「私、私は……風見あおいは直希さんのこと、本当に好きでした……あなたの隣にずっといたい、そう思っていましたです……」


 言葉は嗚咽へと変わり、何を言っているのか分からなくなっていった。

 大好きな直希の顔が涙で歪む。

 涙を止めたい。でも止まらない。

 肩が揺れ、体が震え、そしてやがてその想いが、声にならない声となって口から放たれた。




「うわああああああああっ!」




 直希の前で、あおいが子供のように泣きじゃくった。

 膝が震え、立ってはいられなくなり、そのまま地面に崩れていった。


「うわああああああああっ!うわああああああああっ!」


 直希は跪き、あおいを抱き締めた。

 目には涙が光っていた。

 直希に抱かれたあおいは、更に感情を膨らませた。


 あの暑い夏の日、私はあなたと出会った。

 あなたは私を助けてくれた。大切な居場所を与えてくれた。

 そして……私に恋を教えてくれた。


 直希との思い出が駆け巡る。

 楽しかったこと、嬉しかったこと、幸せ過ぎて泣いたこと。

 思い出は止まることなく巡り、溢れそうになった。

 そしてぐちゃぐちゃになった頭の中で、様々な感情が言葉となって巡っていった。


 これでいい、これでいいんだ。

 直希さんは今、一番正しい選択をしたんだ。

 でも、それでも……どうしようもなく哀しい。


 身が引き裂かれそうだ。


 私はこんなにも、この人のことを愛してたんだ。

 こんなにも愛せる人に出会えたんだ。

 だから……そのことを喜ぼう。

 この出会いを喜ぼう。

 私は世界で一番幸せだ。

 そして今……世界で一番不幸なんだ。


 私を抱き締めている直希さん。

 想いが届いた抱擁なら、どれだけ幸せだったろう。

 本当に優しい人だ。

 でも今は、その優しさが辛い。

 そう思ってるのに。

 でも……

 今は私を抱き締めてほしい。離さないで欲しい。

 この涙は、あなたとの決別の為の涙なんだ。

 どれだけ求めても、二度と手に入らない温もり。

 二度と求めてはいけない温もり。

 だからもう少し、もう少しだけこのままでいさせてほしい。




 波のぶつかる音、漆黒の海から届く凍てつく風。

 それらをかき消すように、あおいの声が響いた。



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